『さくらさくら』の歌詞は怪しい気配を察知して『東方より救いが向かう歌』だと気づく深掘り考察
さくらさくらの童謡も深堀すると不思議
ゆらりゆらりと繰り返す雅な歌だが、歌詞をよくよく聞いていくと『大きな違い』と『物語の転調』がある
1番の歌詞は野山も里も自然環境花盛り(山桜)
2番の歌詞は弥生の空は臭いいずるイザヤイザヤ見にゆかん(不自然・人の環境)
これは非常に面白い!(´>∀<`)
ここには相対する『2つのさくら』がある
1つ目は野山と里という自然と一体化した花盛りの見た目を霞か雲か?と比喩で表現し、朝日の匂いの中の美しいさくらと景色の描写
2つめは『弥生の空』が霞か雲か『暗雲』が立ち込めていて『臭いがする』から『イザヤ』見に行くという、2番は『変化の予兆を察知』して行動に移っている
出だしのさくらさくらは
さくらとさくら=『違う存在』を意味する
1番は『季節と環境』
2番は『方角と状況』
まるでこれから『物語が展開』していくような…私はこれも…幻の『三番以降』がかつてあったんじゃないかな?と思いますね
同じ、隠旋法で作曲されている『通りゃんせ』も二番以降がありましたからね(意味がまるで変わる)
調べてみたらやはり、後世に『歌詞改変』の記録があるらしい
さくらさくら」の歌詞が2種類あることについて。その変遷を知りたい。
「古謡は、可成り語句がむづかしく、この程度の児童には難解である為、その精神を採り入れて、替歌としたものである。」新しい歌詞を1番、古い歌詞を2番にすることもある。日本古謡として紹介されるときの歌詞は「やよいの空~」の歌詞である
ほほう( ˙꒳˙ )なら実質2番のみか・・つーか、こんな歌すら改変するってどういう事!?
そこで、気になるキーワードの『イザヤの意味』を調べると
旧約聖書中最大の預言書とされる『イザヤ書』を残した記述預言者。 「主は救い」または「主の救い」の意。
なんでさくさらさくらに『宗教ワード』?と思うかもしれないけど、これはとても『大きな意味』を持つ。まだ日本…と呼ばれた地にキリスト教が入っていないと歴史上言われているが、とっくの昔に『北にはその教え』が伝わっていて
それが当たり前に『言葉に浸透』しているほど『根は深い』と思うのが、日本語でも「いざ!尋常に、勝負!」と『侍』が『覚悟を決めて行動する時の鼓舞する言葉』でもあり
『いざ!と言う時のために!』という『心構えの備え』にも使われている
つまり『武士道』には『イザヤの精神(救う)』がある
『戦』に入って『止』めると書いて『武』
我々は『イザ(救い)の語源』がここから来てたという事に気づかないほど『宗教は和合』して『言葉の中に浸透(神道)』している、それは『武士道精神、侍魂』の時代から『和国にある』という事を物語っている
『イザコザ』という言葉が気になった時期があった、これは『トラブルや騒ぎ』を意味する
イザヤは『救い』を意味する
カタカムナの言霊では
現象・伝わりを内に遮り飽和する
=物事を納める・トラブルを解消する
そう考えた時、2番の歌詞(改変前は1番)
『暗雲立ち込める弥生の方角』に何やら『トラブルの臭い』がするから『救い』に見に行こう
こうなる訳で
『弥生を文化』と取れば、この歌を歌っているのは、その反対の方角の『東北古代文明』
『弥生を方角』とすれば弥生文化が徐々に広がってきた『南西の方角』
弥生は『侵略』の歴史『火(日)の巫女』を筆頭に『朝鮮』の方から渡ってきた『渡来民』。そのきな臭い『争いの臭い』を察知して『救いに動く』訳ですから
歌詞改変で「そこには何も無かったんだよ〜自然だよ〜」と変えたから逆に『かつて縄文があった古代文明の地』から見て『2番が変な感じで浮き彫り』になった形
という事は、この歌は三番以降に『大転換ヒストリー』があったはず(中途半端で終わっている)
弥生の侵略を止める、救いに行った『後の物語が歌われていた』と考えられる
全体の曲調が『物悲しい』のも
1番が『雰囲気に合わなすぎる』のも
2番で『弥生の方角に暗雲立ち込めるのが合いすぎる』のも
全ては『バッドエンドを伝える伝承の歌』と考えれば、さくらが2回、『相対する存在』のように言われるのもわかる
『誰』と『誰』が争っていたのか
さくらとさくらは『元々兄弟姉妹』を伝える隠喩と考えると『同じさくら』なのに、どうして争うのだろうと『達観した目線から歌われた悲しい伝承歌』とも言える
さくらの言霊は
遮り引きよる場
