ふと思いついたある仮設=思考実験シミュレーションをしてみたら、老年期の魂には2つの役目がある事に気づいたお話
老年期の魂 意識の転送を感じ始める
ある仮説を立てたら老年期の魂の役目がなんとなくわかった
もしも世界の『一角』ずつ
『似て非なる世界に瞬間移動する』とする
例えばマンションやアパートなどの部屋を
『住人が寝ている時』にそれを行った場合
目覚めると『景色は全く同じ』なのに、隣人や周りの人の『行動や言動が違う』とする
実はその世界は魂年齢が『老年期だけの世界』
老年期の魂の特徴は『自分から犯罪を犯さない』
反省して『後悔するような言動や行動』を取らない為、『人を傷つける業』を選択しない
さて、そんな老年期の魂からみて、魂年齢の『特徴別に行動を予測』する
幼年期の魂は『盲信した事以外に反発』する
例えるなら「アニキ!」と慕ったら『それ以外』を遠ざける
老年期の魂は『集団』を好まず『孤高・一人が落ち着く』
そして『自分のやりたい事』以外興味が無い
『自発的な行動を取らない』で金魚のフンのように『なんでも聞けばいい』と慕われて着いてこられる時点で
関わりたくないと思う(-ω-;).。oO
若年期の魂が老年期の世界に現れた場合
『自分よりも下』に見た『腰が低い相手(老年期の魂)を支配』しようと『嫌がらせや弱みを握ろう』と『腹黒の笑顔や言動を使う』のを見透かしてる時点で
関わりたくないと思う(-ω-;).。oO
成人期の魂・邪が老年期の世界に現れた場合
左翼も右翼も上下もない『軋轢ゼロ』だから、自己犠牲の『中間』という立場も『それを利用する邪』にもなれない=『周りの力を利用出来ない』ので、立場もなく『何者』にもなれない
『周りの事』ばかりを気にして『掴もう』としても、周りは誰も『ぶつからない』から、それを『分断してわざとぶつけさせようとする邪』には
関わりたくないと思う(-ω-;).。oO
このように『幼年期・若年期・成人期・邪』という『4つの段階』の魂の経験値で、『老年期の異世界(仮・霊界)』に空間転送したとても、住人側から『異物を見抜かれて追放』されるだけ
それはかつての私・・(-ω-;).。oO
老年期の魂が住む世界に老年期の魂が入ったとしても
老年期の魂は「コイツは大丈夫だ」と判断した上で、(こいつが求めるものはなんだろう?)と『興味』を持つから
(๑•̀ㅂ•́)و✧やぁΣ(゚д゚;)話しかけてきた
『未知=類は友を呼ぶのコンタクト』を取ってくる
それに対しても、老年期の魂は「コイツは大丈夫だ」と判断した上で、素直に『心からやりたい真言』するから
(๑•̀ㅂ•́)و案内しよう✧ワァ─ヽ(*゚∀゚*)ノ─イ
と『その夢世界に適応』する
老年期の魂は争いから離れる『和の心』
和の心は『和の心を統合』する
十人十色、和を持って尊し
そもそも『大前提』として『和』がなければ『住めない領域』
これは『思考シミュレーション』の一例として、魂年齢が『一線を超えた世界』に移動するを想定した場合
幼年期〜成人期(邪)の魂と
老年期〜超越期の魂には
明確だが『見えない一線』がある
『隣人を愛し愛される環境』に『そのまま馴染める』か?
老年期の魂とは簡単に言えば『無為自然』
『あるがまま』に『元の環境』に溶け込む
だからある時、マンションかアパートの一室事、一軒家事、そっくりそのまま『現実の見た目の霊界(老年期の世界)』と入れ替わっていたとしても
老年期の魂だったら、あれ?『居心地が良くなった』ような?(´・ω・`)『住人も変わった』ような?なんか『悪意を感じない世界』だぞ?
