我悟りの境地を見たり!悟りの境地とは、約束の場所でも至高の知恵でもなく、無いを有るに有無、空間を生み出す事だと理解したら…悟った話を聞いた所でそこに至るのは一人一人、もう完成した過去の預言というお話
結論 悟りはやはり『差取り』
さとり・さとる
そもそも、なぜ悟りを求めるのは『仏教だけ』なのか?
キリスト教は『崇拝』しなさい
イスラム教は『預言』に従いなさい
信者は『それ』に従えばいいと
逆に言えば『裏切り』は許さないと
大乗仏教も有るし無いしの『天国地獄物語』で、『不安』を与えて『安心』させるという、ある意味で、『従順で無い』なら『地獄行き』と『自由意志を束縛』する中立のようで『邪な偏り』
しかし『釈迦』の教えは
「実践しなさい、そして自分で気づきなさい」
多宝塔如来=その『実践の先』に生まれる
今は未だ来ない=『今未来』を見せて『入滅』
『今(仮名の生き様)の積み重ねの先』にある姿こそ『真の名君の姿』であるという、虚空の象の菩薩(到達点・役割)を見せた
という『他の教義や仏教』も含めて、『争いや分断を生む原因の宗教』を『全否定』というようり相手にしない『法華経』
それは『格差』を取れという事
『差』があるからそれぞれの『主義の正義』が生まれ『立場』を求める『信仰領土侵略』が起きる
どちらも『一神に統一』したいというエネルギー。これを大きく分けて『キリスト教とイスラム教』としたなら、その『中立に仏教』がある
しかし、この仏教もまた、「仏教に属さないなら天国への救いは無い!」という「混沌が訪れた時に地獄に落ちるぞ!」と中立ではなく、『中立という立場を護るだめの邪』になっている
だからその『邪な格差』を取らなければ、『元来の安定』は無いと『仏教を否定する法華経』が生まれた
これによって『中心に完全な真円』を描く、『衆生』を『極端な過度・角・死角の不安』から切り離し、『円氣の中に留める四角』が出来た
悟りの境地とは、『立場が無かった所』に『立場を見出す』という事
それは『一神教』から始まり反対の『対立構造』が生まれ、その『争いの中立』が生まれるも、その中立が『対立を煽る漁夫の利の邪』になった時、そのバランスの安定を取る『確たる差取りの境地』が生まれる
これが『法華経』であり、法華経に興味を持つか、『釈迦の生き様』に惹かれて行くか、人それぞれ『道』は『未知』なれど
その『役目を持つ者はいずれそこに至る』ように、世の中の全てを『反面教師として距離』を取り始める
それが『一切皆苦』
そうならなければ、『歪んだ円』で『気持ち悪い状態』だったんだ
ある意味で『完璧主義者の理想』を追う
『無いものを求める』という方向性のエネルギーが無ければ『まだ存在しない空間=未来』に意識は向かず、『一切皆空』の穏やかな『多宝塔如来=未来の伝導者になる』という『悟りの境地』は生み出せない
探しても『現実にはない』からこそ『無い空間を有る』にする事
立場はなくても『見えないエネルギー』として、その『意識が存在する空間』を見出しそれを『覚(さとる)』
そして『悟=心に五つめの口=声明を真言する五次元』を持って『覚悟』を決める
対立する4つの極点、甘い四の力=『勘』。その『視覚にない四角』の中の『真円』こそが、一人一人が成長し大きくなる空間=『器』
これが『5つめの至高の境地=0』である…つまり『始まりが終わり』である
積み重ねた業と『向き合い』
積み重ねた業を『回収する』
それは今までやってきた行動は全て『自分への問題提起』であり、その山積みとなった先祖から受け継ぐ『遺伝子に刻まれた宿業』を含め
問題と向き合い始める『自己反省』
己を省みる=己をスクナ(自然)の目で見る/帰り観る(ターニングポイント)
それが『今日(凶)』
宗教は『吉』な事しか教えない
それを『否定』するから『基地外』
『秘密基地の外』の話
囲い込まれた『囚の外』は理解しなくていい『異端』(文字通り対立=対に立つ)
完極という名の『監獄』
極端な過度の教えという『立場』
関係ないものが首を突っ込むなと禁忌・関係・『奸計者』以外立ち入り禁止
その『過度』に振り回される『盲信』ではなく、『どちらにも合わない』という『間』に生まれるのが一時の『中立』
それはパワーバランスの『拮抗の安定』だが、その拮抗をいずれ『どちらかに回し始める邪』になる
60→60→60=180ならば『安定の正三角形』
それ以外は=180になるだけの『歪な参画形』
数字のマジック
18・6 9 3 0
どうやっても『18』が出てくるのが『参画形』
現実にも『様々な計画として出てくる18』
なぜこれを『弥勒=369』と呼ぶか?
