寝起き閃き 塩分濃度…からまさか津軽じょんがら節へ。故事が先人の意志の形象として阿呆陀羅経として再確認しなければいけないお話
寝起き閃きワード えんぶん?
( ¯꒳¯ )ᐝえんぶん…塩分、海、波、母なる海に含まれる縁…
いい塩梅の塩分の縁の…円?
四角の界隈は22、中心の円分は78のいい塩梅?
塩っ辛い…じょんがら?
慶長2年(1597年)に落城した城主の霊を慰めるために、家臣達が唄ったものだという。”じょんから”とは「上河原」という地名をいう。 上河原に城主の墓地があり、同情と哀調を唄に作ったのが、始まりと言われている。
じょんがら」は「常縁河原」のなまり。 2.江戸時代、阿呆陀羅経を語り物にして節をつけたものを唄う門付け芸人を「ちょんがれ坊主」といった。 その「ちょんがれ坊主」の唄「ちょんがれ節」が各地に広がり、輪島ちょんがり節や津軽じょんがら節となった。
なかなか耳慣れない「じょんから」という言葉は、「常縁河原(じょうえんがわら)」という地名が元になっています。 青森県の黒石市を流れる浅瀬石川に常縁という僧侶が身投げをし、その一帯が「常縁河原」と呼ばれるようになり、それ が「上河原(じょうがわら)」「じょんから」へと変化していったと伝えられています。
ふむ( ・・ )城主が坊主に上手に諸説色々あるけれど、今朝の私の『えんぶん繋がり』で言えば
常縁河原(じょうえんがはら)だろう
『坊主』と『死』と『遺された伝承』というケースの多くは、実際にそれがあったというより、『何かを例えた説法』のケースがある
『名は体を表す』という意味で考えれば、この坊主の名が『常縁』
そうなるとこれも絡んでくる
落城した『城主の霊』
落城=焼き払われて『炎上』
かつてここに『城』があり、『城主』がいたが、今は焼き払われて『仏』となった。そういう意味で捉えると、『君主を失った家臣や同士達』が、歌でそれを伝承したという説も『いい塩梅』になるのが・・
阿呆陀羅経
経文の読み方をまねて『時事を風刺』した、こっけいな俗謡。
HAHAHA( ̄▽ ̄)納悳 Σ(゚д゚;)
『故事』を知り、『現代の出来事』に当てはめる、『温故知新』で『世の中は阿呆だらけ』と『真理』を解く
まさに『アソベの民(津軽・青森)』の言霊遊び
なるほど道理で、『能登にシンパシー』を感じる訳だ
おそらく、日本海側の海洋交易ルートがあった『同士達』だったのかな
『武士』は食わねど高楊枝 は『痩せ我慢』
『節』は食わねど高楊枝 は『お腹いっぱい』
津軽じょんがら節
これは歌詞の37番だけど、なかなかに興味を引く語りをピックアップする
8番 ○アー佐渡はおけさで出雲は安来 江差追分秋田じゃおばこ 私ゃ津軽のじょんがら節よ
53番 ○アー秋の取り入れ俵に入れて 倉に積み上げ大黒恵比寿 汗水流したお百姓さん
74番 ○アー津軽浅瀬石名の出たところ 過ぎし昔は慶長二年 津軽為信大軍向けて
75番 ○アー城主政氏討死になさる 時に神宗寺常椽(じょうえん)和尚 先祖代々位牌を背負い
76番 ○アー城の崖から身を躍らせて 恨みは常椽河原淵 いつか春過ぎ真夏となりて
77番 ○アー村の子どもら水浴びすれば 砂の中から哀れな姿 村人手厚く葬りて ここに生まれたじょんから節よ
ちなみに、この長さで・・78番まである(笑)
玖珠ちょんがり節
ちょんがりは、江戸時代の中期に盛んになり、「ちょんがれ」、あるいは「ちょぼくれ」といって念仏聖(ひじり)くずれの願人坊主門付けのもらい芸人(僧形)たちが鉦や太鼓、ささら、ほら貝、その他あり合わせの樽や皿を巧みに伴奏に使った。
唄は、世相を風刺したり、土地の名を巧みに歌い込んだり、数え唄を作ったり、軽妙に歌い並べて当意即妙にこなしながら人々を喜ばした。
奥能登には、平安時代、流された平家の子孫「時国」家に、その昔、村人たちが集まって、民俗学的にも貴重な庭踊りを唄い踊ったのが「ちょんがり」だといわれ、奥能登一帯に知られているようだ。大方、願人坊主たちが諸国に持ち歩いた「ちょんがれ」の流れではなかろうか。
有名なキリコ祭りやお盆には、夜を徹して唄い踊り、若者は毎晩部落から部落へと会場を渡り歩いたという。若者は機知に富み、当意即妙もあり、自由に歌う素朴さが今に伝わっている。
渡る世間は阿呆陀羅経
『故事』に例えた『時代落語』のような物語を語り伝える伝承の技
『刀』を三味線に変えて『語る心に刃』を持つ
武士は『節(言霊)』という『常縁』に変わった
城主=堕落した武士の想いが『常縁』
『常に縁』として君主を『節』に遺し伝承していく
それを語るは落ちぶれても『元武士』の浪人
武士は食わねど『節』で胸いっぱいの想い出高楊枝
…という『縁』の話が『塩分→塩っ辛い(涙)→しおから→じょんがら』で出てくるという
面白い導き‹‹\( ˙▿˙ )/››神楽
まさに言葉は『量子力学』
あらゆる『認知変化の可能性』を持っている
『与えられた意味ひとつ』なんてもったいない
現代の多くの人は『じょんがら節』という『地方特有の伝統芸能』として『三味線を弾く曲目のひとつ』として認知してるから
上手くなろう
かっこよく引こう
形から入ろう
『音楽』だと思っている
しかし、じょんがら節のルーツが、『落城した武士達の想いを込めた節』という『物語』であり、その城主を『歌詞の中』に『常に縁ある仏』として取り入れ『後世まで歌い語り継がれる説法』にした
これはまさに『恩楽』であり、『怨学』でもある
大事なのは『語りの内容』
落城した武士が伝えたかった節は『常縁』なのか『炎上した城』なのか(当時は右から)
何故『そんな事』になったのか?