と感じながら、『その世界に適応』する
しかし、今現在の世界で、隣に誰が住んでいて、何をしでかすかわからない・・という『不安』を抱えている意識だと
当然、『理想の世界に招かれていた』としても、それに気づかずに『敵意や警戒』をして『心を開く事』はなく、それを察知した『老年期の魂も関わりたくない』・・と元の次元に戻されるだろう
自分が変わらなければ、周りの変化にも気づかない
自分が『変わった』と『自己認識』できるように
自分を労わり『穏やかな凪の湖畔』にならなければ波紋を生み出す周りの波風に気づく事はできない
いきなり変わる感覚はない
全ては一つずつ『段階的に魂の経験』を経て『実感』して『区切り』をつけて理解して
その後に
「あぁ…そう言う事だったのか」としみじみ『和み』つつ『一段階上がった事を実感』する
『苦しかった』のは、この『楽しい』との『差を取る』為だったのだと
『苦楽』を『共・朋』にして『差取る』
そうすれば『苦を労う=苦労』が『有難い』と感じて
その『苦労(無)』を与えてくれた『無為自然の恩恵』に『和む事』ができる
『和』の環境に『和を持って』貴しとなす
老年期の魂は、その『和の心』を知った上で、和にならないものの『差取り(見極め)』を得る為にまた『無(全てがある)』と向き合う
『無の中』には『意識』はない『無為自然の自意識』として、時に『自を支える心』を分けた『自分』として『息』を吹き返す=邪な現実に戻る
この『別世界』がある、その世界の波動に『和を感じて居場所』を見つける
これが老年期の魂のひとつの役目
もう一つは・・
『無(全てがある)』に足りない『和足し(無為自然)』を渡す事
『一線を越えた領域』に受け入れられ『和する居場所』を見つけたら『その場所が有る』という事を『無い』に『気づかせる為』に
無為自然の『自意識を確立』した『自分』として『和足すため』に現れる
「あと一歩・・」と一線を越えようとして『越えられない自力の者』に
「心を軽くして、立場・役目を手放しなさい」と伝える
これは『現実的』には『目に見えない精神論』で、どうしていいかわからないと思う。しかし、現実に『具現化した和の言葉』をそのまま表現を変えて受け取れば
『自』を『支える心』という『縁の下の力持ち』である『心を軽く自由』にするとは、自を支えなくていい=『役目・立場に囚われる事』を止めて『心を解放』する
息から『心』を引けば、残るのは『自』のみ
その世界では『存在』しても『立場も役目』もない自のみ
『立場や役目』を欲すれば『我・割れ』と『分離』してしまう事を
善悪二元性・その板挟みの中間・その中間の拮抗の極端を操る邪・・それら『自』から生まれた『我』=『自我に苦しむ』から息苦しかった
でもそこから、『心が前』になって心を素直に解放して、『先に逝く心』に『自』がついていく
「息を引き取りなさい」
『生きて息をする事』を『生息』という『現実に執着』するけれど、生きる事で『自分の立場』という『自我』で『心』が『苦しむ』ならば
その現実は『心が求めていない』から、心が『浮世離れ』てしていき、その心を『自が追うように素直』に従えば・・
気が付けば、『その現実』から離れた所に『自意識』があり、そして『苦を与えてくれた世界』があったから『成長』できたのだと『苦の体験を労う事』ができる
『心』がそれを伝え、『自』がそれを『意識して観測』した時、『心と自』が『和』になってまた『息』をする
気が付けば、周りにいる人達は『和の心を持って生息している現実』になる
・・このように、老年期の魂は『自らが観て体験』してきた『老年期の魂=和の心の世界』の『真実を真言』している
『実』を『言』う『夢よりの使者』なのだが・・その真言に『聞く耳を持つ』のは、『自我の執着を自ら手放そう』と悩んで『釈迦力に頑張っている人』にしか届かない
幼年期の魂には否定される『反発』に感じ
若年期の魂には拒絶する『正論』に感じ
成人期の魂には越えられないと『悩み』に感じ
邪の魂には見ざる・言わざる・聞かざると『認められない存在』と感じる
全ての段階で『精神論が否定される』というのは、『成長段階で必然的な事』なのだと『その苦労』があるからこそ『苦を労い』有難いと『感謝』ができる
その老年期の魂にとっては、『自力で一線を越えさせる作業』が『心を軽く』するライトワークであり『差』取りで『和』足す行い
それを自覚する過程に『夢見』がある
『哲学者』の多くは『夢見』を大切にする
古代の文明にも『夢見の神官』がいたように、夢は『一線を越えた先のメッセンジャー』だが『現れる姿・役割』はその『魂の段階』によって違う
幼稚園児には保母・保父・園長
若年期の魂には争う敵・鬼
成人期には苦言を呈す仏
邪には悪夢/釈迦の説法
これらは『皆』ではなく『一人一人』への関わり方が違うのだ
縁あるものが『縁ある者と繋がる』ように『類は友を呼ぶ波動』で引き合うようなもの
『一人を和』にすれば一+人=『大和』
老年期の魂の次元はそんな一人一人が『和の心』を持っているから、『悪意の波動』がまったくない『和の心を求める者には快適な世界』
それを『霊界』というなら、そうなのかもしれないし、海外では『サマーランド』と呼ばれる『永遠の夏休み』のようなノスタルジー
私は何度も、そんな夢の世界を体験してきた
『悪意の波動の無い現実の心地よさ』を『五感の互換』だけでなく、『八識』で体験してきたから、『嘘偽り』なく『真言』として『夢』で見てきた『人・物・事』を伝えている
ニコラ・テスラのような『夢で受け取ったフリーエネルギーの知識』だとか、そういう『物質次元』に落とし込まなくても
一人一人が『想像と創造のエネルギー』を『和足す』事で可能な『別空間』
まさに『理想』だろ?まさに『綺麗事』だろ?まさに『夢物語』だろ?
