本気と書いてマジと読むは大きな『間』違いを生む理由。真を見失う気づき、鍵は「舐めやがって!」にあり
本気(ほんき)
努めて本気になる、遊び気分や冗談めいた感覚を排除してことに当たる、真面目・真摯に取り組む、といった心持ちを指す表現
うん(´◉ω◉` )やっぱりな
「マジで!マジマジ!次はマジにやるって!」みたいに『本気と書いてマジと読む』なんて定着してるのは、『意味』と『読み』が合体してるけど『使われ方』がとても『軽いエネルギー』になっている
私は思った
本気を『出さない時』は『何の気』を出してるんだ?(´◉ω◉` )
これに対して、その『本気』ではない『何気無い何か』が伝わった相手はその『感覚』をこう表現する
「舐めやがって!」
「ナメてんのか!!」
舐める?(๑´ڡ(*´q`)ペロペロ
うーん(´・ω・`)どうもしっくり来ない
『舌先三寸』という言葉がある
口先だけの巧みな弁舌。うわべだけのうまい言葉で、心や中身が備わっていないこと
上っ面の都合のいい口先だけの巧みな弁舌で相手をチョロいチョロいと『ちょろ負かす』
『舌の上で転がす?』という意味か?ならその対象は『甘い』というのか?『言い訳』や『説得』、『論点ずらしの論破の誤魔化し』で相手を『黙らせる』という事でもあるし
相手との『実力差がありすぎる』という意味で舐められてるなら「今から本気出す!」…って言っても無理だって┐(´∀`)┌ヤレヤレ
だからなんか『本質的』に違う気がする
となるとこっちか
なめる(潰れる)
大工道具のネジ山の十時(プラスドライバー)を回す時、力の入れ方と角度がちゃんと中心に向いてない状態で回すと、ネジ山が潰れて二度と回せなくなる
その状態を『なめる』という
つまりネジ『山』に対して『真っ直ぐでは無い力』を加えた結果だが『道具は人の使い様』
道具に罪はない
『間違った使い方』や『道具の選択』をしたのは『人』
『真面目』に向き合わなかったから『なめた』
『力を正しく道具に伝達しなかった』から『なめた』
『共同作業』で『建設的に事を進めている者達』からすれば、ネジ山をなめらせて『仕事を妨害』するような『真剣に向き合わない半端者』にこういう
「てめぇナメてんのか(ネジ山)!ちゃんと『正面』から向き合え!『道具』を正しく使え!『台無し』にする気か!『真面目』にやれ!( º言º)Σ(゚д゚;)サーセン
そんなミスの『戒め』をきっかけに『真面目になる』のは『真』にならなきゃ『面目』が立たないから
これが『真面目』と書いて『マジ』と言う事
なめやがって!は『人』ではなく『事』に対する『取り組み姿勢』
人(ひと)事(やるべき事)=『主観』
『人事』を尽くす=『自分がやるべき事をやる』という事だが、これを分からないものにとっては
他人(ひと)事(自分は関係ない)=『客観』
だからネジ山をぐちゃぐちゃに『なめて』潰してどうにもならなくなって『台無し』にしても何とも思わないで
サーセン( ◜ω◝ )マジで!マジで!
と『軽く』言えるような『無責任のエネルギーの質』に変わってしまっている。『物が豊富』になると『質』が落ちるが、それは『クオリティ』という意味じゃなく
ひとつひとつの『扱いが雑になる』という事
会社に骨を埋める覚悟の正社員ならば、その指導も学びもお互い真面目に取り組むが、引く手あまたの他所に流れる比較検討の選択肢が増えれば、派遣、外注と『正』を育てない(技術やノウハウを外に持っていかれて真似される)
という事は文字通り『物事』に対する『取り組み』が『雑』になるよね
『言葉の乱れ』とは作法というルールに沿ったものではなく、『言葉の生まれたルーツ』を忘れてしまえば、それはもう…あ、だからか
『本気』がしっくり来なくなった理由
私は『本気』という言葉の『本』に引っかかり始めた理由は、聖書のヨハネの黙示録で現れる『天使はラッパ(嘘)』を吹いて『鉢』を持って現れるという事から
持ってくるのは『金(欲)と本(知識)』
全てのエネルギーが『本』質、『本』当、『本』格的…と『本に集約』されて行くのが、そもそも論として『意図的な流れ』にも感じる
私は『知恵』の『形式化した物』が『知識』だと考える。そしてそれはその『瞬間の主観』が『共通認知の概念』に『固定された状態』が『本』という『知識の集約』であり
そこに『本当』や『本質』という『原点の軸』を定めると、その『本』が生まれた『創造ルーツ』が見えない。つまりはそれが『聖書』であり『経典』を書いた者達の『真意が見えない状態』で『鵜呑みにしている事から離れられない』という事
いつの『時代』のどんな『環境』の『何』に対する『情報』が書かれた『本=知識』なのか?
