心・空間、あらゆる動を選ぶも静を選ぶも、周りのエネルギーから離れた所でしかできない…というシンプルな夢から問われたカタカムナ23首
止まった世界の夢
ふと見えた景色は止まっていた
下には地上が見える・・空にいるという事は
飛んでいる?
と思った瞬間に風を感じた
そしてその風を感じた瞬間に落ちている?と思うと重力のような上と下の感覚が起きた
…一旦やめよ( ˇωˇ ) Σ(゚д゚;)
いつもなら
まてまてまて!(〃>ω<〃)これはあれだな?明晰夢だな?あれしよ!これ試してみよ!と好奇心がうずくのだけど、今回は全くの感情は無の状態で
直感的にこうなるだろ?といろいろ試していた
景色と自分がいる空間が空という目から入った情報によって、人は飛べないから重力で落下して、その風を感じる
というそこにいるから発生するであろう力学的な常識的概念を全て思考せず、自分を中心とした視野角のみの静止画を見てる感覚に戻す
ただその景色を見ていたいと思うだけで、落下も風も止んだ
やっぱりな…と確信して次を試していく
見えてる範囲の景色の一部を見ようと思うと、自分が近づく移動の感覚が発生した。これは今の場所からはよく見えないから、近づけば見えるという常識的な移動の概念が発動したから
そしてその概念を受け入れるとそこには目的地までの距離という概念が発生し、移動に時間という流動するエネルギーが生まれる
時間の概念を受け入れると、景色に映る動的な物(すれ違う対象物)が再び動き出し、やはり風も発生する
…一旦やめよ( ˇωˇ ) Σ(゚д゚;)
再び無になり、また元の状態から次の事を試す
止まった景色の一部をよく見たい・・それってスマホで写真のズームの感覚でいい。高画質で撮影された写真はアップに耐えられるように見たい部分がクローズアップされる
その感覚で景色の見たい部分をアップにすると連続した移動はなくなり、次の瞬間そこにいた
そこに移動したと思ったら、写真では無く立体的空間になり、そこからまた違う奥の景色が見えるようになった
力学を無視したアプローチ
運動法則を利用したアプローチ
やっぱりな…と確信する
そもそも論として最初から次の概念が存在しない事でこれらが可能になっている
①自分を物質的な輪郭として認識・意識する自我がない
②輪郭の制限がないからサイズもない、そのためスケールの拡大縮小や観測点の切り替えによる瞬間移動が可能
もしかしたら、私は無だったのかもしれないし、小さい量子的な存在だったのかもしれない
人間という物質的かつ空間的な力学と肉体における制限の概念に囚われるだけで、この便利な瞬間移動はできなくなる
肉体という物質制限がどれだけの自由を失うか
逆にその概念に囚われないだけで、どれほど発想がイメージで再現するか
だけど、その想像の自由の代償は体感を手放すという意味でもある
おそらく私が夢で体験したのは、人間として生まれる事をやめ、世界を見守るような意識体。そこには、広がる自然の景色しかなかったけど、もしそこに人が見えたら、私はきっと近づいて接触(声をかける・様子を見る)しただろう
そして、コンタクトを取るために思考する自我(我)を呼び出し、その我思う故に我ありの肉体を再現し、そのエネルギーに触れる体感を求めるだろう
私の姿と声が聞こえますか?
ここはどこ?あなたはだれ?
何をしているの?