武士の『節』は語る
『自業自得』の『因果応報』
『塩梅』を間違えた(ノ≧ڡ≦)☆しょっぺ ーΣ(゚д゚;)軽
津軽は『アソベ』と『ツボケ(渡来民)』の『混血』が多い
城とは『保守の象徴』であり『格差の証明』
『先住民』からすればそれは『当たり前』であり、当たり前だからこそ『変化は起きない』が
そこに『移民』がきて、移民に対する『締め付け』が強ければ、当然移民は『反発』し、また『変化を求めていた先住民もそれに協力』して
『現支配体制』をぶっこわーす(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)クーデター
それを一部物語るのが、
53番 ○アー秋の取り入れ俵に入れて 倉に積み上げ大黒恵比寿 汗水流したお百姓さん
働き者で大黒柱、福の神恵比寿=夷の信奉者=農家
秋の稲穂の収穫、米俵、倉院=稲荷伝統
この古き良き伝統文化を破壊した事によって、弱体化した支配者の城は『落城』、敗れた家臣は職も権利も失い路頭に迷う
『刀』も『君主』も無くても『心は錦』の節
『かつての縁』を『常に語り』継がせる
『城主の夢』と『愚かさ』の『警鐘を継承』する
その方法が『阿呆陀羅経』
『現実の出来事』に例えながら『故事』を伝える伝承
『新しきを知る』と『古きが甦る』
…これが阿呆陀羅経か(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)
なるほどな
阿呆を悟った(仏陀)鬼の教え
だから『門下生』にならんでも『門前の小僧』は習わぬ経=『阿呆陀羅経を読む』
『門外漢』になった『仏陀』が語り伝える古典現代風刺の教え
『落城した武士』が『節』で語り伝える『常縁節』
なう(2024/12/14 09:36:52)
これが『苦のミロクのコツ』(笑)
草=『自然の下』に『古き事』がある
『塩っ辛い』は行き過ぎると『苦い』
『いい塩梅』じゃないんだよ
先住民アソベ『78の縁(塩)』に移民ツボケ『22(梅)』くらいがいい塩梅
『村八分』の『二割は移民』として受け入れた
『四角の空間』に『丸』という幾何学もまた78:22という量子的な力学
これを北の『アソベとツボケのいい関係』とした時、『南』からも同様に『入り込んできた梅』がいた訳で比率が変わってしまった
22:66:22、ビジネスライクな環境でよく使われる『2:6:2の法則』
2-6-2の法則とは、あらゆる集団において、パフォーマンスが良い人が2割、中くらいの人が6割、悪い人が2割の割合で存在するという経験則です。イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートの研究がその発端とされています
HAHAHA( ̄▽ ̄)面白い 善・中・悪
実は『能の66番』を『66番物真似=猿芝居』といい、その猿芝居は『南から入ってきた秦氏』の考案。人を虚仮にした『阿呆陀羅経』のような演目
これに北と南から『22の梅の移民の比率』が上がり78:22の法則が崩れ、梅以外の『66の人』が『善悪猿芝居に陽動』されて『虚仮にされる空間』になり、『22はその陰の陰謀』を実行、『他の22はそれに関わらない選択』を
捨てる神あれば拾う神ありの法則だが、『古き神』を切り捨てて、その『空く間』に入り込むのは『新しい神』とは限らない
『後悔先に立たず』という言葉があるという事が、なぜ『古き神を切り捨てるという選択』を繰り返す?というアンサーでもある
はいこっから阿呆陀羅経で『現代節』を語ると…
北は『北海道から移民』がぞろぞろ
南は『沖縄・熊本から移民』ぞろぞろ
日本人には『嘘・捏造・不安を煽る大本営発表メディア』が『虚仮にする無責任なニュース』を垂れ流す
今の現代の状況が『いい塩梅』を通り越して、『塩っ辛く苦い思い』になってる
「こんな国は壊れてしまえ!」と『国譲りの売国奴の扇動』に乗っかって『内部から破壊』が進み移民が増えてから、「どうしてこうなった…」と『世の中阿呆陀羅経』を唱え始めた時
そうか(´・ω・`)だから『皆苦』の中に『囚われている』からこそ、『一切』として離れる
『世捨て人』になる=『俯瞰で物事を見る』
『繋がり』を断つ、『腐れ縁』を切る