それは『そこを原点』とする『ルールを決めた者』の『舌先三寸の巧みな弁舌』によって無知蒙昧で『自分で考える事』をしない『甘い奴ら』が『舐められてる』という『本気』に『遊ばれている』としか思えない
「『本気』出して見ろよ?」(・∀・)ニヤニヤ
「お前の『本気』なんてたかが知れてるよ」(・∀・)ニヤニヤ
だって『本気を信じてる』時点で『本気(本の内容・ルール)をコントロールしてる者』には絶対に勝てないし抗えないようになっている
『本当』はね=本を当てる
『本質』を見誤るな=格式・ブランド
『本気』を出せ=内容を盲信しろ
うーん(´・ω・`)巧みな弁舌で『最後の拠り所』を『外部から与えられた知識』に『誘導』されている気がする。これは『邪』の仕業だね
だから思うんだ『本気』なんてものはない
最初からある=『元』からある『気』
『元気』があればなんでもできる!!✧ ٩( ๑•̀o•́๑ )وΣ(゚д゚;)
『本を盲信』している限り『限界』が決まっているため『新たな創造』はできない
マジとは真面目(▭-▭)
『面目』が立たないとは『顔向け』できない
目的が達成できず『心』に『罪の意識』を持ち自分を『恥』てる状態
つまりは『焦って』いる。取り返そうと『躍起』になって事を急いでる『不安定』でもある
急いては事を仕損じる
また『ネジ山なめらす』ぞ┐(´∀`)┌ヤレヤレ
そこに『真』が着くことで『真剣』に向き合う意思=『真面目』にやる
『悔い』が残らないように山なめて出る『杭』が残らないように
自分に『恥じない』ように自分が『やるべき事』に向き合う
『人事(主観)』を尽くして『天命』を待つ
そのために『道具』に『真っ直ぐ』正しく『回転(循環)の力を伝達』する
『ヒト』だって大きな『共同建設作業』の中では『道具』のひとつでしかない
つまりは『自分自身』に『正面から向き合う』という『姿勢』の事を言っている
そうすりゃ『なめない』し甘い奴!なんて『舐められない』
『真(心・神・身)』に向き合えば『面目』が立つ
これが『真面目』と書いて『マジメ』と読む(ありのまま)
その原動力は『元気』
『本(知識)』に頼らなくても『元からある力』であり『目的を達成』するための行動から、「より良くできないだろうか?」から始まり自分で考えて『創意工夫』する事から『最適な道具』という『知恵』が生まれ、その道具の『効率的な使い方』という『知識』の集約の本(マニュアル)になる
『本』という『道具(知識)』もまた『人の使い様』
ただの『説明書』や『HOWtoの教え』を『バイブル(聖書)』とか言って利用して『嘘(ラッパ)』と『金と本』で『地位』という『土台を建設』したのが『宗教』の『本気』
つまり『元気』がなけりゃ『本気』は生まれなかったという『パワーバランス』
本読んで『叱咤』か『仏典』じゃねーよ
『体感』無くして『理解』なし
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ?(ビジネス養護する用語)
『莫迦(本のひとつ覚え)』はほんと『馬鹿(鵜呑みの思考停止)』を生む
その『実践して体感』した『愚者(元気)』がいなければ、その『歴史(経験)』を学ぶ『賢者(本気)』は生まれなかった
『本当』の愚か者は『賢者』なんだよね
『本質』的な愚か者は『賢者』なんだよね
『本気』の愚か者は『賢者』なんだよね
『皮肉』じゃなくて『言葉の意味』が『そのままそう読み解ける』という事
『愚か者』を賢者の『対比の役割』として捉えるか?
『愚か者』を賢者からみて『蔑むレッテル』として捉えるか?
