なぜレイキとカタカナで広がっているのか?霊気や靈氣という目に見えないエネルギーは一緒でも、個人的にレイキのままではダメなのではないか?と思った時、見えた『靈』の形象の継承と『始まりの雨』について
レイキという違和感
レイキとは?
レイキ、レイキヒーリングは民間療法であり、手当て療法・エネルギー療法の一種である。 明治から昭和初期にかけて海外から導入された思想・技術と日本の文化が融合して多種多様な民間療法が生まれたが、霊気はこの民間療法における霊術・民間精神療法の潮流のひとつである
とても難しい解釈が必要なので、一般常識社会の概念にはなかなか受け入れられなそうな、『体感した人』でなければ毛嫌いするであろう民間療法・・と言っても
それは『製薬や医学界』からみたら『異端の宗教』として異教徒弾圧の意味で『保険適用外』として、『法外な治療料金を請求する悪徳詐欺師』のように、『印象操作のレッテル貼り』もするだろう
とはいえ、そういうものがあるという『認知』があるものでも、『目に見えない』のだから、効果が実感できなければやはり使用はできず、またピンキリで『詐欺師』や、ノウハウとしてカタチだけ学んで、『カタチだけの免許を持った弟子』という、『訳の分からない自覚なき偽物』がいても『バレなれば成り立つ商売』でもある訳だから
『万人に受けるもの』でもないだろう
さて、そんな私がなぜ『レイキ』に興味を持ったかといえば、『霊気』と『靈氣』という『漢字の成り立ちを深く洞察しよう』とおもった時、あまりにも、スピ界隈の出版物が『カタカナのレイキが多すぎた』事
例えばこれは氷山の一角だが・・正直、乱立して気持ち悪い(;・∀・)
私は言霊的に、この赤枠の二つの本に興味を持つ
『レイキとREIKI』という部分、カタカナと英語、東洋と西洋という捉え方だが、和製英語にしてくれたおかげで、アナグラムが『生霊』(イキレ)『綺麗』(キレイ)と、様々なエネルギーを内包している事を感じた
また、『励起』という捉え方もまた、『励ます気持ちを起こす=周りを鼓舞する』、『利他の心意気』、『縁の下の力持ち』、『免疫増強』、『あらゆるものの活性化』という、レイキと言っても『漢字によって物凄くエネルギーの質』が変わると確信
だから、『レイキというカタカナ表記』は、なんというか『商用』というか『界隈の教養の共用価値観』というか、『与えられた概念の模倣』という薄っぺらい表現だなと思った時
レイキってカタカムナの言霊では
消失して伝わったエネルギー、失った現象エネルギー
かつてはそこにあったが今はないエネルギー=自然に還った『先人達の魂・生き様』
それを『治療に使う』という『エネルギーの循環』という意味では・・この世もあの世も『循環の一部=量子的にはresource=資源が一緒』として繋がっているんだな・・と思った時に
その『レイキによるヒーリングを求める人』は何かしら現実で『業』を背負った事による『自業自得の因果応報』な訳で、それは『自分で業を回収』しなければいけないのに、『過去の栄光』に頼って『その今の業を無かった事にする=向こうに先送り』する
だから『現世』にくるたびに、『レイキ=先人の生き様』を『借用=人の昔に用いた業』が堂々巡りして『レイキヒーリング』を求める因果応報=『中毒から抜けられない』とも言える(精神的な観点・疾患・失陥が無いとレイキとか求めない)
霊能『力者』という『力を求め・使う者』は『グル(導師・同志)』となり『ズル』をするが、基本『みんな霊能者』であり、『霊感・霊勘が働く』から道を踏み外さない
レイは言霊ロジックでは、消失した現象
かつては『有った』が今『無い』=『空』
全てが内包されて『有るのに目に見え無いだけ』の統合した『真空エネルギー』
