好奇心

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日本はいつから日本になったのか?

日本という国号、他国では倭国?それを変えたのは、中国史上唯一の女性皇帝「武則天皇后」!?その則天武后は仏の顔のモデル?!?そこに李一族(卑一族)と「卑」弥呼の繋がり!??!?物語はかくも壮大な日本列島創世、ゼロ磁場の話に・・な歴史考察話

他国の歴史上では倭国の併合?

先日、とあるシンボリズムアイコン考察から気になったのが、生まれてから現在まで疑問に思わなかった「日本」という国名のルーツ

シンボリズムの呪術 厚生労働省のロゴ偏

日本という国の名称はいつから?という同じような疑問の考察記事を見つけました

「日本」はいつ生まれたのか? 古事記にないのはなぜか? 国号の謎を追う

その一部を抜粋すると

日本 由来

要は歴史上、他国から見ては倭国もともとあった日本?という名称が併合された説と、推古天皇が国書に日出づる処の天子と自称した事から日本となった説(その際には他国は倭王としか認めず)

しかしのちに唐の則天武后の時代の際に、様々な制度改革があり、唐は国号を周に改め、またその際に倭国を日本と呼称を改めた説

この相反する三つの説が存在する時点で、実は日本という名前の由来はわかっていないようで・・しかし、この三つめの則天武后というのは・・中国の長い歴史の中でも三大悪女と呼ばれ、壮絶な伝説を数多く残しているとの事で・・

そんな人が日本の名称決めた!となると・・ちょっとこの人のエピソードが気になりますよね?(;´∀`)

中国史上、唯一の女性皇帝 則天武后

655年、唐の高宗の皇后となったが、高宗が病弱であったことから、664年から政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)を行った。
則天武后は、唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族で、関隴とは陝西省・甘粛省一帯を言う。)を一掃した。高宗の死後、実子の中宗・睿宗を相次いで廃帝として、690年、自ら皇帝として即位、聖神皇帝と称し、国号を周(武周)に改め、都を洛陽として神都と改称した。中国史上、唯一の女帝(在位690~705年)である。705年、老齢となったため子の中宗に譲位、国号も唐に復し、その年のうちに死去した。

・・(;´・ω・)一旦、感想

えーっと・・唐はこの人のせい?で15年間の間、周という国になっていて?死後に結局、唐に名前を戻したって事は・・そもそも論として、唐の人達は、国号を変えるという事に賛同してなかったと読み解けますね

それと気になる一文が・・

李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族)を一掃した

という部分

李一族、いやその前に、鮮卑系貴族の「卑」の文字は、卑弥呼にも使われている。卑弥呼といえば、倭国の女王として記録されている事から・・もしかして李一族?

私の中ではここまで想像が広がるのだが・・もう少し詳しくみていこう

則天武后の政治

現代中国の中学校歴史教科書では、「武則天は皇帝となって、唐の太宗の生産発展の政策を継承して推進し、また多くの才能のある人を破格に抜擢した。」と評価が高く、本人自身も「幼い時から聡明果断で、文学や歴史に精通し、14歳の時に宮中に入った。」と好意的である

則天武后は科挙制を強化(進士科の中心試験科目に詩賦を置き、官吏登用に文学的才能を重視した)し、官僚制を整備、また律令制度の官職名を『周礼』を手本としたものに改めた。
自ら漢字を創作し、則天文字と称した(国を圀とするなど)仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。これらの改革は武周革命とも言われる。

うーん、政治的な社会制度基盤を安定させた・・かと思いきや、官職名を変更したり・・まではまだいいとして

自ら漢字を創作し、それを自分の名前を付けさせるという自己顕示欲のやりたい放題・・仏教を崇敬し、畜生の殺生や魚の捕獲を禁止したり・・あたりからおやおや?という

社会的な制度の安定というより、思想強めの生活スタイルの強引な改革というより改悪

その観点から考えると、李一族を土着の・・という表現をするあたりが、差別主義

ふーむ(;^ω^)困ったばーさんやで

則天武后のスキャンダル

この則天武后がどこから野心を持ち始めたのかわからないがざっくりまとめるとこうなる

武照(のちの則天武后)は14歳で北宋の第2代皇帝老齢の後宮に入り寵愛を受けるが、太宗が亡くなった後、尼になる。太宗の息子の高宗が皇帝となった際に、側室の蕭淑妃に熱を上げたのを正妻の王皇后が妨害するために、皇太子だったころの高宗と密通していた武照を(僧が俗人に戻る事)後宮に入れる事で、高宗は武照に夢中

