思い入れがなければ創造主とは言えない…概要とタイトル、どっちを採用しようか迷った。人の為に人を批判や文句をつける人の本性について
こだわり(拘り)と思いやり
こだわり
ひとつの物事に強く執着することや、妥協せずに徹底的に追求すること
思いやり
他人の立場や気持ちを考え、相手の身になって心を配ったり、行動を伴ったりすること
『わり』と『やり』は割とやり切れない腐れ縁
割り切れない=『納悳』出来ない
やりきれない=『気締め』がつかない
割り『切る』のも思い『やる』のも
『気締め』をつけた上での『覚悟』
それを『否定する』とは
覚悟がない
気締めをつけない
納得しない
つまりはずるずる、ダラダラ『引きずる』
ずっと『足枷』が着いたまま前に進めない_(┐「ε:)_
あるいはそれが『特定の人・物事に対しての執着や粘着』の場合、『足を引っ張る足枷そのもの』になる
拘りと書くと、その漢字は『拘束』でもある
最近、『活動を妨害する停滞エネルギー』をちらほら見かける
それは政治の分野では『野党』だったり、『メディア』だったり、日本人の振りした中韓の『工作員(あるいは闇バイトに首突っ込んだ日本人)による海外への日本人の印象を悪くするロビー活動』だったりもあるけど
日本の『精神性=想像力=祈りの力』を妨害する『精神面やスピリチュアル』の部分を『FACT元』も信用性はどうなんだ?と『FACTチェック出来てない本物』と認定した情報で
『それ以外を偽物呼ばわり』したり、『偽物疑いの疑惑』をかけたりする正義マン
「批判はしてません」「文句をつけたい訳ではありません」と言いながら、『批判して文句をつけている』ようなまさに『建前と本音を言葉』にして言い訳てるだけの
ただ『否定して揚げ足取りをする工作活動』を見ていて思うのは…
『自分が納得出来ないこだわり』や『疑問に思う人=需要・ニーズへの思いやり』なんだろうなと
そこに『思い入れ(オリジナル)』はないんか?と
思いを『入れない』から『自分にとって都合のいい他人の受け売り』以外受付無くなる
思い入れがなければ『想像主=創造主』にはなれない
人や物事とは『結果』である
結果、『人』になり、結果、『物事』になる
思い入れとはその『過程』にある
因果の『因に心』を巡らせる事
こういう『要因が有る』から
『難しい工程』を経て『結果』になった…
ならばその『過程に心』を巡らせれば
『違う結果に繋がる方法』が見つかるじゃないか!
『この失敗』は決して無駄ではない『想像の種』
こうなった=結果とは『可能性のひとつ(恩)』であり
『そうならない結果が他』にもあるという証明=show may=多分(自分以外)
この『可能性を想像』し、その想像から繋がる『望む未来を創造して語る』というのは
そこに『思い入れ』があるからこそ生まれる
その人は『オリジナルの創造主』になる
この『未だ知らない結果を求める創造主』の足を引っ張るのが、『既に失敗したFACTチェックを元』に『人を批判したり文句をつけたりしてる行動や言動』を取る人間
それが『人間』のこだわりと思いやりのハイブリッドの『思いやり方に拘る=善かれと思っての醜さ』
『気締め』がつかない、『覚悟』もなく、なあなあの『足を引っ張り合う皆苦の世界』の『正しさとは愚かさ』とは何かを見せつけられている『反面教師』
『否定・批判・文句を皆』に愚痴り、それが『正しさと誇張』して『良かれと思って足を引っ張ってる事』を自覚しない
『善を盲信』しているのではなく、『あえて自覚しない=邪に世論コントロール』しているのであれば…
それはもう、『オリジナル=創造主』が生まれる度に、ただただ『自分の中の正しさで否定』して叩く、『出る杭は打つ』という
『力弱き者(生まれたて)を虐めて嫌がらせする陰湿な行為』であり…『悪質な精神ペドフィリア(小児性愛)』
それはそれでひとつの『邪とはこういう者』と言う『反面教師』なのだから…『それに共感』するのもまた
『類は友を呼ぶ波動の法則』でもあり、『人の振り見て我が振り直せ』と、そこから『自力で離れる気締め』がつけば、『間違った正しさと愚かさ』は『醜さ』に見えて
「金輪際二度と…」と『そう言う立場=邪なポジティブ』を見極めて近づかないという『オリジナルの想像と創造が可能な主』になる
この世で最も簡単な『力の集め方』は
『虎の威を借る狐』である
何か強い後ろ盾=『正論』を得た時
『道具(正論)』は人の使い様
それを自らの己の心に納めて、『自己の禁忌』として悳を積む=『納悳』し『足るを知り満足』するか?
それともその『正論を免罪符』として振りかざし、鬼の首を取ったように『目障りな偽物疑惑の判定をする正義マン』を気取るか?