どっちにして『本』という『道具』が生み出した『知識』というのは、こうやって『矛盾』や『齟齬』が生まれるから、出所が『嘘』だったら
『騙る』に『堕ちる』┐(´∀`)┌ヤレヤレ
その『本』当、『本』質という『本の枠』=『視覚の四角』の重いコミットから出られないから、「おかしいぞ?(´◉ω◉` )」と気づく人が
哲学者=『本(与えられたルール)の矛盾』を見つける『時代のデバッガー達』だと思う
でも最近の哲学者って『本の虫』で『本の知識』で『語り合ってる』から『鍵穴』は見つけても『見つからない鍵』を探してる。それをずっと『哲学者は語る…』と『本で継承』して『後世に問い続けてる』けれど
自分で考えて『内面で生み出した鍵』を使う『新たな創造』という『発想』はなかったのだろう
だって言いえて妙な話、みんな失敗して出る杭になってしまい「なめやがって!」と世間に『打たれたくない』から『二番煎じ』でキャンキャン吠えるポジショントーク
「社会に認められなければ意味がない」というベースでは『自由な発想は難しかった』のかもしれないが
究極突き詰めれば『意識の世界』は周りに関わらないで心が『自己満足』する事ʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)タシカニ
という訳で私は『自分の経験』から『本』=『崇拝対象』にしているのが『間』違いで本当に大事なのは『元』なんだろうなと
『完』 ( ◜ω◝ )Σ(゚д゚;)うかんむり着いた
次元、次元と『次へ次へ』と言うけれど『元』を『ないがしろ』にしてないかい?
人や物事を、あっても無いかのように軽んずること
『元を正せば』…という言葉がある
物事の原因や起りを調べ、はっきりさせること。
『元はと言えば』という言葉がある
根本的な原因や事の発端に言及する際に用いる言い回し
そうこんな風に、『元気』と『本気』には『根本的なエネルギーの発信源の違い』がある
「元気を出して( ◜ω◝ )」と言われたら何となくわかるけど、「本気を出して!(´・ω・`)」と言われたら(本気…なんだけどな?あれ?本気ってなんだ?(゜-゜))みたいな、結局、『本気』が分からない以上、そこが『頭打ちの限界』=『何気』でしかないのさ(笑)
だってだいたいがさ?『本気って言うタイミング』が…
一回『負け』たり『失敗』した時に『次は本気でいくぜ!』という言い回しの時点で『次に期待』してるじゃない?
『次がある=次元がある』というのはなめてかかった後の祭りの『逃げ口上』
『元を正せば』って言う最初から『真面目』に取り組んでおけばいいだけの後悔先に立たず
ほら『なめて』かかって『杭』が残ったw
本気、本質、本格的、本当、本筋
全部『教本』や『経典』の『教義やシナリオ』を指す
これも『思い込みの常識』の『根っこが深い間違い』のひとつ(掘り返さないと)
ちなみにカタカムナの思念読みも見抜いている
元気の言霊は
内に強く全放出する/放出しない強いエネルギー
『悟空の元気玉』がなぜ、みんなから『ちょっとずつ分けて貰うシステム』だったのかがよくわかる。みんなが持ってる元々心に秘めた『想いを実現』させる為のエネルギー
それに対して本気の言霊は
強く引き離すエネルギー
は?(;゚Д゚)意味わかんねー・・いや、『元』を『ないがしろ』にして次の『次元』へとするエネルギーの流れに感じる・・本だけに『薄い』なぁ┐(´д`)┌ヤレヤレ
私は最近『嘘』に対する対義語を『本当』と言わないように気をつけている
『口』に『虚』と書いて『嘘』
舌先三寸の口から出任せの弁舌、それを『言い負かす=論破』が『経典や教本』と言っているようなものだが、これは『マッチポンプ』
『ことわざ』という実際に役立つ『生き字引の知恵』は『本』からではなく『体験から生まれている』と実感する
そんな『体験』には『体力』も『精神力』も使うため『元気』がなければいけないが、その『元気』は物事に『興味を持つ好奇心』からも湧き出て、それを『追求する意欲』からも湧き出て
探し物を見つける
辿り着きたい所へ到着するまで
無限に湧き出るエネルギー、それが『元気』
でも私はあえて『元氣(巡る)』と書く
『元』が大事なんだよ
『完』 ( ◜ω◝ )Σ(゚д゚;)
本(固定概念)に囚われないで、『真』に『面目』立てられるような、心に恥じない『想像』と『創造』から『新たな知恵』を生み出そうぜ!『元氣』があれば『難』でもできる!
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