照和(和を照らす)の虎(トーラ・原典)さんは云う「音子(観世音)は連意よ」…という表現が真釈迦と偽釈迦の役目を納悳させるお話
虎(トーラ・原典)さん?
まことしやかに…
真釈迦無二…
間、事、視野化…
ま…
今混(こんこん)
どうした?
…異性が現れました
(ノ`Д´)ノ彡┻━┻ Σ(゚д゚;)
いいかいお前さん?
『今』とても大事な事を言っているんだよ?
それを、『異性(異なる性質)』が現れたからなんだってんだい?
異質な性質ってのは、『物のひとつの見方』であって
照らし合わせりゃ『和になる角度』ってのがあるんだよ
だから、それも含めての『間の事の視野化』が『真釈迦無二』だと『今』伝えてたと言うのに
今混って『今に音が混じる』だけで観世音で見た世界に『連なる意識』として素直に観測してしまう
全く『音子』は『連意』よ┐(´д`)┌ヤレヤレ
…と
照和(和を照らす)の虎(トーラ・原典)さんは云う「音子(観世音)は連意よ」
これは『夢』というか、何も無い無の『亜空間で浮かび上がる文字』とただ向き合っていた
このパターンは前にもあった
音の響きがその亜空間に『波紋』のように現れ、言うなればインターホンのビンポーン!で存在に気づいて
「さて、誰が来たんだろう?」と観測しようとする事で、今まで『夢中』だった事から覚めて、そこから『新しい次元』が開かれるような
それが『今』に異質な性質が『混じった(雑念)』
これは『瞑想中に煩悩が湧く』ようなものか
そしたら、その『文字だけの亜空間』で『自問自答の説法』をしていた『自』が、そこから分離した『自分に説教』をして来たのだが…
その『語り』があまりにも照和の名作『男は辛いよ』の『虎さんに寄せて伝えよう』としてくるもんだから…
まことしやかに…
間、事、視野化に…
頭には『あのメロディ』が聞こえ
視界には『あの映像』が見え
『今混の音』を観音して、なんだろう?と『反応』したのも私だが、その私に説教をかました私も
『色(個性)』をつけたもんだから、『渥美清の虎さんの意をかる狐』として、もはやどっちも『夢中』から覚めて、妙な見方の『異質な現実を創造』してしまったと言える(笑)
心を聞く耳を持ち=『恥・聡』
音で世を観る=『観世音』
そして生まれる『間・事』の『視野化』
真を説く『釈迦(問題解決)』は『無(観世音)の中』では『二番目』
『唯一』なのは『自心として生きて息』をする
そうやって『異星(異なる日の生まれ)』を意識は旅をするが、問題解決して『納悳して満足』したら…『息を引き取り』また無に戻る
…つまり『今(過去でも未来でもない)』へ還る
『連意現実』には『意識が連続する時空間』があるから辛いが、連意現実から離れた『意のみ』の今は、『何者』でもなく何とも『繋がっていない』
存在していない『存在』
有ると言えば『有る』し無いといえば『無い』の空
お前は静かに『言葉』と向き合っていた
『同音異義語の相似』を探していた
他にも『あった』のだろうけど…今回の収穫は…
まことしやか=『間事視野化』
『間の事を視野化』する
それは『事(問題)』が起きてる『間の音』を聞いて、まことしやかに(まるで本物のようだが、実はそうではない)に『その世界を観る=観世音』でもある
『真釈迦』は何も生まれてない『空間に響いた音』で世を観る『観世音』
『偽=人の為の釈迦』は観世音で観た『事が起きてる間の問題解決』に『意識の観測』を向ける
問題を『想定』するのも釈迦だが
問題を『解決』するのも釈迦である
皆、釈迦の掌で『転がされて生きている』のである(転生)
だから『転がされない』ように『自律』するのも『課題』であると思う(一人一)
「音子(観世音)は連意世」
音=振動周波数
子=そこから生まれる振動
連意世=連続した意識
『意識の連続性』が『存在の連続性』の『証明』でもある
それは『寅さんを覚えている人』がいる限り『存在が続く』のも同じである
生きてる間に『辛い事』があるのは、『意識が連続』しているからとも言える
・・こんな『言葉遊び』をカタチも何もない『無為自然』の空間で、『連続していない意識の私』は自問自答しては「おもしろい例えができた!」と『連意世』にライトワークとして放つ
『連続しないない空間』に『今の意識』は存在する
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