好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

引き寄せの法則 の果ては無

引き寄せの法則という『無いものねだり』という〜たる法則に気づくお話

引き寄せの法則の嘘と本当

引き寄せの法則という考え方に『既に叶った自分を想像する』という方法がある

『想像・イメージの力』は大事だ

しかしこれは実はまだ『途中』であり
その果ては『無』である

これは念願が『叶った状態』
つまり『足るを知り満足した』という事

『満足した』という事は『もう必要ない』という事

ここで『必要ない』と思えない時点で
それは『満足していない』という事になり

念願は『叶ったとは言えない』

という事は

最終的に『必要ないと思える状態』とは
最初の時点で『必要としない事』と言える

つまり始まりは『無(足りないを知りたい)』
そして終わりも『無(満たされたからもう必要ない)』

この『〜たる法則を知る事』
これが引き寄せ=イメージで『心が満たされる』
心が満たされた時点で『念願は叶っている』

それを『現象』として『現実に形』にして『所有』しなければ…というのがもう『蛇足』である

現象として『具現化した人・物・事』には
それぞれ『役割のエネルギー(業)』が生まれる

わかりやすいのは『金=力』である

これを『引き寄せ生み出した者』には
当然、『金=力』をどう使うか?

その使い道と使った後の因果の結果まで
その『業の回収』が発生し『業を修める修行』が始まる

心や魂からすれば、それは望まない『余分なエネルギー』であり、『生み出した分かれた自我=エゴ(欲望)』だから

『自分』『割れ我(仮想の金と関わった他人)』と向き合い『執着を手放す』までその『金=力』に振り回されるだろう

『金は天下の周りもの』と先人が言うように、金を『求める者』に金は『奪われ』、元々『無かったもの』『取り返そう』と繰り返す

所有に至れば、『元々ない喪失感』を体験する事になる

元々ない概念 所有感と優越感と喪失感

そうなると元々『無いものねだり』の堂々巡りである

だから引き寄せを『勘違い』している
と言うより法則を『間』違えている

念願=今の心の願い
それが叶う想像をした時

『想像で満たされた』なら『心は満足』している

満足したら『もう必要ない』
必要ないから『執着』しない

私は夢を見る
その『夢の中』で人から学ぶ
そんな『学ぶ体験』をさせてくれる『人の夢』

『儚いもの』かもしれないが
その中で『必要とした物事の果て』を体験し
同じ体験はもういいかなと『忘却する(興味を失う)』

大金や権力、やりたい放題、自分勝手をしたシミュレーションなんて山ほどあった。その夢(現実)に依存していた頃は「もっと!また!」『執着』したものだが…

自分の『心と向き合う』ようになった時、夢見は変わって

今まで大金や権力、やりたい放題、自分勝手をして得たシミュレーション…の『その後の自分のやらかした影響が反映された世界』を見て、『心を痛める=心と向き合っている』

「俺は今までこんな心を裏切る事を引き寄せて求めて体験していたのか…」と思う事なんて山ほどあった

その自己反省、『自業自得の因果応報と向き合う事』『引き寄せ』だと気づいた時

最初からそれを『望まない、生み出さない』
引き寄せの法則とは『金輪際を見極める』為に行う『業の回収を早める事』だった

だから間違わないで欲しいのは

引き寄せで『現実に集まった金=力』は…
それは果てに至る『過程の地獄の一丁目』

金は金を呼び、そして貯まったら奪われ、取り返そうと必死になってさらに金に執着を強め、取り返したら奪われないように金を護る事に金を使い…

という『流れを俯瞰』で見ればこういう『ことわざ』がスコンとはまる

溺れる者は藁をも掴む
溺れるのも『金』 、金は『沈む』

しかし、それはまだ『過程』
『どんどん沈む』からこそ『手放せば浮く』

『息=自らの心』ができるようになって
「最初から、掴まなければよかった」と思い知る

金剛界の釈迦 (*ノ・ω・)ノ⌒。『金(藁)』を放っとく=仏徳

沈んで手放して浮かんで来た者は
(ヾノ・ω・`)イラネ ← 金ほっとく→仏悳

その『心境』で『溺れさせる金(業)』を投げられても
『浮かばれないのを体験して気づいてる』からほっとく→仏悳=成仏する

これもまた業を修める=精神修業の賜物

始まりは『無(全てがある)』
そして終わりも『無(全てがあった)』

『全て最初からあった』が『望まないもの』は手放した

(一人一)人の夢=儚い人生だった

引き寄せは『心を満たした』時点で終わり
それを『現象として体験を求める』『人の夢』という『儚い業』になる

しかし、『無いものねだり』でもあるから
『沈んだ先』に何があるのか?『怖いもの見たさ』『金=力』を求めるのもまた…

幼年期の魂の『溺れる経験値』に必要でもあり
若年期の魂の『底を求める経験値』でもあり
成人期の魂の『浮き沈みの方法を模索』する経験値でもあり
邪な魂の『溺れる金を放る』(*ノ・ω・)ノ⌒役目の経験でもあり