そこから『今の自分に都合のいい癒しのエネルギーだけ』を引き出して使う事は、『自然』だろうか?私は『不自然』だと思う。『病は気から』という意味では、『レイキに執着』する事も『失われた過去に囚われ前に進めない』を忌みすると感じる
そういう意味では、『励起』という言霊は気に入ったし納悳した
『励ます』という事は『周りに向けて発する背中を押すエネルギー』
『励む』というのは『自分の内面から湧き出る奮い立たせるエネルギー』
起こす=『因』というのは、0→1 off→onと『力が動き出す事』
起きる=『果』というは、運動エネルギーの『流れ=龍が舞う』
自ら龍を起こす=流になる=独自流
その流れに『周りを鼓舞』して巻き込んでいく
「みんなで協力して頑張って流れを変えようぜ!」=『励起』
そんなエネルギーを感じた言霊なので、『言霊ライトワーク(心を軽くする)に共感』を感じました
やっぱり『気持ちのいい言霊に出逢うと筆が乗る』のだけど、今回はそれはあくまでおまけ
霊と靈の漢字の考察
現代では『霊』と書かれている文字・・というか、日常的な会話の中にあまり『霊という言葉を使う事はない』のだけど、昔は『靈』という書き方をされていたというのが、『今の私の意識で洞察する』となぜ変更させられたのかがわかった
まず『レッテル的な禁忌』から見ていくと『口は禍の元』
そんなことわざが『元々あった』として、それが後で『人の気を引く預言のトリガー』とした場合、その『口』が『何を忌み』するか?
『戦前の日本人』なら信仰の『元』でわかる事
靈とは『雨の下』に『三つの口』がある
『アメノ』?『ミナカヌシ』でしょ?
『三柱信仰』でもあり、『三女神信仰』でもあり、『三面鳥居』でもあり、雨の下の三つの口の下に『巫(かんなぎ)』という『神=示申=示して申す事を素直に表す者=預言者』がいた
例えば、太陽と月と海
これらは環境に影響する『エネルギーの伝わり』であり、それぞれにそれぞれの『大事な役目』がある。それぞれの『区分け』された『神の巫女=神託』があるとすれば、それは3つ
善・悪・中道=拮抗する正三角形
その三つの口を統括する上が俯瞰の四点で正四面体
『工(たくらみ)』の中、そのそれぞれ違う教義の下に『人が区分けされていた構図』とみれば、そういう達観した意志共有で生きていた『靈時代』と、その言葉の継承や形象を失った
『霊時代』では、『レイキの捉え方』が違う=失われた現象という解釈になるのは形象の現れでもある
「靈」の略字である「霊」
「巫」の略字である「亚」
始まりの『雨』は『どこ』から降り注ぐのか?
その『謎』はわからない
一般的に、『雨雲から雨が降る』と『科学や物理の実験の再現』で教えられるが、『雲の無い青空から雨が降る現象=通称、狐の嫁入り』に何度も遭遇したり
一般的には5~10分で消えると言われる虹が、2時間も消えないで留まる姿を見ると、天候・気象というのは人知を超えているか、意図的に『天のベール』を張って隠されているかのどちらかだろう
雨は『雲から垂れる水』だけではない
『目に見えない靈』のように出所がわからない
昔から『天の浮舟』というが、それだと『無重力で無理』があるが、『雨の浮舟』なら、そこには降り注いだ『流れ=龍に乗る道理』があるから『浮力』というもので『力学的』にも説明がつく
さながら、『常識・概念の外』に起きている『目に見えない大洪水』をものともしない『目に見えないノアの箱舟=雨の浮舟』とも言えなくもない
その船に乗る為に『導くのが靈性』である
悪しき者が闊歩する狂った世界で、正直者にしか聞こえない導きの靈のガイド
雨降って地固まる
その『過程』には、『天のベール』に封印された『雨のルドラ(暴風雨)の解放』の『岩戸開き』がある
天の浮舟という『天のベール』に覆い隠されているもの
『目に見える宇宙船(概念の盲信)』は・・
ま、今回はここまで
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