トゥクダム(thukdam)という死後数日、長い人で2~3週間も、その遺体が腐敗することない深い瞑想状態にあるという事を聞いて思う、客観と主観のお話
瞑想状態の死後
トゥクダム(thukdam)とはチベット仏教に帰依する僧侶の体に起きる不思議な現象。死後数日、長い人で2~3週間も、その遺体が腐敗することないという結果を科学的に検証した死後の状態
トゥクダムという状態は、徐々に心が解き放たれ、最終的に肉体に執着しない普遍的な意識へと昇華していく「光明(クリアライト)」という瞑想と共に始まる。そのとき初めて、肉体は自由に死ぬことができるという
これを科学的に解明することは、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマ14世も注目していて、その研究を支持している。彼は、20年にもわたって、この謎を解明してくれる科学者を探しているとも言われている。
ダライ・ラマは科学の支持者で「仏教と科学は相反するものではなく、真実を探るという同じ目的に向かって、違う方面からアプローチしているだけだ」と言う
ふむ・・つまりダライ・ラマは『悟ってない』か、チベット仏教に『帰依』していない=『科学に帰依』しているとも取れる
私はこの事実を聞いて思ったのは『客観的』だなと感じた
どうして『主観的な体験』のほうを捉えないのだろうかと疑問に思う
現代の人は死を選べない
肉体的に無理やり生命活動を終わらせる『自殺』という事ではない場合、人は『病気か寿命(事故含む)』でしか『生を終える事』はできない
つまり、「もう人生はいいかな・・」と思っても『死に場所』を選べない
誰か『合法的に死を認めてくれる』という環境を求めて『自殺』する以外、どう足掻いても誰かに『死後の後始末』という『迷惑という業を遺す事』になる
そもそも人が人生を「もういいかな・・」と思う理由は二つ
後ろ向きに『絶望』して苦しくて耐えられなくて『生き詰った』から『逃げ場を死後』に求める場合
前向きに人の業欲から離れ『煩悩から解放』された時、「人はなぜ生きているのか?」と『死後を探求』した場合
これは両者にまったく『違う景色』を見せる
前者は現実に映る物を『拒絶して殻に閉じこもる』
後者は現実に映らない物を『受け入れ殻から出る』
当然『観る景色』の『距離=目先・遠く』は違う
両者共に
死を拒絶する者は『生』に『執着』する
死を探求する者も『死』に『執着』する
しかし、トゥクダム(thukdam)は死を出来事ではなく、『必要なプロセス』だと考えるため、『肉体の死』が訪れても、『精神は終わらない』として『通過点』であり『ゴール=終わり』とは考えていない
つまり、主観では『欲・概念に囚われた世界』から『概念のない世界』への変容
これに関しては、私は『意識の在処次第』だと思っているし、『意識が消失』していく『過程での変性意識状態』の時にそう感じた
『意識が消失』する時、もしもこのまま『眠りから覚めなかったら』どうなるか?そう考えた時、『死後の景色』を想像するのは『概念=既にある今の心』である。それは『社会的な教義・常識』だったり今までの当たり前という『想定』
『自分が突然いなくなった後』の『遺された家族』の事を考えると、多くの人は「生きなければ!また目覚めなければ!」と『生に執着』する
これも『死を拒絶する生きる理由』のひとつ
『今の自分』がいなければ・・という『生への使命感』を持っている
しかし、カタチ有るものいつかは滅ぶ、『諸行無常の栄枯盛衰』、それが『自然の法則』なのだと『達観』していくと
そんな『自我の無い自然』は『どうやって成り立つ』のだ?と『自然の法則の一部に意識が向く』ようになる
自然は『見える範囲』は、『人とは生きる時間の長さが違う生命』がたくさんあり、そんな生きる時間の長さが違うもの達の『栄枯盛衰が自然』を成り立たせていると気づく
例えば、『無農薬野菜』は『誰が育てているか』といえば、『虫』だ
ミクロな目に『見えない菌』から始まり、目に見える『微生物』、その微生物が育つ環境の『土壌や植物』、そこに『住処を作り繁栄』する生き物
これらが『バランス』よく成り立っている『恩恵が無農薬野菜という物質』なのだと気づけば、『一寸の虫にも五分の魂』という『生きる役目』が見いだせるだろう
では誰が?その『自然の恩恵を与え広める役目』を担うのか?