『自力』で浮かんで、そんな浮き沈みの激しい領域から『離れた所』から『景色を俯瞰』で見ている老年期の魂は

自力で浮かび上がりそうな『聞く耳を持つ成人期の魂』に
「執着を手放せ(*」´□`)」」とアドバイス

自力で浮かんで泳げる『仲間=老年期の魂=同士』が出来れば『違う所で違う遊び』ができるよね〜と

邪が人も金も放る『遊泳区域』は(*ノ・ω・)ノ⌒。
実は遊んではいけない『遊泳禁止区域』だと気づいて

そこから『解脱』するようなもの

引き寄せの法則の『嘘と本当』とは

嘘とは『口から生まれた虚』であるが
『本』『当たれば(ヒット)』実態を『具現化』する

売れた本、売れる本
その『本質』『売れる=金稼ぐ』ならば

類は友を呼ぶ=金剛界においての引き寄せはまさに『信者=儲のカモ』にする
『サギ』による『business=忙しい(心亡)役目』が引き寄せられた現実世界と言える

これが嘘から出た本当=本当は嘘

その「本当だって!と売れてる本だから」と人が言う事を用いて『信用』とし、売れた数=信用の束の頁として『信頼』を集める事で

本当は『嘘』の
嘘から出た『本当』の
『引き寄せの法則が具現化』される

不本意ながら本心も本音も分からない真理

その信者は「夢が叶った!」…と言うが
それはまだ『途中の過程』に過ぎない

なぜ最初に『無かった』のか?
なぜ『無いものねだり』をしたのか?

『果てに至る』までに『執着して所有した業』によって苦しみながら、それを『手放して元の位置』に戻ってくる頃には

最初から『必要無いを選択』していた
心は無いものねだりをしてなかったと気づき

その『無いものねだり』をした原因が『邪な情報』を目に、耳に、口にしたから
それが『引き寄せられて現実体験』になった

足るを知らなければ満たされない
〜たる法則を見極め金輪際と執着を手放さなければ
自力で浮かんでほっとく=仏悳=成仏もない『浮かばれない例』

引き寄せの法則は『元から有る』けど『本当には無い』

それこそ『空』を想う『想像』の力

最後にひきよせをカタカムナで読み解くと

根源のエネルギーを新しく引き受ける
『心が投影される』として読めば

『心と向き合う事』こそが『最も大事な引き寄せ』だと示しているようなものだ

私は自分の心が求めた物事の先で、たまアニメやゲームなど『創作物を見る機会』に導かれる事がある

カタカムナ研究11 やっぱりガンダムSEEDに全部詰まってた(笑)

カタカムナ79首 NARUTOに導かれた理由に納悳だってばよ!

導かれしクロノクロス 全てはサラの夢日記

見る前は「なんでこれ?なんで今!?Σ(゚Д゚)」と毎度わからないのだが・・
見終わってみると、『今の自分に必要な気づき』が必ず見つかって

「いや~見てよかったわw」と納悳して心はもういいやと興味を無くす
これが『引き寄せ』であり、『果ては無』であると気づいた

最近も、Gundam GQuuuuuuXを急に見る気持ちになった時、見終わって同じように納悳した

感覚的量子論 機動戦士Gundam GQuuuuuuXの哲学

意識の連続性、存在の連続性、夢の役割など、『心が求めていた精神の分野』が
この作品と、作品を見た事によって体験としてフィードバックされた『心が見せた夢』で納悳した

九龍ジェネリックロマンスで気づく 仮想と現実とノスタルジー

『納悳』すると、「もういいや」と『氣締め』がついて『無』に至る
今までの『執着』はなんだったのかと思うほど、まったく『興味』が無くなる

でもそれは『足りないを知るための全て=無』をへて
『足るを知ったから無=全てある』に至った果て

これは現実的には作品を『見る前』と『見た後』では何も変化はないが
『心の中』では『満たされたという満足感』が生まれている

引き寄せの法則 の果ては無
もういいや=業を修める『修業』が終わった状態

心に素直に『悳』を積む
それ以上も以下もない『中心』である(一人一)

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