それを『体感』してきた者が『有る』と言っているのに
それを『無い!』といい、またある『かも』しれないけど!と
真実・事実を『可能性(有無=無)』に取り込んで『禁忌として封印』してしまうのは?
「証拠を出せ!エビデンスをだせ!再現してみせろ!」=全部消してやる
それは『認める為』ではなく、その『存在を認めない』という『立場に執着する邪の妨害』
付き合いきれない┐(´д`)┌ヤレヤレ となり老年期の魂は関わらない=ほっとく=『仏悳』
だから『一線』を超える『最後の審判』は『夢の中』で問われる
『真』と『偽=人の為(執着)』を問われる『自由意志の選択』が待っている
私の意識がはっきりと変わったのは
「お前は大丈夫!好きな事をやれば上手くいく!」
「今見て聞いてきた事を誰にも話すな!」
この二択が同時に『もう一人の自分と対話する夢の中』で起きた時だった
そこで初めて『自由意志=好きな事をやれば上手くいく』という言葉を夢で『妨害してきた者』に『真言』した時、それは消え去った
まるで仏陀が「煩悩(マーラ)よ去れ!」の如く、現実の自分の意識は『邪な波動を感知』できるようになった=『抗体獲得』
そんで現実で重い波動の邪(思い込み=重いコミット)を避けてる内に『心が浮世離れ』して、その『浮世離れする心』に『自』が素直に従って『息』をすると息苦しくない
『自分』という『無の中の意識』の余生が終われば、『自』に帰るだけ、帰った先で『心と和』して息して生きる=『生息』
『邪』は『一線を越える』を『死=終わり』としているが、その『死後の生』が有るという『死生観』になれば
この『無』が『何の為』にあるか?
何の為に『自』が『分かれて体験』しているのか?
『業(役目・立場)』と向き合って修める=『修業』以外に何もない
授かった業・宿した命題=『授業の宿題』でしかない
それは『十人十色』、『人人唯識』『みんな違う立場と役目』で生きている
そういう意味で『哲学や真理を探求している人』の多くは『老年期の魂』であり、その老年期の魂の『真言に耳を傾ける心』を持つ者
『恥を知る=足るを知る者』の為に現れた『自分』という役目。それが『宿業』だけど、関わる界隈で『指導の仕方』も十人十色
みんな違ってみんないいけれど、その『根源に和の心』があれば、その『和を足されたもの』は『和に統合』する事ができる魂の成長をするだろう
老年期の魂は、老年期の魂をみつけ『和を足す』事ができる
類は友を呼ぶ=波動共振エネルギー
それは人の出会いだったり
それは物との出会いだったり
それは事との出会いだったり
影響するのは、『人間』に限らない、『人間に限らないエネルギー』と『和の心』で『共同創造』できるから、『見えないエネルギーの後押し』を感じて、『遊ぶ』ように『楽しむ』ように学び、『学んだ事を和足す事』ができる
そこに『取引』や『駆け引き』という『レベルの低い概念』はなく、そこまでいけば『八百万の神々(形容し難い)』というのは『無為自然の恩恵』と気づくだろう
そして無為自然の恩恵とは、『和の心に至った先人達の魂』でもある
だから、『先祖供養=先の祖を人と共に養う』というのは『一線』を越えるために『必然の精神段階』でもある
『今の意識の私』が読めば「深く心に沁みる~」と宿した先人も、その先人から日々、知恵の恩恵を感じてる自分も、『共鳴』するように『自画自賛』の内容(笑)
だけど、これもひとつの『自己表現=弥勒』の指標で、自分が生み出した『人・物・事』に『自信を持てない』のであれば、それは『何か』がそれを『素直に認められない』として『心を妨害』している事になる
さて、心が『世界=現実・夢』を映し出すという『唯識思想』に当てはめるならば、『阿頼耶識(八識・根源心)』に逆らうのは『末那識(七識・自己執着心)』だよね?
七転八倒
現代の意味 激しい苦痛に耐えかね、転げ回って苦しむこと
七転び八起き
現代の意味 何回失敗しても、それに負けず、また勇気を奮い起こすこと
唯識思想の八識に当てはめて七と八を読み解くと
私の独自解釈
七(自己執着心)が八(根源心)を倒す
私の独自解釈
七(自己執着心)が転生して八(根源心)として起きる
自我が心を傷つけて苦しむのか
自我が失敗を繰り返して転生して根源の心になるのか
こんなことわざの『忌=己の心』としても捉える事ができる
心に『自我』が逆らう=『邪が妨害』している
これをわかりやすく言えば
『自己評価を基準』とするか?