こういうのは『目に見えない世界を観る』しかないし、そういう世界を『観たいと観念=今の心を観る意識』が必要で
そうなると意識は『人というカタチの概念』から離れて『違う生命を体験する事にシフト』していくが、それは不思議な事に『夢の中』で『人の世界として体験』していく
私は夢の中では『猫』だった・・
私は夢の中では『犬』だった・・
と『私を意識』している『私』は誰だ?
それが『今の心=念』であり、念には『カタチ』はない
『決まったカタチ=概念』がないから『意識体として体験』する
その世界観の中で、『人に愛された犬や猫を体験』すれば、例え野良の犬だろうが猫だろうが『愛された恩恵を与える事の忌み』を知り実践する
例え、夢の中で『蜘蛛の巣に引っかかって身動きが取れない蝶』だったとしても、その『蜘蛛の巣を払って助けてくれた人に出逢った体験』をすれば『現実でも同じ事』をするだろう
こうやって『意識の無い時に見る夢』や『変性意識』で『人というカタチ』に囚われなくなった時でも、『人としての今の心』が素直に反映される『体験の延長』が『客観的には肉体の死』であり『永遠の眠り』
もうその時点で、そこには『意識は無い』
これが『主観の世界観』
これをまた『人としての意識』に戻った時、例えるならば『生まれ変わり』。まるで『人が変わったように意識が変わる』というのは、それだけ『意識体として体験』してきている
そしてまた、面白いのが主観では『意識が戻った』という感覚は無い
『目覚めた=延長』でしかない
つまり『自分』が『元はなんだったのか?』という『過去』は無くなる
この時点で違う『空間=有無の可能性の間』で目覚めている
『体験をする前の世界』と『体験を経て目覚めた世界』は違う
つまり『主観的』には『意識は生き続けて』いる
しかし、そんな『意識』が『永遠の旅に出る眠り』に入った『状態』を『他人が客観的に』捉える理由は、『自他を分離』している世界における『想念=相手の心を今の心』でカタチを『見』ている
『主観』は『自他の分離』をやめる=空の間に一つ=『真空に戻る事を意識して観測』しているが、『客観は』目の前の動かなくなった『物質の状態変化』を『物理という概念』で見ている
その『抜け殻』の状態を『概念の科学で証明』しようとしても、それは単なる『物質の状態変化の解明』であり、『どうすればそうなるのか?』の『経る過程』はわからない
これは以前、『死後の直後の脳の動き』を解明する臨死体験映画でもあったように、科学が証明できるのは、『電気信号が確認された』という所まで
その電気信号が『何を見せていた』のかは『主観』でしかわからない
この映画のおもしろい所は『トラウマの噴出』。『臨死から目覚めた後』に『やり残した業を必死に回収』しようとする
つまり、死にたくても『それを成すまで死ねない』という現実ドラマを『意識が観測』する
これは、実におもしろい『身近な例』がある
それは『眠っている時』の客観的な『表情変化』
『眉間にしわが寄る=苦悶の表情』
客観的に『苦しそう』に見える時、人は『眉間にしわ』が寄っている
眉間にしわが寄る時、人は『思考』している
『左右の脳』が引っ張られ、その眼球の先にマジカルアイで『仮想現実』を映し出している
一方で、『穏やかで幸せそうな表情』は眉間にしわが寄っていない
つまり『思考』していない
『夢見』でもそうで『悪夢を見る人』は『苦悶の表情』で魘される。この『魘される』という漢字は、漢字検定一級で『常用漢字ではない』ので一般的には知らない人も多い
しかし、『使われていない』にも関わらず、この漢字は『眠っている』時、『意識が無い』時の『悪夢』という状況にのみ使われる
苦悶という言葉も苦しい『門の中の心』と書くが・・眉間を『門』とするなら、『眉間にしわが寄る思考状態』とは『心が門の中』に押し込まれて『悶悶=もだえ苦しむさま』としている
逆に眉間にしわ寄せが無い状態は苦しみも門も『解放』されているので、いうなれば『心が解放』されている
『何の概念もない』という『遮るカタチ』の無い自由な心
『今』という『空間』にすら意識が囚われなくなった心=『無為自然』
それが『トゥクダム(thukdam)の境地=瞑想死』だとしたら、私は『死』とは『意識の消失』の度に起きている『変性プロセス』だと思う