『普遍的な自然の法則』から見れば、『人の正義…正論』という立場は『栄枯盛衰』移り変わり、『間違いが正しくなる事』もあるように
陰謀はただの『計画の実行』に
ただの『計画が陰謀』に
『真実の捉え方は人の数』だけある
つまり『正解は己の心』にある
故に『心が反応』するものが『その人の正解』
これが『普遍的な運命』だが…それでは『社会=人の世界を作ってコントロールしている支配者の思い通り=こだわり』にはならない
だからとても面白いのは…
自然の法則=『心に素直に従う』と不自然=『人の世の変な波を起こす存在』が見えてくる
『発言や行動』だったり、『一定の波長』ではなく、『歪に不規則』に、『不穏で重く鈍い動き』をして、それは他の何かに『覆い被さったり、飲み込もうとして吸収しよう』とする
『企業買収M&A=背乗り』など
「空気が重い…」と感じた事はないか?
それは文字通り『空気にのまれる』という事
『活動』を『妨害する停滞する何か』が覆い被さってきて、それが『穴という穴(言動・行動・心の隙間)から侵食』して犯してくる
これを『認知』しておけば、『否定や拒絶』という『肯定の工程』に『批判や文句の因縁』をつけて、『因をすり替えよう』とする『精神面への工作』と勘づく
『自然の状態』だと『野生の勘が反応』する
『内観』というのは、単純に『体の中のメンテナンス』をしているだけでなく、その『過程の工程』を自ら己の心に『禁忌としてとどめる』為に
侵入してくる『空気を読む(波動の中身)事』で、『精神面への工作行為』を感じ取って『重い空気に呑まれなく』なる
つまりは『こっそり足を引っ張るやつ』、『足枷(因縁)をつけて粘着して引きづって貰おう』_(┐「ε:)_という『アクセス稼ぎ』みたいな…
政治や芸能だったら『メディア(世論扇動上げ下げ)』のマッチポンプ
都市伝説だったら『行き過ぎた陰謀論否定の立場(イチャモン・難癖・アンチ煽り)』
これもまた『人の為=偽』という『空間の流れ』で生まれた『邪な立場のエネルギー』だから、日本に限った事ではない
国際レベルでそれを『目星をつけた当地の統治』に利用する
『世界中で同じ事(分断工作・反発煽り)』が起きているのは、『停滞を活性化』させる為でもあり、『クーデターによるリセットでやり直し』でもあり…
でも、もっと大きな目線から見れば、それは全て『真実から目を背けさせる陽動工作』でもある
真実とは…『この世が仮想である』という事
お釈迦様は『真実と向き合う覚悟ができた弟子』以外を『陽動でそこから遠ざけた』という逸話がある
そりゃそうだと思う(´-`)oO
仮に…
「この世はゲームだよ?」と言えば
ε”ε”ε”(ノ* •ω• )ノε”(ノ* •ω• )ノ ←遊びに行く
ゲームだったら『好き勝手』してもいいよね?=『チート行為』で『欲望』のままに他人=『NPCのプログラ厶』に何をしても『無責任』になる
という『陽動に引っかかった者達』をほっといて、釈迦はこう説法する
「見よ、あれがあのもの達の次の元となる姿=虚空像菩薩である」
そこにはもはや『人外のおぞましい化け物=遺伝子組み換えチート合成獣』が『群雄割拠』して「自分さえ良ければいい!周りは皆偽物だから苦しめてもいい」という
『自分の正義』で『他人を否定』する『醜く愚かな人の姿』が映し出される
「あの世とは、この世の先の選択で生まれる世界」
『あれの世(誘惑や欲望に陽動された自分以外を否定する人外の化け物)』を見て、『今この世の際(釈迦の元で戒め=今の心の気締めをつけてる金輪際)』で『何=人の可能性』を思う?