『他人評価を基準』とするか?
『自分の心が生み出した物』を『認めない理由』は『邪が支配する世界観の中』で『過小評価のレッテル』を貼られるから
最後の『宿敵』は『自らが生み出した自我』と言える。『自我』にとってみれば『自分の世界が消滅する危機』であるから『必死に抵抗』する
・・という状況を『想定』して一旦止めて、『俯瞰』で観よう
どういう『メタファー』に見える?(想像してみ?)
神話で言えば
神のやり方に『逆らうルシファー』
アニメで言えばエヴァンゲリオンの
父親(ゲンドウ・言動)に『逆らう息子(シンジ・神事)』
『新しいを生むきっかけ』の所にいる
つまりは『一線』を越える『自由意志』の段階にいる
この『観点』に至れば、『物事の捉え方』が一変する
そこは『親=執着の学びの為』の『自我が生み出した世界』
親には親の『護りたい役目の世界』がある
でもそれと『対立する自分』は『自分の求める世界』がある
その『同一レベルに至る』まで『成長』したのは『自分の意志がここにはない』と『気づかせてくれた苦労』があったからだろう
他人の評価、周りの評価を求めてもそこには『自分の求めるもの』はない。従っても、争っても、我慢しても、『邪の一人勝ち』の世界
邪に『金=力=権力=データ』が集まる仕組み
でも、その界隈に『唯一ないもの』を求めたら
もう、『そこに無いものをねだる必要』はあるだろうか?
何も気にしないで、立場や役割を求めず
『自己表現』して『心が自由』になってもいいじゃないか
自分が自分の『心に素直』になる
実はたったそれだけで『一線』は越えられる
その『一線を越えた先』に、それを『和』として『受け入れる世界』があると、『示現常詳=示し現れ常に詳しく』するのが老年期の魂の『立場』を持たない『カタチなきエネルギー』の表現
どっかの誰かが『救ってくれる(他力本願)』・・のではなく
どっかの誰かが『すっと消える(自力)』だけの事
『意識が変わる』というのは、そのくらいあっさり『関わる世界』が変わる
少年少女、『心に素直な子』はいつも『自力』だから毎日『見る世界』が変わっていく
無性放任
「無性放任」という言葉は、一般的には「無関心」や「放置」といった意味合いで使われます。教育や子育ての文脈では、親が子供の行動や状況にほとんど関与せず、自由にさせることを指す場合があります。しかし、この言葉はしばしばネグレクト(育児放棄)と混同されることがあります。
『邪』はいつも『言葉をねじ曲げる』からわかりやすい
『無(務・夢・全てがある)』の『性質』は『放って任せる』=ほっとく=『仏悳』
色んな『務』を演じて、色んな『夢』を遊べと自由に体験させる=『輪廻』
その『通った輪廻の業』を全て回収して『修め』たら『修業』は終わり
無生法忍
法華経における「無生法忍(むしょうぼうにん)」とは、一切の存在が無生、すなわち生滅変化しないことを悟る境地のことです。これは、変化し続けるこの世の現象に惑わされず、真実の理を体得した状態
その『自力の苦労の環境』を『与える為にほっとく』からこそ
子供は風の子、元気な子! と外の『自然環境』で遊ばせた
周りも皆そうで『通ってきた道』だから『暖かく見守る精神が大人の環境』があった
昔の先人たちは、そのくらいざっくり『おおらかな心』だった
『知らぬが仏=複雑な知識がなかった』から以外と素直で簡単だった
でも、今の現実は・・『複雑怪奇』だよね(笑)
昔は無かった『知識やテクノロジーを代用する事』が当たり前になって、人の根幹となる『心主体の精神論』が貶められて軽んじられて
毎日『嘘や騙しのフェイク情報』が人の意識の観測する世界を『カオス(混沌)』にしていく中で、それと向き合う為に夢と現実の『夢現の感覚的量子論』を書いていく今の私の意識は・・
『問題に巡り合い解決』を『思考シミュレーション』で『遊ぶように楽しんでいる』から、間違いなく『釈迦力のサポート』を得ていると実感する(笑)
伝わる人には伝わるように
伝わらない人は『ほっとく=仏悳』
伝わらない=聞く耳持たない=恥と向き合わない=『邪の虜』
邪には『邪の役目(一線を越えさせない・ネガティブ・拒絶)』
それもまた『釈迦の説法』の為の『弟子の陽動』でもあるから、やはりこの世は『三千世界(有るし無いし)』の『修業の空間』である
ま、好きにやりたい事をアソベって事だ
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