ふと気が付いたら見始めて・・気が付いたら最後までめを離せなくなっていた『九龍ジェネリックロマンス』というディストピア+ノスタルジー、仮想と現実の狭間で自我を得る意識と、我を取り戻す気締めの哲学に気づく作品
九龍ジェネリックロマンス
ディストピア作品と言えば、近未来SFサイバーテクノロジーの発展による監視社会ものが多いが、この作品は
懐古、懐かしい、ノスタルジーという失われたくない古き良き心地よいものとして、外界から隔離された『有るけど無い』という『空の間』で起きる様々な不可思議
鍵となる言葉 懐かしい=恋と似ている
作中で使われる『今と昔(失ったもの)を繋ぐ言葉』として、『懐かしいという感覚は恋に似ている』という表現が使われる
言われてみればノスタルジーとは『心地よい、暖かい、穏やかな夏の風、夕日』のような
『変わらないでほしい、いつまでも』という『願望が生み出す雰囲気』とも言える
恋もまた、その人やその人を『包み込む雰囲気』しか見えない状態になり
ずっとそれが続けばいい「この瞬間が永遠だったら・・」と夢中になる
しかし、恋は『故意』でもある
意図的にそれを『持続・継続しよう』としないと『変わっていく』
もし『一人が変わらない事』を望んでいても
相手が『関係性が変わる事』を望んだとしたら?
『懐かしい=恋』は失われ『新しい=愛=執着』になってしまう
例えるなら『恋人』で良かったのに『夫婦=束縛』という関係になる
また別の例えをするなら
『変わらない風景に恋』していても、時と共に『立場や年齢が変わっていく自分』
『懐かしさという夢の中』で『自分だけが現実に覚めて』いく
ここが好きで、ここに恋しているのに
ここが変わってしまう、ここにいる自分が変わってしまう
『変わらない事を望んだ気持ち』は何処へ行く?何処へ行ける?
これが物語から『失われた一人の気持ち』と私は感じた
反対に変わる事を求めた『失われた懐かしさ』に取り残された一人は
『変わっていく現実』を止めて『変わらない夢を続けよう』とする
そんなものは『有りもしない夢』なのに
そんな夢を『無の中に生み出した創造主』となった
その『全ての大切な懐かしさ』が有る中で
『唯一再現』できなかったのが『失われた恋心』だった
夢の中に再現した失った恋の懐かしい相手の中には
その『懐かしさ』の他に『新しさ=変化』があった
それは『想像主である自分の気持ちの表れ』でもあったが
それを『認めてしまう』と『夢から覚めてしまう事』を恐れた
・・と、こんな感じで
ディストピアという『監視・管理社会』を『物質テクノロジー』という観点ではなく
『一人の人の心の束縛』による『自由と不自由』が創り出した『現実には存在しない仮想空間』
懐かしさ=ノスタルジーに浸る自我の夢
と『自我が抱えた業』と『心』が向き合わない限り消えない空間
その『仮想空間を解放するきっかけ』になるのが
『現実』とその『懐かしい夢を観ている仮想空間』を『理解して出入り』する者達
私自身が夢の世界で「これは夢だ!」と気づいて『明晰夢』になり
『自分の意志でするべき事をする』のと同じように
終わりは「ここは仮想空間なんだ!目を覚ませ」と
『気締め』をつけて呼びかけるのも同じ事
その想像の力を具現化したディストピアの『創造主』がこの作品では『日本人』
舞台は『九龍』で周りは皆、『別の国の人』なのに日本人
最初は『嫌だ』と先入観で思っていても『雰囲気』があってれば住めば都
そこには『人種』という問題はたいした事はない『和の心』で調和があった
それを日本人は『懐かしい』と感じた
その懐かしいという『懐古に恋』をした
しかし、そこはもう『存在しない失われた場所』だった
その九龍に住む住人は『皆仮想』であり、『現実では別の所』に存在する
これは『日本人』が『失われた懐かしさに囚われている』という『アンチテーゼ』
『変化』を受け入れ『前に進め』という作品でもあると感じたが・・
『私個人』の考えとしては、『懐かしさ=恋』のまま
『永遠に続く夢のような現実の夢の中』で満足したと
『足る』を知って『その理想世界と共に去る』というのも
『ひとつの選択』なんだろうとも感じた
作中では、『失われた恋人の気持ち』は最後までわからないまま
そして『新しく変化した存在』についていくように日本人は前に進んだ
一見、『グッドエンド』のような終わりだが・・
『私個人』としては、これが『金輪際の見極め』なんだろうと感じた
『足るを知って満足』したら『思い残す事』はない
『失われた心』はカタチを『再現』しても『元』には戻らない
元に戻らないから、『心の隙間』を満たす為に
故意に恋をしようと『穴埋め』するが、それは元とは違う『異物』
『元』に『次』を足して前に進む=『次元』は産まれる
しかし、次元もまた『時限』で変化の『示現』が現れる
その時、変わりたくないと『懐かしさを維持する故意』を続けるのか
それとも、その懐かしさを『手放してまた次へ』・・と進むのか
『元を大切にしない』と『次元』へ向かうが
元に『心地よい懐かしさ』を感じるという事は・・
その時点で『元』から『離れてしまった後悔』がある
失われた気持ち=『後悔を抱えて生きる』と『過去』に囚われる
しかし、その『後悔』を糧に『前』に進むと『次=未来』が生まれる
この繰り返しは『時限』が尽きても『続く永遠(過去・今・未来)』
『人の心』はどこで『満足』するのか?
例え『出逢いを再現』しても『満足した二人』が出逢わない限り『スレ違い』が生まれる
もしかして、これが『ツインレイ』という『心を満たす存在』なのかもしれないが
だとしたら、やはりそれは『心』として『繋がっている存在』なんだろう
『心の中』で『二人が一つ』になれば、もう『現実化はいらない』とも言える
最初は、九龍→クローン
ジェネリック医薬品=遺伝子組み換え・全身整形
空に浮かぶ謎のテクノロジー=仮想空間・メタバース
小説の上巻は読むけど、下巻は読まない=物語の最後は知らなくていい
古き良きノスタルジックでSFなど全く関係ないデストピア
複雑に絡み合った展開が『九龍の構造』のようで『推理小説』のような奥深さ
たった一人の『男性の執着』と『失われた女性』=アダム(求める)とリリス(離れる)
代わりに創ってみるけど、コレジャナイ=アダムとイヴ
懐かしさは恋に似ている=『永遠』で有ってほしい
しかし恋は『故意』に続けなければ『愛=執着』に変わってしまう
そのどちらでもない好きに囲まれた際で『まどろんでいたい』
・・という気持ちもわからないでもない
なんとも、『哲学的に面白い作品』である
私がこれにはまったのは、『意識の連続性』と『存在の連続性』を研究していたからだろう
まさに、この作品は『そのテーマ』と一致していた
これも何の先入観も前情報もなくみつけ
自然に、何気なく見始めるというシンクロニシティ
私の『心』が『それを見ろ』と薦めてきたのだとしたら
たぶん私も・・
小説の上巻は読む=胎蔵界の大日・釈迦(元)
下巻は読まない=金剛界の大日・釈迦(次元)
この作品もまた、『セト際』で『金輪際』と相似する学び
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