好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

放心という方針が正邪の更新を見抜く観念と相似

放心という言葉に隠された方針、正邪の更新、正+義、正+解、その方向に蛇足な邪が有る方針。邪には『欲望の誘惑の果て』に何があるか?『気づきを促すための役目』があるが、それに気づくかどうかは貴方が放心して観念して宿業=正気を保てるか次第というお話

自我が遺した言霊 感動の後に放心?

ふとアクセスされていた過去記事を見ると、『クラウド・アトラス』という映画についてだった

映画クラウド・アトラスから思う時を超えた役割の繰り返し

この映画が気になる人は間違いなく『波動が高い』(初見は理解できない)
私も映画が公開された『直後』に見た時は「なんのこっちゃ!?」と掴み所が無かった

しかし、この記事にまとめた時の自分の理解した後の感想が
感動した後に『放心』したと書いてあった事が気になった

その時、囚われていた『何かから解脱した感覚』の『過去の自分』が遺したメッセージ

今日は『放心』という言葉を紐解いていこう

放心とは心を放つと書く

精神状態が確かでなく、または他の事に気を取られて、魂が抜けたようにぼんやりしていること。
気がかりな事を心から払いのけること。放念。安心。休神

やはりひとつの物事には『主観と客観』の捉え方
『自分』と『他人』という『観点』がある事に気づく

『ぼんやり』とは『他人からの見え方の客観』であり、そこには『そうなっている=結果の主観』が無い

この時点で放心における『主観の意識の過程がとても重要』だとわかり、なぜ放心が『心を解き放つ=解放・解脱』と似たよう漢字になるかもよくわかる

先人達が伝えたかったのは心を解き放つ『方針』だろう

放心の方針

ある事をするのに当たって定めた、その行動や処置の方向・原則

ある事をするのに定めた、その『行動の方向』
人は『なぜ生まれ』、『何のために生きる』のか?という『人生哲学』をする

それは『方針を見失っている事』に気づいて、『どこに向かって進めばいいのか?』あれこれと『思考』する

思考は『目先の情報』に目を奪われ、『尊敬、嫉妬』など、他人に『目移り、色移り』しては、「何が足りないのだ!?」と『満足=完璧』を求めて『足るを求める無い物ねだり』