そして皇太子を虜にした武照との間に子供が生まれ、このあたりから・・ちっとドラマ的な展開になる

①生まれた武照の子供を王皇后が見舞った後に子供が急死
急死の原因は王皇后のせいだと皇帝に訴える
③皇帝は怒って王皇后を廃し、武照を皇后にする
皇帝は病弱だった事から、変わって政務にあたり「垂簾の政」で実権を握る
良識派の批判も強かったが次々と反対派を潰していく

・・(;´・ω・)一旦、感想

おれっち・・こう思うんだ・・

生まれたばかりの赤ん坊の命を成り上がりのための政略の道具にするとしたら、皇帝の病弱ってのも、垂簾の政でやりたい放題するために徐々に病になっていくように一服盛ったんじゃね?

で・・

その皇帝としての統治の間に、科挙によって官僚となった実務派が台頭したことが指摘されている

という事は、自分がやりたい放題やるためのお仲間新しい政治的な決定権の内閣として地固めをしっかりと行って、元々唐王朝の成立を支えた北魏以来の北朝の各王朝の軍事基盤であった関隴集団と言われる鮮卑系貴族の李一族の一部を一掃したと・・

そして倭国という名称がその当時に外交として記録されていたのだとしたら、卑一族の痕跡を消す意味で、倭国を日本と変えたのだとしたら・・それはつまり、卑弥呼が統治していたという邪馬台国=李一族?

もしかして日本の失われた歴史がこの辺にありそうな・・

大仏の顔は武后に似せて造られた?

中国で起こった仏教の宗派である華厳宗は、朝鮮を経て日本にも伝えられた。奈良の大仏といわれるのも正しくは「毘盧舎那仏」で華厳宗の本尊。武后は自らの脂粉銭(お化粧代)二万貫を寄付し、大仏の顔は武后に似せて造られた

この時唐に留学していた玄昉はこの像を見ていた。帰国後聖武天皇によって僧正に任じられた玄昉が光明皇后に大仏造営を進言。いずれにせよ、大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は、則天武后を真似たもの

ほう・・それでは則天武后のご尊顔といこうか?( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)

武則天皇后

えーと・・・細木数子かな?

細木

ズバリいうわよ!あんたはこうしなさい!それじゃダメ!私の言う通りにしなさい!

私は全てをわかっているのよ!的な傲慢かつ自信家っぷりと謎の占星術?か知らないけれど、改名した芸能人はことごとくダメになる呪い

もしも、生れ代わりがあるとしたら、現世でもその自己顕示欲が再現されたって事なんじゃないの?って思ってしまうほど

名前を変える→ダメになる の法則まで一致

さて、冒頭の日本という、かつて倭国という名称で記録されていた国が、この一時の傲慢な改革で日本となった説

ちなみに翻訳すると、日本はjapanなのだが、倭国でやると・・こうなる(世界の認識)

倭国

十分にあり得るような、日本という国名の命名者が「則天武后」だったとしたら?
そして、その時代に則天武后の生き写しを魂移しのように大仏のご本尊として祀りあげてたら?

仏の顔に似てるんじゃなくて、元々の仏の顔を塗り替えたっていう・・壮大な歴史のミスリードとなり、日本に伝わる仏教は・・

本当の仏の顔を知らない という事になる

そう考えれば、中東系の仏の顔が彫りが深いのも納得できる話

仏陀

もともと仏様=悟りを開いた人=仏陀は何人もいるだろうし、キリストのように一人ではないと思うから、各国で千差万別の顔の違いがあってもおかしくはないと思うのに、なぜかこちらも一神教のように統一・・

あれ?俺・・何を調べてたんだっけ?なんで細木数子=則天武后の生まれ変わり=名前を変えるという深堀してんだ?(;´∀`)

則天武后=傲慢の象徴=仏の顔まで変える

まさか歴史上の人物で生れ代わりがあるとは・・しかし、まぁ、仮にそうだったとして、自分の傲慢さに抵抗する李一族を一掃した人が、のちに李一族が支配する国に生まれ、テレビで金の亡者となって傲慢な欲に落ち

経済支配をしている李一族の手のひらで転がされるってのも、仏様の顔変えた罰なんかね(´∀`)シランケド

ドラマではこんな美人を採用してるけれど

武則天皇后

似顔絵?はこんな感じ

武則天皇后

本当にその通りなら絵柄に悪意があるのか、顔に悪意がこぼれすぎだろ(内面は表情に出る)