そして世界は人としての概念の中で動き出す
自分以外の動く者という概念を受け入れた瞬間から
…一旦やめよ( ˇωˇ ) Σ(゚д゚;)
は使えない
前に見た夢はその好奇心が仇となり、悪意を向けられ、結果、私が破壊者になってしまった訳で
人として生きる権利の選択
生きる権利とは概念で作られた空間的なエネルギーを肉体と精神を持ってあらゆる心の揺れ(感情の揺さぶり)を体験できる夢のような場所
我を持たない意識体としての夢の体験で、生を自ら捨てようとする人や自暴自棄になっている人が魔が刺す、憑依されやすい理由がわかった
肉体での体験を求める肉体を持たない意識体の領域があるんだろう
ちなみにその領域には他人や他者という分け隔てる概念もないから、お互いに存在していても気にする事も干渉する事もない
そんな中で魂の年齢や経験値によって、人との関わり方が変わるんだろう
肉体的な酒池肉林の快楽の経験を求める意識体
衝動的殺人とその後の周りからの反応を経験したい意識体
マイナスかプラスかは時代の善悪が決める事であって、どのみちそれは精神と肉体という器があって初めて体感・体験ができる非常に貴重な事であり、一度その麻薬のような魅力に取りつかれたら、その肉体に依存して手放せなくなる=それが現実
これがあらゆる想像が再現可能な自由の力を捨てて、不自由な物質的な制限を持つ肉の身体を持って人生を体験するという最大のメリット
たぶん、天使の堕天・悪魔の降臨ってこういう事だと思う(笑)
意識体にとってやりたい!と思い描いた事を体験できるのが人生という学び場であり遊び場。善悪二元性を体験したいんだろう
私は善悪抜きにして、困っている人を精神的に助けたいし、助けた事でその人が危機を脱する事が出来たらそれが満足感と達成感に感じるという精神が根っこにあるのは揺らがない
だから我を持たない意識体になっても、興味を持った人間には同じ事(接触)をするのかもしれないと考えると、私はどうやら肉体の欲に依存してないようで
必要な時に必要な体があれば
あとは無でもいい
だから自分で自分を助ける=ハイヤーセルフは自分
またそんな精神(霊)だから、あるいは、卒業見込みがあるから?共鳴する意識体が集まってサポートしてくれてるんだろうか
結果、精神修行の方向に勝手に楽しみながら進んでるし、内定してるんだろうね(笑)俺って今、そういう精神状態なんだな~と、自分を確認する事になったのが…カタカムナ23首に変えた翌日の寝起きの答え
いつもなら…すっげぇ!すげぇぜ!カタカムナ!(ノシ ‘ω’)ノシ バンバン ってなるんだけど
寝起きからぼーっと( ゚ ρ ゚ )ボー
まだこの体でやる事があるって事やな〜と自分(意識体)が何のために今という瞬間に連続した概念の他人意識世界に目覚めたのか
直感と役割を問うて見たら…お前、まだカタカムナ23やないか!80まで後、57もあるんだよ( ˇωˇ )Σ(゚д゚;)遠い
この独自のカタカムナ研究の面白い所は、1日1首不思議体験とかじゃなくて、何かしら現実での体験からの学びがあっての何か心や体の変化が起きる不思議なもので、コロコロ、ゲームソフトを入れ替えるように次々進んでも何も起きない(笑)
だけど22首の時に断食と法華経に自然に入ったから
その影響でこの夢だとしたら全ては繋がっている
真理の道もまず1歩から
焦らず進んで行くのである( ˇωˇ )
こんにちわ
変わらず記事を読ませて頂きながら考察と妄想の一助とさせて頂いております。が、難しくて理解出来てない事があるのは秘密です。
夢は見た記憶があっても忘れてしまい、たぬきちさんのような境地に至れません。
私は法華経信者でして、内容をかなり学びました。法華経は大叙述詩のようなもので、学んだ時の心境や経験に紐付いたもののみ身につきますし、紐付いた体験が起こります。たぬきちさんの法華経解釈、ほんまその通り!と得心するし、信者としては感情入れて解釈し過ぎる処を俯瞰で観れるようにしてくれているのでこれもハイヤーセルフの導きでの出逢いなのかと感じています。ちょうどコロナ騒動が始まる前に籍を置きながら信者としては距離を置くようになっております。
現象の奥を観る訓練を日々促されている集団のはずですが、皆人様の為と、打っていますし、異常な煽りを疑いもしません。素直に3回目始まったら行かなくちゃと言ってますし、孫にも打たせなきゃと語る姿に無感情を保つしか出来ません。お互い争いは好まないので、問答はしませんし、私は打たないと言えばいろんな考えがあるしね、と尊重しあって終わります。ただ、副反応が酷い話は聞かないので、世間の酷い副反応が出る人と出ない人では日頃から信仰で祈りを持って生きてるかどうかの真理の法則の何かしら働きがあるのかなぁと思ったりもしています。
穏健派な教団ですがしっかりと社会誘導の駒としての働きをしています。善悪でははかれないなぁと思います。本気で世界の平和のため、他者のためと思って打つという行動しているので、、、。