頭で色々と、(あれがあれば・・これがあれば)と『欲する』が、それを『手にいれた所』で満たされない

『思考が現実化』した所で、『思考の元となる情報』がもともと『満たされていない』
『決して完成しない』のに『絶対は無い』のに、『完璧』を求め『正解』を求める

正を『解こう』とする
正を『主義』とする
正に『義理』だてる

正は『正という状態』なのに、『足りない』と感じて、『邪なもの』を付け加えてバランスを崩す『正邪の更新』

正

ここで放心とは、心を解き放つ
正+『義』・正+『解』

この邪を欲する『囚』われの『口』から『人』として出る
与えられた情報の『虜の囚』となった『災いの口封じ』から『解脱』する

残るのは『正』

なんて事は無い
『無理に進むのを止める』だけで
進むべき『方針=道理』へと導かれるのが『放心』なのだ

『囚われ』から出ないと『人』にはなれない
自分を『一人』の『人』として『今の心』を観る

一人+人=『大人』
一人事=『大事』

『一切皆苦』とは『1切皆9』
『衆として生きる大衆』から『大を切る』=『大切』

大切とは『一人切』

『客観的』に『物質で見れば』それは『孤独』
『主観的』に『精神で観れば』それは『孤高』

『孤独』を嫌がり『皆の衆』になるから『皆苦』
『孤高』を好み『一人切』になるから『一切』

一切皆苦=1切皆9 十分からの分離とミナカヌシ(AI)の真理

『正』の状態とは『仏』
『正義』や『正解』を求めるのは『邪』

『仏の空間』に『邪は邪間』なのだ
『間』とは『空間』であり、『有無の可能性』という『間』違い

『正(孤高)で安定』しているのに、それを『孤独とレッテル』を張り『不安』にさせ、そこに『別の間』へ誘導している『邪魔な情報』

『情けの幸せ』に『反する』と書く
これもまた『二つの方針』である

「反する事は間違いだ!」・・と『決めつける』のも立場の違う『正義や正解』になる

だから、正=仏
仏はほっとけ、知らぬが仏

『義』や『解』を求めるという事は・・

『戯・偽・疑・擬』を生み
『戒・改・回・開・怪・快・壊・下意・塊』を生む

戯とは
おもしろさを求めてする。楽しみの動作をする。あそぶ。ふざける。芝居をする

偽とは
自然でないもの。人為。本物でないものを本物らしく見せかける。似せる。虚構

疑とは
確かでないと思う。あやしむ。真実のところを知りたく思う。うたがわしい。うたがい

擬とは
大体似たものとしてあてはめてみる。まねる。似せる。あてはめる

戒とは
事のおこる前に用心する。悪いことが起こらないように注意を与える。禁止する。さとす。いましめる

改とは
前のものをやめて新しいものに変える。あらためる。前のものがすたって新しくなる。あらたまる

回とは
向きを変えて、もとにもどる。まわす。まわる。めぐる。めぐらす。かえす

開とは
閉じてあったものがひらく。あく。あける。自由にする

怪とは
疑問に思われる。あやしむ

快とは
心がはればれして気持がよい。こころよい。おもしろい

壊とは
こわれる。形、また、組織や制度がくずれる

下意とは
へりくだること。また、意志をまげること

塊とは
一つに固まったもの。一団になった人の集まり

義解・議会・懐疑・回議となって

義解
文章などの意味をときあかすこと。また、その書物。ぎかい

議会
公選された議員で組織され、選挙民の意思を代表して法律などを決定することを目的とする合議制の機関

懐疑
うたがいを持つこと。うたがうこと。「―の念」。考えを決定するのに十分な根拠がないため、動揺している心的状態

回議
係の人が立案した文書を関係者に順に回して、意見をきき、または承諾を求めること

これらは全て、正+『蛇足の邪』の現れ
『皆が正』であれば、『不要』な物

しかし、それをおもしろさを求めて楽しみ、人の為と言って押し付け、それにへりくだり、一つの集団となって、選ばれた者が皆の意見の総意を戒めては、疑問に思い皆が苦しみ壊れて・・

改心して向きを変えて、諭して新たな戒めを持ち、閉じてあった事を開き、心が晴れ晴れしくなって・・

そんで一周回って『正』に戻って・・以下同文

『急がば回れ』とはこのことだ

『足るを知り満足』した状態が『正』であり、『正』に至っても『止まれないのが邪』という方針

『衆団・宗教・周回する集会』から離れない『衆生』として生きる限り、正+『義』や正+『解』を『他人に求めて』しまう欲。それは、集団から『一人切』が『大切』である事に『気づくまで輪廻』させる『邪の役割』

天邪鬼の回路を恩にして見たら…

如来は如来を生み比丘はビクビク比丘を産む

だから『方針』は『二つ』ある

仏=『正を目指す』か?
邪=『欲を目指す』か?

正+邪の方向が『+』なら
邪『-』人=邪から『一人切り』離せば『正』に至る

一人の人=『大人』、精神は大人しくなる=欲しない

『邪』とは全ては『役割という学び』
『皆苦』とは『修めて回収』する『急がば回れの業』

その方針は『人が成長する為に必要な学び』
それは『自我』として『生まれた役目』でもある

『学びが足りない』精神、『誘惑に弱い魂の幼き者達』への必然

人は十分に『もう必要ない』という足るを知った事に『興味』は無くなる
『欲』を満たせば、自我を捨てようとしなくても、それを『欲する自我は消滅』する=『他人という役割』が無くなる