サクラサクラと二回続けば『次々と』なので、イザコザは終わらない
改変前の一番が本当は『どんな内容』だったのか分からない
しかし2番は、はっきりと『弥生の空に暗雲立ち込めてきな臭い臭いがするから救いに見に行こう』…で終わってる
つまり、『見に行った後』がごっそりない
それは『弥生の侵略後』に『残っていたら都合が悪い事がつらつらと語られていた』からかもしれない
『歴史』は『勝者が造る都合がいい』もの
『歴史(噂)』を信じちゃいけないよ
うわさの言霊は 生まれる調和の遮り
れきしの言霊は 消失したエネルギーの示し
どちらも『改変』できてしまいます(死人に口なし)
でも死人からのメッセージはこう
『噂を元』にした『歴史』は『噂』
蛙の子は蛙
ミイラ取りがミイラになる
そもそも『噂』はいくらでも作り出せる『フェイクニュース』だから今現代も『コロナ』という『社会統計学詐欺』を利用した『歴史捏造の真っ最中』で
『多死社会??』なんだそれ?という馬鹿みたいな言葉の『風説の流布』で『ワクチンで死にましたという事実』を消す『侵略の歴史隠蔽』の真っ最中
そう言うやつが後に『証拠を隠蔽』して『改竄』して『専門家』気取りで『書籍』を残し『権威』になって居座り、自分たち以外の書籍は『禁書』や『偽書扱い』の格付けをする保身に走る
『そんな歴史書』を呼んで『勉強』して『顔色伺って書かれた書物』はただの『風説の流布を広げるウイルス感染』と一緒。『新しい世代』がまた『偽の都合のいい歴史ウイルス感染した書物』を世に出して『多くに影響を与えている』らしいけど
『神輿』として『担がれたら』終わり
進むルートも『自分で選べない』し、自分の意志では『降りられない』
どこに『運ばれ』、どこに『捨てられる』かもわからない(人の流れ)
『大量のファンがつく』というのは
『大量の不安が付きまとう』という事
芸能でもピコ太郎の次は安村が利用されているようなもの(世界でブームを捏造して国内に送り込んで若者からまた流行りを広げる宣教師)
だから『歴史は嘘』つくけど、言葉は『言霊』、それひとつが『生き様』
『イザヤ』が『救いの書』という旧約聖書は知らないが、日本人として、覚悟や心構えを決める時、『いざ!!』と気合いを入れ『前に進むエネルギー』である事は、もう『日本人』なら『言葉と意味』を知ってるなら『備わっている』事
いざ!…という時のために備えるのは『心技体』
心 心構え・気持ち・精神力
技 伝統・文化・先人の知恵・道具
体 身体能力・行動力
それらは『困難に立ち向かう』ための心に忍ばせた『刃(切れる部分・切れ者)』
それがいざや、いざや(心構えと行動を持って)見にゆかん(問題に立ち向かおう)
まるで『救世主は東から現れる』を伝えている。方角的には丑寅の方角、キリストの墓、釈迦の修行地、弥勒後端の地(十和田)、御所と川原の武帝と五色人
これがさくらさくらの『2番』にある『いざや、いざや』の語源に隠された『情報』なんです
さくらさくらがいつどこで歌われたか?
それを追うにはその『音階=陰旋法』
また武士道のプライドと覚悟の言葉を継承する『いざ尋常に勝負!』が染み付くほど『才知を兼ね備えた武士』=佞武多と、そんなキリスト教が入る前から『旧約聖書のイザヤ書の救いの物語を伝えた地域』と言えば
やはり『古代海洋交易』が行われていたであろう津軽、大湊、青森
ちなみに古代に『アモリ人』という人達がいた
古代オリエントのセム系住民。 アムル人ともいう。 前3千年紀後半のアッカド語の文献にすでに,メソポタミアの西に広がるシリア砂漠の未開の半遊牧民の総称としてでてくる。 すなわちアモリ人の原意は〈西方人〉である。
アモリ!(訛り=省略)
アオモリ!(はっきりゆっくり)
アムル!(訛り=語尾のるりが判別できない)
アモリジニー!(アモリでぃねぇ)
世界各国の『原住民の語源』が似ているというのも、黒髪人種が広がった『縄文海洋民族』というのもなんとも『奇妙な一致』。そこに『始まりの五色人』がいたとておかしいとは思わない
立つ才知ある武士多し=佞武多
御所(武帝)を囲んだ始まりの五色人(家臣=佐)=鬼
そりゃ侍魂・武士道、弱きを助け強きを挫くモノノフ
『西の侵略者』からすれば「鬼!悪魔!」と恐れおののく丑寅の金神という『モノノ怪』
そう考えるとさくらさくらは
弥生vs古代東北文明
黄帝の子vs黄帝の子とその配下
言い換えるなら
天照vs須佐の王
須 シュメール
佐 侍・忠臣
王 オオナムチ?
