いつから『田舎者』はレッテル=コンプレックスに置き換えられる言葉になったのか?心に耳を傾けると…その語源の音の響きに稲家があると気づかないのは恥と知れなお話
これだから田舎者は…
いつから田舎者が『都会者に対するレッテル』になったのか、誰が広めたのか
『舎』とは一般に『、人の住む建物。いえ。やしき』の事だから、「田んぼやってる稲家者ですが何か?」って話だが…なんでそれがレッテルや見下しになったかと言えば
舎弟
弟の形式張った言い方。また、弟分、部下、手下
『傘下に入る』という意味では、『兄貴分、弟分』という『分』をわきまえろ的な『上下関係』になるが
田舎者はただの『稲家者』だぞ(笑)
農民に、「おい農民!」って言われても
「はい?農民ですが何か?」(´・ω・`)
ま、こういう『元々の事実に基づいた言葉』ですらも『歪めてレッテルに変える』のが『悪口』であり、『悪に染める口封じ』によって、『目の前の真実のエネルギー』が見えなく、感じなく、聞こえなくなっている『愚かな三猿』
『心の耳』を澄ませば?
田舎とは
海・山・川の『穏やかな気候』
自然の動物と『共に生きる環境』
そこに住み着き家を建て生きる人は『作物を育てる農耕民族』
その主食は『米』であり『田畑』を耕す者は『稲家者』でしょ?『稲荷信仰』とは『米俵』でしょ?
なんで『虎の威を借る狐』に化かされてんの?『トーラ・虎の巻の意』を借りる『キリスト・ヤハウェ信仰』に置き換えられてんの?
津軽の神社はしめ縄の上に『米俵』が特徴的に飾られてるんよね
稲荷って言葉も面白い
普通に読めば 『いなに』
何故かそれが『イナリ』という当て字に
いなり の言霊は
現象の核から離れる
『エネルギーをロスト』している
いなに だと
『現象の核の圧力』
稲荷=米俵=収穫した稲を脱穀した『核(米)を凝縮して詰め込んだ圧力』は、『重い想い』が詰まってる作物だからそれを『奉納』する事が『庶民の喜び』
庶とは『心から願う』という意味
『豊作』にする『環境に恵まれた事』に感謝
その『声を明らか』にする『声明』
それがまた『八百万の自然に巡って神楽』
自然環境を大切に『自然と共に生きる事が声明と神楽』という庶民と神の繋がり
生活=生きる事で活きる、これを『神事』という
しかし、『神=示申=心』だから、ただ『やりたいと思った事』が『恵まれた環境への感謝』という『恩恵』だっただけで
恩恵とは『めぐむ+めぐむ』。全ては『自然の循環』であり人は『天地』をより良く繋ぐ『天地人の役目』だった
『稲家者』はそう言う『自然と人を繋ぐバイパス 』
都会から来た人がよく言う言葉
「空気が綺麗で澄んでいる」
「水も美味けりゃ酒も美味い」
「都会の喧騒もなく穏やかで心地よい」
そんな言葉がポロッと『憑き物が取れたように出る』という事は、『稲家者』が普段やっている事は『それを保ち続けている事』であり、稲家者が『都』に行けばその『真逆』なんだろう
「空気が澱んでいる」
「水も買わなきゃ飲めない」
「騒がしくて居心地が悪い」
それが当たり前の『都会者』が普段やっている事は『それを保ち続けている事』であり、どちらも『人の自業自得の因果応報』の結果に過ぎない
いなに が イナリとなって『離れて』しまえば、想い想いの詰まった圧力の荷が無いので、軽くなるが、『大切な事を失う』という事でもある
『稲荷信仰』とは、『環境に恵まれた農』から生まれた『自然と共に生きる事が自然や環境を活かして生活満足』にする伝承
『米俵いっぱいの豊作』を続けて行くという『食いっぱぐれのない大切な教え』だった
虎の巻を真似した『狐』が現れるまでは・・
稲荷の『荷』とは『草の何』
何とは『人の可能性』
草=自然・作物
『自然の作物』と『人の可能性』それが『圧力』で詰まった『荷物』
しょって歩くは『力強い鬼』『鬼』が『米俵を担いで奉納』していた
ま、見方によっては『鬼が米俵をせしめていた』とも『揶揄』できるが、『鬼にまつわる神社の建築』は、参拝する階段は広く段差がほとんどない『緩やかな傾斜』だった
とても細やかな『老人への気遣い』、歩きやすいように『段差を極力減らす設計』
そこまでやってくれたら、仮に『鬼が祀られる神』だとしても、『感謝を込めて進んで作物を奉納』するよね
それで『生活が楽=楽しくなる』なら、『音楽』も生まれるし、『声楽』も、『雅楽』、あらゆる『娯楽文化が発展』する
そして盛り上がって『都』になれば『京=教・狂』が放っておかない
あそべの民は『遊ぶ事が最大の力を発揮するジョイボーイ』だから放って置くと『危険視』される
ゴムゴムの実って『ゴイムゴイムの実』という封印(※個人的な解釈)
ゴイとゴイム=『人と家畜』
たけどこの『人(ゴイ)』と『立場を自称してる存在』が、『ゴイム(家畜)というレッテル』を貼って『都合の悪い存在を口封じ』しただけであって
元々は『自由に生きる事』が『周りを活かす遊べの民』だったとするなら、何でも楽しみに変えてしまう『明るい存在』であり、影に潜む者以外はみんなが受け入れるはずなんだかね?
日本人、目を覚ませよ?自分で『目の前の現実』を感じろよ?大切な文化を『与えられた言葉の意味を鵜呑みにして貶める』なよ?『心で音』を聞けよ?先祖に祟られるぞ?
先祖は崇拝するもので・・崇拝も・・か。意味が変えられてる(´・ω・`)そのうち『崇拝の正しき捉え方』について・・は忘れた頃に書くかも?
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