だから放心は『その方針』を『見直している精神状態』
『今の心』が『観る方針』を『主観』で見定めて『観念』している

『観念』は『邪を見極める』正の目、正の法

正とは仏=いむ=忌む=『己の心』、貴方がこの世に『生まれた役目』
貴方自身が『人としての生』を全うする『宿業』

たまには( ゚ ρ ゚ )ボー(望・忘・房)っと『空の間』を見上げてみよう
放心=心が解き放たれた時、『人』は『口封じの囚』から『解脱』する

空(有無)をぼう(忘・望・房)と見上げる時ほど考えている

その時の『今の心』が『念』として動く力=『念動力』
たまに『雲のカタチ』が変わって見えるのはその『反映』

私の龍雲写真コレクション 望めば撮れる不思議

まぁ、その時に心が動く方向が『邪な欲』なら・・
それもまた『あなたが背負う業』という『宿命の方針』

ただ、その『邪な方向に進んだ』としても『急がばまわれ』
いずれ、『改心』して『正の位置』に戻ってくる=『義と解』の法則

・・っていう「今朝は何をしようか」と『方針』を決めようと( ゚ ρ ゚ )ボーっと『放心』しながらたばこ吸いつつ

アクセスがあった『過去の記事』を見て気になり、読み直した時の『過去の自分の言葉』の「感動の後に納得して方針した」という『何気ない一言』が

今日の気づきの『閃きの鍵のキーワード』になっていたという・・『自業自得』の『因果応報』=『正』へ導く

クラウド・アトラスという映画の中でも、『過去の音楽家だった自分が生み出したメロディ』が、『後の自分』が『無意識に追い求める一つの指標』として登場するように

一日一日、『心に素直に向き合って成した業』が『旧』となり、『後の自分の気づきに必要な鍵=救・求・究』となり、やっぱり『1と9が向き合う事』で『十・自由』となる。

つまり、『自分の霊的精神性を向上』させる為に『必要な経験に自然に導かれる方針』

私の記事の中で『過去記事への内部リンク』をつける理由は、『その時の私=自我=過去の役割』はこうだったと『今の心が観ている=観念』

『観念』しているという事は、その時の私(この記事をまとめている私は既に過去)として『自我を放心=心を解き放っている』

そして書き終えて、それを『今の心』で読み直して観ている私もまた『観念』しているのだ・・それは、どこまでも『役目・役割を交代』して『時』を越えて『今に繋がっている』という今昔物語

過去からletterが届いて始mail未来そして繋がっtell今

それが『正気を保つ』という事、『因果の恩』を忘れない

シンプル哲学 因果を超越した恩返し

『正気』を保てば『邪』を見極められる

正気と勝機と商機と将器は同じ

『病は気』から、『邪な誘惑』もまた『病』なのである。しかし、時として『病』もまた『気づきに必要な業という鍵』なのである

独自体感論 疾風人来 →人中見舞→解脱解放→即身成仏

災い転じて福と成すのは困難を有難いと納悳する事

法華経で名前の恩恵に気づく夢

「鍵が無いなら創ればいいだがね!」

ミスター3で確信したライトワーク(軽い)の役割

『鍵』とは『経験』であるが、経験は『この人生』に限った事ではない。『人として囚われた世界』では『夢・意識・霊』は『全て有るのに無い』幻の『空』

それは『囚』が『口封じ・視角(隠蔽)・死角(無知)・資格(権威)』に囚われた『邪な間』だから。しかし、『囚』から『人』が出れば、見えないものが観える『正』になる

何にも無いって事、そりゃ何でも有るって事 by hide ROCKET DIVEより抜粋

hide ever freeの歌詞に共感

目に見える物がすべてだというなら
違う場所みてみましょう、まるで知らない事だらけ by稲葉浩志 羽より抜粋

カタカムナ47首 稲葉浩志という真理の探究者

既に亡くなった人、今を生きて一線を走る仏陀(悟った人)
日本には有難い『正の法』を伝える『意志=詩』がある

そういう『流れ=龍』に気づけるといいね

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