そうなると天照の正体が『火巫女』
滅ぼされた側からすりゃ『卑弥呼(卑しく弥生を呼ぶ)』
更にはこんな構図も生まれる
神(の子アダム)vs神の子リリスとその守護天使
欲しいものはなんでも手に入れる傲慢さ故に『唯一自分の思い通りにならないリリス』を求め(意志の強制)、リリスは自由意志を持ち出て行った、そのリリスの意志を継いだ子がそのありのままの自然を守護する
『不自然』vs『自然』の構図でもある
これはスケールの違う次元でも全く同じ戦いが起きている『エネルギーの相似』の5次元相関図だね
そう考えると、さくらさくらの三番以降は…
邪馬台国が台頭し勢力を広げる
国としての体がなかった西の地が統一されていく
東への侵略が起き野山が焼山にされる
山の民が炙り出されるように北へと追いやられていく
『北の武家』と『山の民』で『出雲』が生まれ出雲勢力が邪馬台国の進軍を押し返す
…がその後、出雲は西側の歴史では『謎の国譲り』で消える
どこまでさくらさくらで語られるのかは分からないが、続きを歌った所で『バッドエンドは変わらない』
問題は、その劣勢をどう安定させるか?これもまたエネルギーの相関図なんだけど、『腸内フローラ』と考え方は同じで、善玉と悪玉と日和見菌で考えるといい
通常、善悪のバランスは『2:1』で、均衡を保っているのは『日和見の7』
これがいわゆる安定して、徐々にどちらかに傾いてる状態
これが3:1:6になると=9:1
バランスがが一気に崩れる
3:2:5 → 4:3:3…のように均衡を保つソフトランディングにならず、いきなり『片方だけが1増える』だけで『世の中は一変』する理由は、『何物でもない存在』が、『急に役割を与えられる』から
『いざ!という時の心構え』がない
故に『パニック』が起きて、少しでも『助かる確率』が高そうな…『みんなが集まってる多数決の多い方』に集まる
『勝ち馬にのる』とも言うけど、それが『侵略者』だったら?『悪玉』だったら?長いものに巻かれろと巻かれるが故に『締め付けが厳しくされる』と身動きが取れない
『経済』を止められた
『外出』を止められた
『自然の菌との繋がり』を止められた
『人との交流』を止められた
『自由な発言』を止められた
色んな意味で『善玉となる抑止力(22)』を止められた結果、日和見の『何物でもない存在達』がパニックを起こして『優勢な悪玉(78)に加担』した
これがワクチンの真の狙い
直接的に『命を奪う』なんてのは目的じゃなく、後に『命令すれば進んで自殺する』事すら厭わない『従順な奴隷を得る』ための方法
文字通り(ワクチンで)死ぬまで働けと言ってもいい
時代を超えて、時を超えて、感覚的にシンクロするのは、このさくらさくらの歌詞のキーワードは『状況把握』と『覚悟と行動』
弥生の空は見渡す限り霞か雲か?(争いの煙)
臭いぞいずる(焼け焦げた死臭)
イザヤイザヤ見にゆかん(覚悟を持って救いに行く)
シンプルにストレート
やはり和の心構えとは『武士道』にあり
もしかしたら、義和団の乱への和国の加勢の話かもしれない
少なくともさくらさくらの歌は『弥生(西)では生まれていない』と判断出来るという気づきが起きたのは、やっぱり『久須志』
久しい須の志
久須志は富士王朝の麓
富士は津軽富士、麓は鶴の舞橋の御所
その周りの御所の傍らには五色と鬼神社
須はシュメール、メソポタミアにアモリの語源
という事は、私の中で最大最強の謎がある
それは むつ湾
大陸が欠けたというには北海道と青森はあまりに『パズルのピース』が足りない。そう考えると、『爆心地で跡形もなく消えた』か?実は地面が低く『そこだけ水没』したか?
ファンタジー的かつSF解釈をすると、そこがかつて『シュメールの母船』が降りたっていた地で、マヤ文明のマチュピチュと同様に『一夜にして姿を消した』か?
残された縄文移籍に『武器の類がない』のは『争いの火種』となる武器というテクノロジーを『全部回収』してしまった?
うーん( ˙꒳˙ )そのくらい『陸奥湾』って、津軽海峡が出来るまで『でっかい湖』だったと考えられる・・そうなると、幻の牟大陸は『陸奥湾』にあったのかも?
ʅ(´⊙ω⊙`)ʃなんてな?Σ(゚д゚;)
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