善悪を越えて生かされている事を見極める。それが釈迦の奥にある真理の教えであり、それを教えてくれた場所がこの騒動に疑問を持つことが無いのが不思議ですがそれも各自の魂の成長なのかしらん。率先して献身してるのかもしれないし、魂の成長を終えて身体を脱いで卒業したいのかもしれないし。
でも、打てばアフォになるらしいので、いろいろアフォなりに考えても仕方ないことを捏ねくり廻すように考えたい私は自由に思考する力を奪われるのは嫌なのでしっかり思考してこの流れを止めるひとつの小石になります。
徒然なるままに書いちゃいましたが、たぬちきさんと法華経という共通点が出来て嬉しいって事が伝えたかった内容です。
感謝
くまさん いらっしゃい
法華経を学んだ方から、私なりの法華経解釈にその通り!と言って頂けるのは嬉しいです(≧▽≦)
とはいえ、私は門前の小僧習わぬ経を読む ではなく、門前の小僧、なんか聞こえてきた言葉を家に帰ってから静かに一人で考えて、そのうち疲れて眠ったら、夢で体験する ですかね(笑)
学んだ時の心境や経験に紐づいた体験・・といえば、「観念」という言葉の意味を調べた時、観念とは諦めるではなく、お釈迦様に内観で問いかける事なのか!Σ(゚Д゚)と知った時に、夢でお釈迦様に会えましたからね。「お前何しにきたの?(;・∀・)」って顔されましたけど(笑)
ハイヤーセルフという解釈がスピリチュアルの高次元存在やアセンデッドマスターとして、切り離し、分離して考えるから、何を与えてくれるかがわかりくくなるけれど、ハイヤーセルフとは自分が自分を助けるために導いてくれると受け止めると
卵(ハイヤーセリフの導き)が先か?鶏(自分の求める望み)が先か?になってきていわゆるシンクロニシティ(偶然のような必然)を多数実感できると思います
法華経を学んだ人にとって、お前の解釈はなんだそれは!?って思われるかもしれないのですが、私は釈迦の教えとは、人間の仕組みを教えてくれてるんだと感じます。これは「創世記は医学」の記事でも書きましたが、宗教や神話の役割をメカニズムに置いて方便で考えると、それぞれがウイルスだったり免疫だったり、巻き込まれるのはいつも細胞、そして善悪にそそのかされる日和見菌、その争いや変化の後に治める者=抗体が現れるといった体内の自浄作用が多く感じられます
そして仏に至る事をDNA、仏を目指す修行段階はRNAが様々な細胞環境を旅歩き時にはタンパク質(現世の煩悩や教え)と結びついてRNAウイルスとして追われ、免疫に攻撃を受けてバラバラにされて追放され、そしてまた輪廻して戻ってくる。そんな何度も失敗や追放の経験を積んだRNAが、理想の世界の姿を描き、それを実現するためにmRNAとなってDNAになるための悟りの修行を始める、そして56憶七千万年後(方便)弥勒は戻ってくる(抗体)そして、弥勒が成仏する=混沌が消え穏やかな環境で必要なくなり、消える、その世直しの終末を経験し、そして仏(新しいDNA)になる
これってミクロはマクロの微生物から宇宙の役割まで法華経・神話・DNAの新生・人の結末、あらゆる理論において当てはまるので、大事な事は「今」の自分がどういう「役割り」を担っているのか?=それが次の悟りに至るためのステップで、常に内観して自分に問い続ける事が大事だと思います
人の集まりは、人の集まりで、法華経に興味を持って集まった人それぞれ違うと思います。助けを求めてきたのか、悟りたくてきたのか、人恋しくて宗教にきたのか、法華経という場所やコミュニティをひとつの手段として捉えた人によって、それは場所を必要としない教義であり、社会的に認知されて存在する団体であり、受け止め方・捉え方で様々なカタチに変わる事ができると思います
つまり、法華経という真理探究の精神に重きを置く人と、社会的に認知されていて信者も多い宗教だから教義に間違いはないだろうという社会的認知の安心感を置く人の違いによっては、今回のワクチン打つ打たないは別物の話になり
また、悲しい事に後者・社会的団体意識に重きを置いてる人は、そこをひとつのコミュニティという寄合の場にしているために「実生活に法華経の方便や真理の考え方」を活かせていないけど、仏の道に属している(帰依)だけで満足しているんだと思います
そういった人との違いを見極めている「今」のくまさんは間違いなく成人期の魂の特徴でいう、周りの事を気にして心を苦しめてしまう段階から「私はそうはなりたくない!私は自由に思考する力を奪われたくない!」と思いを言葉にできる時点で、老年期の自由意志(望む理想世界の想像と創造=mRNA→DNA)を固める時期だと思います
善悪に転がされた集合的無意識(ここが世間一般)の流れに抵抗するのではなく、くまさん自身が進みたい方向を定めて流れに乗る=くまさんを導く高次元のくまさん(俯瞰の目)と繋がり、直感に従う、そうすればこれらの出来事は色即是空で学びの人生は進みます
そうなれば、後は今世紀最大の摩訶不思議常識崩壊のトラブルを楽しめです(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
これからも何か気になる記事があったらどんどん法華経の良い教えを教えてください。それをまた真理の探究に役立てていこうと思います
今年もよろしくお願いします