腐る=醸す=西から中に割り込む=移民を止める
すると世界とは『世の界隈=一部』と知る
ワールドワイドなmicroなマクロ
一粒で広がり始まる毒の波紋のような危険因子の不穏分子
関係者以外立ち入り禁止なら『奸計者(結託したグル)』は『既に座っている』のか
居座る
憎まれっ子世に憚る
そういう世の界隈=『業界の隅っこ』は『世の中』じゃない『陰の謀』
それを比率で『22』というならば、『22を超えて行く』必要がある
現在が『22:66:22の猿芝居』に『陽動』されて『虚仮』にされている『塩っ辛いじょんがら節』の落城した『仏となった君主』の『阿呆陀羅経を感じる』ならば
ここから『1』だけ出る=『一切・位置キリスト』、と言っても多分『3』は連れていく
『家族』とか『親友』とか力を合わせる『十三の力=協力者』
だから22:66:22 から『4』が消える
100-4→『96=苦労』が残る
96とは『%=可能性』である
100に足りない『4を求める』のではなく
100の『混沌』から『4が離れる』
ここであったが『100念目』ではなく
此処であったか!100念目=『探し物』
この場面。『物事』が『今』おかれている状態
『故事』は気になったことわざや格言、漫画や映画で伝えられてきた沢山の『先人の知恵』が詰まった『現代の私の意識』だからこそ、『警鐘の継承』の『風刺の阿呆陀羅経』を生み出せるのか
なるほど、私が自然にやっていた訳詞如来の妙見狸ᐢ⓿ᴥ⓿ᐢとは『阿呆陀羅経の伝道師』だったのか
道理で『節』が良く回るし『武士道』にうるさい(笑)
私は『阿』は『争い・紛争の始まり』と例えていた
『呆』に関しても、『呆』れて見放す神もいれば、それを『人』として『建』てる『保健体育』として拾育てる神もいると『漫才』に例えていた
『陀』とは『悟った人』という意味であり、私にとっては『悟』とは、『差取り=角の過度』を取る、または『心の吾(われ)=内面と向き合う』である
阿呆陀=アホだ┐(´д`)┌ヤレヤレという『差取った心の吾』は、それを『元に戻そう』と『心を鬼にする=阿羅漢』
煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人。 狭義には小乗の悟りを得た最高の聖者をさし,その修行の段階を阿羅漢向,到達した境を阿羅漢果という。 小乗仏教では仏弟子の最高位とされるが,大乗仏教では衆生の救済を目ざす菩薩の下におかれる。
『阿呆を戒める鬼』となる『経』を読む
これが阿呆陀羅経=『温故知新の苦言』
決して『教科書』には書いてない
決して『戦術書』にも書かれていない
『滅び』を知り、滅びを『免れ』、滅びの『愚かさを悟った境地』から、『滅びを繰り返してはいけない差取り』と伝える
塩っ辛い→苦い→『濃度』が問題=『ノード』とは?
ノード(node)とは、「結び目」「集合点」「節」といった意味です。 コンピュータネットワークは、点(装置)とそれを結ぶ線(伝送路)で表すことができます
ここで『塩分濃度=じょんがら節』に繋がる『奇跡の軌跡』のシンクロニシティ(笑)
アソベの民のDNAは『現代の出来事(誰かの息様=二酸化炭素)』を吸収すれば『故事の出来事(自然が生み出す=酸素)』を吐き出して生きてるような『阿呆陀羅経の伝道師』
ただ『言葉で遊んでる』だけなんだけど、その言葉を『先人達が遺してくれた』から楽しめる、それもまた『子の世の恩学』である‹‹\( ˙▿˙ )/››神楽
『母なる海』から『塩分濃度』、まさに『知恵の産みの親』だね
この間の『傾城傾国』の四字熟語から、伝統歌舞伎の『十八番の一番(クズ・久須・玖珠)』の話に導かれる事といい、どうやら真の意味で『風土の氣質に波動があってきた』かもしれん(笑)
津軽じょんがら節の『常縁の仏の心を持った武士道』が語り伝える『現代風刺の落語の阿保陀羅経』を伝える、妙見狸の訳詞如来
さてさて、次はどんな『古来の風土が甦る』のか、オラワクワクすっぞ( ̄▽ ̄)
『先祖供養』して『冥土の土産』を持たせて成仏した先祖達から『明土の土産』のお返しかな?
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