歴史は勝者が創るというけれど、それは侵略して都合の悪い痕跡を消して上書きした場合の話であって、勝手に他国の呼称を変えたり、他国に伝わる文化の道筋を変えたりした痕跡を・・誰も直さなければ

その変化のまま なし崩し的にそういう事実に置き換わっていってしまうという

もしも唐が実権を取り戻し、文化を元通りに直した時に、日本も「倭国」に戻していたら・・

まとめ:結局、日本のルーツはわからねぇw

そもそも、現代の日本という国の名称について、昔から交流があった他国は「倭国」の認識していた、というか、それは日本という大陸のごくごく一部であって、全体ではなかった

そう考えれば、当時、貿易や交流をしていたのも、九州や西側の一部であり、東まで含めてはいなかったと考えられる

古事記や日本書紀にも日本という名称のルーツは書かれていないとの事で、その古代日本の表現が天津(大陸系)国津(土着)と分けていた表現からも、やはり、国内で日本という一本化は、全国統一でもしない限りそうそう簡単にはできない訳で(名称を勝手に変えられるのは認めない)

そうなると、敵対する相手や相いれない存在の集合を大きな一族として見て、分ける意味で・・

東と西で二本?=二つの本島→それがのちに漢字の当て字で日本?・・というのは私の勝手な解釈です
※もともと日本はユーラシア大陸から分かれた後はしばらく東と西が繋がってなかった

これは関東地方はフォッサマグナで後からできた説というブラタモリの地形の話はまた別でまとめよう( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)フォッサマグナ

あと、東と西でなぜか周波数が違うのも謎だよね?(60hz/50hz)

周波数

そして、このなんでだろうね?というぶつかるポイントをゼロ磁場(ゼロポイント)と呼ばれてるのも何か意味が深そうだよね?

ゼロポイント

これは大陸創世のミステリーに繋がっていきそうなロマンを感じる(*´Д`)ハァハァ Σ(゚Д゚)

そういえば、則天武后は漢字も自作したんだっけ・・どんな漢字を生み出したのかねぇ、傲慢な性格先に存在する物を都合よく変える癖から察するに・・

轟:人の議論・批判など。
姦:不正をする。わるがしこい

とか、おそらく呪術的に自分の力を強める漢字のシンボルを造ってたりしてね(゚∀゚)生き様 Σ(゚Д゚)

でも、まさか長安付近に土着した鮮「卑」系貴族=李一族という繋がり・・おそらく東の大陸は縄文系であり、西側から統治が始まった卑弥呼が気になったのも繋がって点が線になった

卑弥呼の謎 縄文の意思

でもこの記事を当時はちょっと、ミスリードされたかも

この卑弥呼の時代(239年※魏志倭人伝)に伝わった勾玉の形が陰陽信仰を伝えていると思っていたが、平安時代に、大陸から渡った秘伝の知恵を、安倍晴明が独自に日本で発展させたのが陰陽道として生まれた訳で

元はカタカムナだったのではないか?と以前仮説を立てたのだけど

人相と憑依と陰陽師とカタカムナ(番外編)

そうなると、卑弥呼の時代に渦を描くような勾玉があっとしたら、それもまたカタカムナのルーツだったりして?

そうなると・・李一族=「卑」一族もその秘術を継承している・・からこそ唐の政治では統治の基盤を、侵略では圧倒的な軍事力の強さを持っていた?

(-ω-;)ウーン わからない、頭で考えるには時代背景も何もかも点が離れすぎて繋がるまでには点が足りなすぎるので

果報は寝て待つ!(思考する並行次元の私へパスする)

直感は並行世界の自分がもたらす繋がり

なんかわかればカタカムナ研究で寝起き閃きがそのうちくるっしょ(つ∀-)オヤスミー Σ(゚Д゚)

まさか日本の国号のルーツを追って、卑弥呼、ゼロ磁場、日本列島大陸創世の視点にたどり着くとは・・

ちなみに枕の下はカタカムナ18首に変更してからまとまってきた考察であり、なんと18首は中央の形状が物質的なエネルギーの流動を指す中央のマーク(フトマニ)になってた(これと同じ形状)

幕府と天蓋とグローバリズムエトセトラ・・

やはり傲慢かつ物質的な作用とフトマニは関係があるんかな

カタカムナの言霊読みすると・・

ふとまに
二次元に統合した需用の圧力

東と西を統一する!という需用で大陸が繋がった(富士山隆起=フォッサマグナ)・・なんてな

ま、なんかわかればカタカムナ研究で寝起き閃きがそのうちくるっしょ(つ∀-)オヤスミー Σ(゚Д゚)

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