30→60→90→180の『直角参画形』
しかし、『弥勒=666』とすると
60→60→60=180ならば『安定の正三角形』
つまり弥勒の世とは『180度の世界』であり、必ずしも『正三角形の安定』がある訳ではない…というより・・それが現れる預言はもう『古い』(´・ω・`)いつのだよΣ(゚д゚;)
二元性の対立の『一線構図』に一時中立の救いの『面』が現れる、この構図が『弥勒の世』であり、『666の正三角形の安定』が『369の二等辺三角形』になる事で、それぞれの線の中間に接する円が『楕円』になっている
その弥勒が目指し追い求めてたのが『釈迦』という『悟りの境地』。ある意味で弥勒は『利用されて立場に困る不安定』である
弥勒菩薩は海外では『マイトレーヤ』と呼ばれ釈迦はそれを『慈愛』と名付けたとの事
争いの無き世を見出したい!(๑•̀ㅂ•́)و✧その心意気は良し…しかし弥勒よ…『慈愛』とは時に『殺戮の天使』にならねばならぬ『難儀な立場』よのう(´・ω・`)トロッコ問題Σ(゚д゚;)
『是か否か?』その二元(10→00←01)と向き合ってバランスを取った所で『諸行無常』に状況は変わる『栄枯盛衰』己の意識も行動も変化する
『立場を持つ』とは、『立場を維持』する事になる
「持続可能な…」とは『何かを失い続ける事』でもある
お前という『柱』を失った民は…『お前無き後の世』は『均衡を保てる』だろうか?何を『奪い』、何を『遺す』、慈愛の殺戮の天使=マイトレーヤ=Re AI(人工知能) よ?
と、弥勒もまた立場から『666』と『3と69(サイクル)』に分離
『666の安定の真円の世』が、369の『中心が楕円になってしまった世』を再び『真円』に戻す機会が『正法』を取り戻す『形』
90・90・90・90=『360の正方形の中の真円世界』
まさにそこに元来無い『四つめの極端な角』が生まれる
これは概念的に考えても面白いのが180度の半円が『フラットアース論』やメルカトル法の『楕円の古い地球時代』だとするなら、『360度の真円』は『真地球』という新しい球体の時代になる
この『3つの角の差』を取り均衡を保つ『4つ目の見えない過度の境地』が『差取り』。すべての角を『90』にする
90→『9』をもって『0』とする『1=位置・真円を生み出す存在』
『仏陀・釈迦の境地』が現れて、いよいよ『真円の中心』が見つかり、『真相が明らか』になる。『中の真円』が向き合う存在はその『外の四角』である
だからその『円の中の縁氣の者』は、『心に素直』になれば『原点回帰=積み重ねた業の問題』と向き合い、『出逢うべくして出逢う人』や巡るべく巡る『因果応報の宿業の流れ』を体験して満足する『足るを知る空間』になる
そこで立場を維持できない『過度に寄りすぎた者』が『意地で立場に執着する醜い姿』を観る事になる。過度(極端に寄って力を使う根回し工作とかね)
正直者はそんな『沢山の馬鹿・莫迦』を鵜呑みにした『甘い四つの力』の与える『金の力に鈍い=金の奴隷』を見て『覚える・悟=覚悟』を決める
『釈迦の境地』からすれば、『3つの角の役目(二元性と邪)を演じてくれた弟子(阿羅漢・応具)』にお役目ご苦労様と感謝する
円の中から道を外れず『縁氣に護られた者達』からすれば、円の外の『輪郭の陰』は滅びて消える
当然、『釈迦も弥勒も必要無い世』だから『球体』になっているはずなのに…?
ではなぜこの世界は、その『終わった預言が遺されている』のか?