「嗚呼はなりたくない」と人の振り見て我が振り直す
心の吾は覚える=『覚悟』
それ以外=『和の世界』を自分で『想像して自ら創造する一人和=大和主』になる
ここからは『大和の多様性』の始まり
多様性と言っても『土台が和』だから
何をやっても何を選択しても『和』になるように
『人の為=偽』だとしても『和を足す』
『必要悪』だとしてもその結果は『和を足す』
『中間』だとしてもそれはさらなる『中和』となり
『邪な混合』だとしてもそれもさらなる『調和』となり
結果、生まれるのは『形を変えた和の人の可能性』である
これを『綺麗事』だと『罵る存在』は
『自分が醜い』と言っているようなもので
それに『調和(歩み寄る)』なり『和を足す気持ちが無い=否定する』だけ
『オリジナルに難癖』つけて、『気を引こうとする構ってちゃん』は、ほっとけば、もっと気を引ける『人気が集まる陽動の方へと行く』から
『この世(争い)』では『人気は必要無い』
この世とあの世の『際に人気(共感する先祖)』を集めて、『和を足してくれるあの世』へと旅立つ
先日、別の記事で、『成仏』とは常日頃、納得悳して満足した『心の一部(先祖)が仏に成る』とまとめた
『多分=自分達』による『あの世からのお迎え』っていうのが、その『成仏して満たされた心』が連れていく『次の元となる世』
だからお迎えが来ない…と言うのは、生きてる内に『心を満足させなかった』のだろう=『心に嘘ついて我慢』したのかもね
だから『浮かばれないで彷徨う物事=例=他人事』になる
生前から『心を軽く』しておく『ライトワーク』とは、『心の荷物を先に送って身軽になっておく事』
例えるなら、『旅先でいい(冥土の)土産』を見つけたが、この人生旅に『ずっと持ち歩く』のも大変だから、『配達を頼む』みたいな(笑)
『次元世界』は『今創ってる未知なる道』
故にこの世で人に『構ってちゃんの難癖』つけて『批判や文句でイチャモン・因縁で絡みついた』所で…
『うっとおしい足枷』として『気締め』つけられ、やってる『行動や発言が醜い』と『嫌われ愛想』尽かされ、『仏陀切られて人気(任期=そう言う役目)』が終わり
『人の為』ばかりだから『偽物事』しか残らず、でもその『醜い偽物事がその人の真』になり、そこが『次の元の世界=次元』の始まり
『前に進もう』とする『オリジナル=想像主の人』に『否定や文句の難癖』つけて『足を引っ張り足枷』となって『腐れ縁で粘着』するも、最後は『愛想尽かされ切り離される役目』を終えて…
次の世の『際』から見て、「その人生はどうだった?」と振り返った時、自分で『醜いし恥ずかしい』と『心から反省』し『やり直したいと改心』すれば
その『瞬間』から『行動や発言』は変わっていく
つまりは『生きてる間』に『人は変われる』
日々、『想像と創造』を繰り返している『主』
『仮想空間』を生み出し、『その中に意識の観測』をしている『思考・試行シミュレーション』
「故に、現一切色心三昧」
現れる全ては『周波数の移り変わり』
その中の『一瞬の位置座標の観測』である
何(人の可能性)を観たい?
何(人の可能性)を望む?
これが『次の元の世』を生み出す
想像主・創造主の力=『今の心を動かす=念動力』
釈迦の『弟子の陽動』に引っかからず
釈迦の『説法を聞いた弟子』は皆こうなる
空…有無…望…忘( ゚ ρ ゚ )ボー Σ(゚д゚;)
これは私は『精神リセット』だと感じる
ただし空っぽになるのは『余分な記憶=余元・預言』だけであり、魂が心に納めた体験感覚=『オリジナル想像・創造主の経験値』として在る
だから『自由意志の選択肢』がある
逆に言えば、『自由意志が無い』というのは、『常に陽動』に引っかかって『心穏やかに釈迦の説法の場』に落ち着いていられない
『躾のなってない誘惑に弱い獣』のような『多動症』なんだろう
それはまだ『望む欲を満たして無い』から仕方の無い事で、犬が『散歩に行きたい!』はしゃいで外に出たがるのと一緒
そして…
犬も歩けば『謀(はこりごと)』にあたる=痛い目を見る
犬も歩けば『望(のぞみ)』に当たる=望みが適う
犬も歩けば『忘(心亡き)』に当たる=目的を忘れてしまう
結局は『釈迦=心穏やかに問題解決=足るを知る』の空間から『陽動で引き離される』ほど、焦り忙しくなり『心亡き者』として
『人でなしの獣=人貶し除け者』になっていく
心から遠ざかり、心ここに在らず
よくできた『波動法則の説法』だよこれ(笑)
『主観』で見れば、人の行動や言動は『批判や文句をつける』のではなく、(そう言う人なんだな)と飲み込んで『納悳』して、(合わないな〜)と思ったら自然に離れればいい
にも関わらず『粘着して因縁をつける言動や行動』は、『客観的』に見れば、そう言う『人気がある所に噛み付いて人の気を引こう』とする『浅ましく醜い内面性が溢れてる』と気づいて
『その人はそう言う人間性』なんだと『本性を見抜いて関係性に気締め』をつければいい
ま、「付き合い切れない…」と『月に愛想を尽かされたら運の尽き』
