好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

念仏と念物 ぶつ義を醸す

仏は仏力か物力か、象や堂が無ければ、そこには念はないから堂々巡りか?とぶつ義を醸す、西から『襄』中に割り込む思想を観念する話

仏も『物』扱いの『偶像崇拝』

念仏

仏様を拝む時、何故か『観音像』に向かう

『観念』は『心の中でする観音(音を聴く)』だから『目を瞑ればいい』のに、何故か、『仏壇』がなければ『仏は拝めない』かのように『物質的な仏像が置かれた空間』を求める

不思議な事に『拝む』には2つの物理的な意味がある

拝む=合掌・『手』を合わせる
拝む=『目』で見る

『形』を『気』にする人は『目に見える物』を信じる
おかしいな(。・ө・。)仏は『唯心論(目に見えない)』なのに

『仏』と『物』の違いを簡単に現す方法は『力』を与えて見ればいい

『仏力』と『物力』、これで『正体』がわかる

『イムカ=カムイ=神威』→『見えない精神』
『物力=物の力』=『見える物の質量』

『質量保存の法則』とはアインシュタインいわく

化学反応において、反応前の物質の全質量と、反応後に生成した物質の全質量とは等しいという法則

『目に見える安定した物質』は変化しない
つまり目に見える『物質の観音像は何もしない』

しかし、目を瞑り『観念』して『今の心を観た』時に見えるそこに現れた『観音像』は、その人の『神威=示申=心の威』なので

人によっては語りかける『言葉の観音=心と対話=己の心』と向き合う『忌む=イム力』となり、現実には質量は変わってなくても、その『見えない力』で『精神は強く安定』している事もある

これが『瞑想』である

この『仏の力』と書いて『仏力=神威』
『心の威』を伝える『己の心』と向き合う

その『今の心』が『念仏』であり、その『心に誓った思い(真言)』を『現実で実践(進言)』して『目的を達するまで発する力』が『念力』

「だからブツブツ念物言ってねーでとっとと観念しろと」忌(っ・д・)≡⊃)3゚)∵念

『念物』だと『今の心は物』に向けられる『唯物論=今だけ金だけ自分だけ』
『物言わぬ物(偶像の仏像)』に『念』を発した所で、それを聞いてるのは『空間=空く間=悪魔』

『空く間』『付け入る隙』を見せている

そこには『住職』がいて、『小僧達』がいてその構図は全く『キリスト教も一緒』で、『懺悔の部屋』があって『告解という仕組み』の中、『十字架という念物』に『罪を告白する環境』には『神父とシスター』という

『偶像崇拝』『世界統一宗教』かな?

『物と物』の現実的に『見える物』は『形が違う』から『教義の違い』で『物議』を醸す

醸すとは西と『襄(ジョウ)』

『襄(ジョウ)』xiāngは、中に割り込む様子を表す会意文字

西から割り込む・西が割り込む
隙間=空く間に左寄り思想=改革・変革の『物言い』

異議を唱えること。その異議

『一理』認めれば、『融合』して『統一』して染めていく移民の『浸食=醸して腐敗』が進む

だから『物』じゃない(ヾノ・∀・`)ナイナイ

念物ではなく『念仏』は『祈り』
目に見えない『意の理』

祈りとは異の理と意の理

『意志を表明』するのに『言葉』はいらない
『心』に『念じる』だけでいい

『己の心』に『今の心』を伝えるだけでいい
『元』に対する『次』が入ってきた時

『気』に食わん(っ・д・)≡⊃)3゚)∵『元に戻る』
それいいな!乗り『気』(・∀・)人(・∀・)ナカーマ 『次元へ』

『意の理』とは『真言(求めるもの)』
『真言』を『己心』に『念』じるのは『今の心』

それは『進言』という『説得』

『元』より良くなる『プレゼンテーション』
『向上心』を示す 声明(๑•̀ㅂ•́)و✧‹‹\( ˙▿˙ )/››神楽

神威→神楽=心=示申楽しく
心が躍り振動する→ワクワクドキドキ→『動機に同期』のシンクロニシティ

これが『念力』(๑•̀ㅂ•́)و✧『今の心の力』
それは『意識』を変える力

そこに『物の質量』という『現実は無い』から、いくらでも『形』にとらわれない『自由な想像と発想』ができる

『物議に囚われる事』は無い、西から割り込まれる物言いの『空く間の隙』も無い
『物質』は『質と量という定義』に縛られる

『苦労は買ってでもしろ』というビジネス格言があるが、『それは勝手にしろ』と『苦言』で笑い飛ばせる

『シンプルで単純な事』をわざ(業)と『難しく複雑』にしてる

まるで『当たりはある』けど『正攻法では引けない千本くじ』のように、空間=空く間=『悪魔を使役してる宗教』には必ず『拠り所=形代=御本尊=御神体』という『信用や信頼』を得る為だけの『目に見える証明』があり

それを『軸に展開』しているが…その『開祖』は元々そんなものが『無い所から生み出したから開祖』な訳で、『物に頼らずともそれは可能だと証明』してるからこその『伝説』

仏教のベールに包まれたバアル信仰習慣病

ならば『それを踏まえた今の心』で『仏』という『目に見えない物』と向き合った時、『物質』は必要ではなく『心』があれば事足りる

『何百年と続けてきた信仰』が今だに「神はいるけど見た事ない」という『空く間=悪魔の利用証明』は可能

『誰も確認しようがない』からこそ『何とでもできる』
それも『意識』が変われば『一瞬』の出来事

「何だ、ただのペテン・誤魔化しか」

うまく人をだまして利益を得る悪者。 詐欺師

『護摩を炊く』のか
『胡麻を炊く』のか

『火・陽の無い所』に『煙』は立たない

イムカ=仏力=カムイ
分離される前、元々の言い伝えは、『神仏一体』だったからね?( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)

ま、今回は『醸す=腐らせる』という漢字が『中に割り込む様子を表す』という意味であり、まーた『西』から『ろくでもねぇもんが割り込んた』という『伝来』について覚えておけばOKw

西から昇ったお日様(偽)が東に沈むは漢字の捉え方だった

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