生まれ変わる『結果に至る』のは『主観』のみ
それを『客観的な科学という指標』で推し量った所で、残された『腐らない状態の物質が珍妙』なだけ
『腐敗』したものは、『自然の微生物』が食べて『自然の循環の糧』にしていく。『人間としての生』は終わっても、その中の『菌』たちが生きていたら、ここでは生きられないと『外』に出る
すると、微生物は自然のサイクルの『食物連鎖の過程で糧』となり、人間だった物質は『食物連鎖の諸行無常の一部』となるが・・
全ての細胞、体の中の生命活動を支えてきた『菌も同時に活動を止めて自然の一部』と化したら、そこにはそれを『糧として食べにくる生き物』もいない=『蛆も湧かない』のではないかと思うが・・
あくまでも『客観的な観測の結果』なのでそれは知らん(笑)
ただ瞑想で穏やかに死=『次のプロセスに向かう主観』では『死んだ事すら気づかない』で意識は『過去という概念』を『忘却』し、『意識体』として生き続け、『成したい事を成す存在エネルギー』に変わるだろう
『再び生まれる=再生する』かどうかは、『役目』を見出した時だろう
ただ、この瞑想死 トゥクダム(thukdam)という『概念が認められる』のは、『出家』しその『門下に入った者』だけであり、『在家の哲学的な死後の探究者』や『孤高の探求者』が瞑想死 トゥクダム(thukdam)したとしても
それは『孤独死』、あるいは『不審死』などの『死因』として『客観的に処理』されるだろう
『死が平等なプロセス』なのは『主観』であるが、出家して『その教義の門下』に入らないと『瞑想死 トゥクダム(thukdam)』とはならず『死』は『物理的な解釈』で処理される
『死への価値観』は『主観(そこに至る者)』と『客観(そこに至らない者)』では『空間=有無の可能性の間』が違う
科学で『遺された状態』を知らべた所で『客観(そこに至らない者)』では『空間=有無の可能性の間』が違う
ダライ・ラマは科学の支持者で「仏教と科学は相反するものではなく、真実を探るという同じ目的に向かって、違う方面からアプローチしているだけだ」と言う
確かに『宗=おおもと』は相反しないが、それは『教』を一周回ってきての話だと思う
宗教は『宗=おおもと』と『その教えの経典』をごっちゃに考えるが
その『経典』を持って『旅立った(生)を体験』すれば『科学=目先』から最も離れた所に『宗=おおもと』があると・・
なんとなーく、『感覚』で気づくのもまた『夢の中の変性意識』の時
『人』として『目覚めて』しまえば、それを『忘却』してしまう
結果また( ゚ ρ ゚ )ボー(望・忘・房)っと瞑想(迷走)してしまう
だから、『分かっている』ようで『分かっていない』
『分離』をしていない『変性意識』の時に『人の意識』は『死後』と繋がる
そこには『別の生』があり、『別の役目』があり
その『役目』を果たしている間は『夢中に没頭』する
『瞑想』から『死』への『変容の過程』
『注目』すべきはその『意識』だが、それは『その生を宿業として宿した者』しかわからない
『瞑想死 トゥクダム(thukdam)』に至るという『前例』
『苦しみから解放されて去る事』ができる
これが『有る』のだと『後世の者への示し』の生き様
だから、その解明を『自ら実践』する事なく科学で代わりに解明してくれと『生に執着』している時点で、ダライ・ラマは『悟ってない=格差とってない』か、チベット仏教に『帰依』していない=『科学に帰依』しているとも取れるわけだ
死という『真実は残酷』よのう
残ったものは酷い
実は『残酷と執着は表裏一体』とという気づきがあったので、それはまた別記事で
最後にふと気になった トゥクダム という名を
カタカムナの言霊読みで解釈してみたら
統合し自然に生まれて引き寄り反対/内側に分かれて広がる
まさに『光明』にひとつになり、『自然の一部』となり、『別の役目』となって広がっていく
『無為自然そのもの』のエネルギーロジック
飛ぶ鳥跡を濁さず
『執着の欲の業』を『遺さず回収』して『人として世界から解脱』する
主観は『仏=自由にほっとけ』の世界と繋がるわけで
『日本人』にとっては、そのヒントが『カタカムナ』に色々とあるのかもしれない
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