月の波動の流=『龍が輝夜姫を籠に乗せて帰って』しまって、『見放された地球が終わってしまう』ようなもの
『偽=人の為に批判や文句』をしているという『偽者が語る本物』ほど、『自己顕示欲の本性の塊』でしかなく、『周りを批判して下げて自分を高く良いものに見せるやり方』は…
まさにアドラーの提唱する哲学
『優越コンプレックス』
『秀でてる部分』で『相手を攻撃』する
『正論(fact)を武器』に『因縁』つける偽者
偽者と言っても「人の為だから!」と
『周り(世論)に責任転嫁』する『邪な本性』
そう言う『歪んだ思いやりのこだわり』
これを割り切れない、やり切れない『腐れ縁』という
だから『思いやり』も『こだわり』もいらない
「やりたい!」と思ったら
それは『思い入れ=オリジナル』
『やる事でこうなる!=和を足す』という
『未知を想像』して『創造した未知を発振』する
その『振動エネルギー』が『未知を引き寄せる道を示す』
『周りが嘘』だと決めつけても、それは『嘘=小さな口の虚』ではないと、その『決めつけられた嘘=レッテルから出た真』
真は嘘には『染まらない』
嘘とは『相容れない波動』である
嘘は不正に『歪んでいる(振動周波数が変わる)』
真は正しく『揺らがない(固有振動数)』
これは『意識して観測している焦点』は変わらないが、『背景の景色ぼやけて可変』する
色即是空、空即是色=そう思えばそう見える(周りの周波数)
人も物も『固有振動エネルギー』
人事も物事もその『固有振動の結果』である
もしその結果が『歪に不正を感じる』としたら
人が人や物事に当てる『光の当て方』の違い
物事の捉え方が『違う立場』で見て
その『角度を正論』として伝えているだけ
その立場を『正論(FACT)と決めつける』のが『邪な波動』による『表面偽装工作』
『重い何か』が『覆い被さる重い空気』によって
『レッテル』を貼られると『攻撃対象』にされる
この観点から言えば、『全方位に疑惑のレッテル』を貼り見えない敵にマシンガンをぶっぱなして「間違ってたらすいません(当たればラッキー)」という『超絶無責任な行動と発言』を『都合のいい謝罪で済ます』という
さすがは『人の不幸は蜜の味』・・と『醜い人間性』に『人気』が集まって浮き彫りになる『正法が否定』される末世の空間世界は、『暴力』とは違った忍び寄る『不和の執着や粘着な邪の波動を纏った人間の本性』をさらけ出させ
決して『和に入れてはいけない邪』を明確にする『反面教師の役目』の波動を生み出している
きっと『人気が欲しい』のだろうが、『やり方』が間違っている事に気づかないまま、それで味を占めてしまった結果が、そういう流れが澱んだスタイル=流儀というヘドロのような粘着する立場を生み出すのだろう
やっぱエネルギーって『波動・振動』だわ
『波』を感じないと『いい波』かどうかもわからない
ま、そもそも『足るを知って満足』してれば『波風は起きない凪』なんですけどね=『知らぬが仏』
「あそこの地獄に仏(和)がいないじゃないか!」とほっとけないから『いざ!尋常に救いに地獄に向かう!』のもまた人を憂う『優しき志(さむらい心)』の仏鬼釈(笑)
『綺麗事』もまた『醜い行い』の対義語であり、『醜さ』が無ければ『美しさ』もない二元性
だから、眉目秀麗(びもくしゅぅれい)?
顔立ちが端正で美しく整っていること
・・直感の漢字が違うぞ?
『美黙醜隷』
美しさを黙らせ、醜い奴隷にする
うん、これなんよ(笑)
『顔立ちが端正で美しく整っている存在』が
それ以外に『レッテル』を貼って『醜いと貶め奴隷』にする
転じて、プレアデスかレプテリアンを奴隷にして
転じて、天使が人間を醜いと奴隷にして
転じて、レプテリアンがグレイを奴隷にして
転じて、天使を捕まえ悪魔の慰み者にして
転じて、先住民を侵略者が奴隷にして
ま、どっちにしても『立場』が違って『やってる事同じ』っていうね
あるいは『備黙宗例』
備えて黙る宗の例=説法
『醜さ』が無ければ『美しさ』もない二元性
そういう世界だと『悟った事を覚えておく=覚悟』
同じ『音の響き』なのに『漢字が違う』だけで『醜い争いの思想の立場の繰り返し』にもなるし、それを『見抜いて応じる仏の心構え』にもなる
『言霊』は受け止める『立場』によって『違う力を発揮』する
拘らず(固定観念)、思いやらず(間割に気を散らさない)
思い入れ(望む想像)を持て、その振動の渦が『螺旋の法(法螺)』の創造の『未知=未だ知らないけど在る道』への繋がり(架け橋)を創る
例え『法螺吹き』と呼ばれようとその『真を確かめられる』のは『自己探求』のみ
『未知の道』が出来たら、その道を進め、それが『波動』であり『氣の巡り』の『タオ(道理)』である
・・なんか最後、とんでもない締めに導いた先祖が紛れ込んでいる(笑)











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