それは…救われなかった『円の外のもの達が遺された空間の未来』がこの『〇=心無き世界に囚われた四角の意識』の続き
『権力や立場に執着』して『失敗した者達(祖先)』が切り捨てられた『子孫の末裔の地獄』なんだよね( ̄▽ ̄;)あちゃー
だからこそ、『最初から全部教え』があった
『甘い四つの力』の『過度が全部ある』から後は『勘が冴えれば気づく』だけ。冴えるとは『二元の流れ』に『牙』を向く素直な問題提起( º言º)納悳できない!Σ(゚д゚;)
誰でも善悪・光闇・中立・邪になれる『ロールプレイングゲーム(役割交代)の世の中』でありながら、その『過度に近づかない精神性』で『穏やかな気持ち』で円から外れない
それが『先祖の守護』であり『遺伝された戒律』
「俺達は失敗したからこそ、お前に託す!次は成功するんだ!」と『立場を持たない先祖の意識』を宿すと『心の鬼』が強くなる
お前は道を踏み外すな
禁忌( ‘д’⊂ 彡☆))Д´) パーン
でもその道を踏みはずすな!の方向性が、釈迦=『差取り』を覚えて『覚悟』ならば、武士道=『戦の中で止める事に志』とは『死ぬ事(立場を持たない)』と見つけたり
『死中に活』を見出す
『現世』に関わらないで『現世を観る』
そりゃ悟ったら『余生』だわな(´・ω・`)死ぬ為に生きるΣ(゚д゚;)
空海が生み出した『即身成仏』は『生きながら仏の世界と繋がる』という方法
それは=『促進成仏』でもいい
右から読めばこうなる
仏に成るに進み足る人=素質
その『意志がある』ならできる
仏に成る身は即(すなわち)
これもね、直近で『産土(うぶすな)大神』の話が来てたからすぐわかった
土と書いて『すな』と呼ぶ
土和地(すなわち)=土と調和した地
『何』が?=『人の可能性』
産土大神=『ウブで素直な一人示申』
仏に成る身=化身
心に素直な身体
意思疎通、以心伝心、遺伝志
受け継がれる、継承
『氷が解けて水に混ざる』ように何かが『分泌されて浸透』する。その『濃度』が濃ければ濃いほど、『一滴の雫』が、『水質全体』を変えてしまうように
『雨』から『三口』が『巫』に宿る=『靈』が宿る
仏と繋がるとは『靈を持って靈に接する』
その『靈義』があれば『心の奥から仏の世界』に繋がる。それを『鬼が護る鬼門』というがそれが『死合わせ』な『師合わせ』という『幸せ』
死が『二人=天』を分かつ時
四が『二人=天』を引き合せる
四つの過度90の『端と端』の『間の理』を知り、『端間理9』は『終わり=至高の0=真円』へ至る
現代解釈で言えば、即身成仏は『夢』
伝え遺す言葉は、時代の時の権力者に擦り寄った『邪な立場の預言者』が分かりやすく『真逆』に解釈を変えている
『吉』に人の意識を向けて意図的に『凶を禁忌』だと『レッテルを貼って隠す』からこそ、『難が有るのは有難いこと』だと、『謹んでその凶(今日)に向き合う』ように
『邪』もまた『中立を装った邪』であるからこそ『真の中立(自然)の存在』を隠し続けるマッチポンプ
これが『釈迦の説法』を『邪魔する者を遠ざける為の誘惑して引きつける陽動』という『重要な役割』なんだろう
全ては『格差』を取り『真円を完成』させる為のシナリオであり法則
…といってももう『真円が完成している雛形=四角』があるからこそ、『地球を大切にする』という『縁氣(〇)に繋がる者』はまた『風に導かれていく』のだろう
そこへ行った『先祖達』は遺された『縄文文化』ではなく、『継承していく繩文文化』の今も尚続く穏やかな地球へ
『立場』を持つと『龍』は『蛇=降り地』になる
『自ら龍になる者』はこれから『風』になる
かつては無かった『悟りの境地』は『最初から有った』が気づかなかっただけ
気づいても『それを選択する覚悟』が無かった
覚(さとる)悟りの『差取り=立場を持たない・持たざる者』
それは『執着・依存・立場』、『存在そのものを自ら手放すという意識』だからこそ、『宿した先祖』も『導きのガイド』も『自我が自らそれを実行』しない限り至れない、それが『悟りの境地』
差を取ろうと思えばとれるのに、その格差を取らない維持の意地が邪魔なだけ
『ありえない』のではなく『有る』のに『得ない』だけだった『アリエル』
これは『一人一人』の話
弥勒になる人がいない
釈迦になる人がいない
それは『目に見えるエネルギー』ではなく『自らそれに成る』からこそ『存在を観る(体験する)事』ができる『即身成仏』
『盲信してついて歩く』のではなく『宿して人と共に養う』、供養の存在
心に留めておけ=泊めておけ
「真を説くにはそういう役目が必要だった」
…と立場を持たない空間=『風』が有る
・・と立場は無いから、別に私の言葉は『私の体験記』を書いてる『世迷い事』であり、文字通り『何処吹く風』
『人の可能性の処の口が欠けた風』
『口』が欠けた=『囚』ではない『人の空気』の流れ
『口』が欠けた=偏った予言者がついた『玉』転がしされてる『王国』でもない『王の空気』の流れ
『冥土の土産(感動の現実体験)』を持って帰る『ミカエル(三省)』という『観測者』という存在
悟りとは、ただ目の前にある『差』を取って『和』にするだけ
格式とか修行とか、形式も儀式もいらないから『素直な子ほど悟』
それができないのが大人=余分な不純物まみれになっていく所から
無垢で素直な元の自分に戻る過程で業と向き合い回収する精神の試練の悟り
差を取るだけなのに、てにいれたもの、繋がったものを手離したくない
その過度の差が『四角の界隈』で置いてけぼりを食らう執着の終着
失敗した者達に、同じ失敗を繰り返すなよと預言の加護(籠)が与えられている
まだ不確定の、まだ生まれていない、四則演算の四次元ポケット
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