聖徳太子の17条の憲法の中ででてきた三宝を仏法僧(ほうし)=奉仕・法師・・と訳詞した時に引用した過去の夢を読んでいたら・・あの世の三途の川が・・もしかしてあれか?と奉仕の精神で繋がったお話
三宝を仏法僧(ほうし)=奉仕・法師と訳す事から始まる・・
前回、聖徳太子の17条の憲法の『和らぐの精神』に出逢い、改めて独自に直感が導いた読み解きの中で、三宝を敬えという対象の三宝が
仏・法・僧と書かれていたのだけど、世間一般的な読みは『ぶっぽうそう』と読む・・しかし、意枠付き(ふりがな)の17条の読み曰く・・
仏・法・僧(ほうし)と書かれていた
この僧を『そう』ではなく、『ほうし』と読んだ時、「上に立つ者が和らぐの精神を持てば、下の人々が自由な発言の中でそれぞれの役目を自発的にみつけるだろう」という内容において
人々が自発的に足りない役目を補い、支え合う協力する社会だとするなら、それは『縁の下の力持ち』であり、それこそまさに『奉仕の精神』であると言える
つまり、『僧(そう)』だと『僧侶=仏教(カースト)に力が集約』されるが・・『奉仕』だと『力は皆の自由』のほうに広がるのだ
さて?どちらが『和らぐの精神』か?一目瞭然だろう
また、前回この17条の憲法=聖徳太子=カタカムナに独自の観点が繋がった事から
カタカムナで僧(そう)を言霊で読むと・・
外れて生まれる
まさに『和らぐの精神』から『外れた道=外道』となる
カタカムナで奉仕(ほうし)の言霊は
引き離して生まれる示し
何かから『距離』を取った先で『新たに始まる』感じがする
何から引き離して生まれるのか?
仏法→奉仕
上の者=仏の法は下を自由にさせて『ほっとく(仏徳)』
下の者=『立場・力・責任』から引き離して生まれる示し(生き様)
なんて無責任な自由なんだ!・・と現代は懸念するだろう
しかし、忘れてはいけないのは、『大前提』として、一人一人の宗(おおもと)が
『和らぐの精神=人を傷つけない』という『一人の和=大和の精神』だから
『和らぐの精神を尊い法』として責任を持つ事
それ以外、『誰も傷つけなければ自由』なんだ
『仏の世界(霊界)』が例え見た目が『現代社会の人間界そっくり』と言われても、その世界の根本ベースに『誰かを傷つけたり不安にさせて怖がらせたり』という
『悪意のまったくない世界』なんだ
私は・・書いてて思いだした
過去に何度か、『悪意をまったく感じない夢の世界』の事を書いていて、そこでは『現実感』という『常識や思考を持ち込んだ私自身が悪意』だった為に排除されたと・・
そんな『和らぐの精神で成り立つ次元世界』は既にある
あるのだけど、『波動が高い状態』にならないと意識がそこに『到達』しない
あるいは、そこに「辿り着きたい」と『必要性を強く明確に心が描く』事
それが『真を言う今の心が成る仏=真言念仏=即身成仏』である
例えるなら、スピッツがコロナ渦に出していた『紫の夜を越えて』という曲の中の惑星のような
例えるなら、ジョン・レノンのイマジンのような世界
有ると思って有るのが現実なら
無いと思っているから無いのもまた現実なのだ
因果率(ラプラスの間)・・は不思議である=思議に不らず(感じろ)
因は『事の始まり』、果は『事の終わり』
その因果の『因』に『心』を巡らせれば『恩(有難い)』を感じる
『今、難が有る事』に『心から感謝』すれば『果ては仏』に成るは必然の法則
最後は・・ほっとく(仏徳・悳)=無為自然
『無』には『全てがある自由』、『その為』に『恵を与える自然』が有る
『道具』も『法具』も『無に常に有る』であり『人の使い様』
その『恩恵』を感じて生きる事が『今』
だから『今』に『事』を始めればいい
それを『無常=全て有るを常に保つ』にして『空間を維持』しないと、それは『一瞬』で変わる『色即是空・空即是色』
~ではないか? → そうおもえばそうなる
つまり、上記の私の意識が『和らぐの精神の次元世界』へ到達したとしても・・現実的な『思い込みの無常(覚えている事)』を『振動周波数』として空間に『波動』を発したら・・
『疑心暗鬼』で当然『景色』は揺らぎ、『違う景色を映し出しそう』とするようになる
これは・・確か安倍総理が亡くなった時の『ライオンズーゲートのタイミングの夢』でも体験した
『悪意のない平和な世界』に、突如、雷と共に『ショットガンを持った警察に偽装した男』が現れてぶち壊したという『形象』は、まさにわかりやすい『現実感が夢の世界を壊したメタファー』
これは『山上容疑者と警察がグル説』を『一体化』した結果・・『警察がショットガンを持っている』になっていた(奈良県警の警備が・・とかグルだったらあながち間違いでもないけど)
・・とここなんだよねポイントは
『夢よりの使者』という言葉は現実にもある程度『認知』がされているが、『夢への来訪』や『夢への侵入・侵略』という『DNAの逆転写』のような捉え方はあまりない
つまり、自分が知らず知らずのうちに『別次元の世界にとって悪意をばら撒いている』という『自覚なきウイルス』になっている人もいる
その『根本』が何か?という点で話したいのが『死生観』であの世とこの世の境にあると言われる
三途の川なんだよね
今から話す事は、おそらく誰もこの世界に卸してないお話だと思う
三途の川の渡し船・地獄の六文銭
この話は聞いた事があるだろうし、なんなら今でも因習的に故人のの納棺の際に、印刷した六文銭風の紙を遺族に渡して、セルフで切らせて、それを箱に入れるという・・
まぁ~正直、こういうなんちゃって~!形だけの因習を続けているビジネス仏教の莫迦のひとつ覚えには、腹が立つを通り越して呆れてほっとく(仏徳)
火葬場の火力の関係上、金銭(コイン)等はいれられない・・という後から生まれた都合のルールで『伝統儀式としてやってきた霊感商法』すら『歪なカタチだけ』になって行くのだから・・
それを『習わし』として『小僧共に洗脳教育』してきたから、『正法』も失われ、『真法』も失われ、『末法の世も末』だな・・と体験して理解して覚えるから納悳する
カタカムナの言霊通り、僧とは外道だと(恥を知れ)
その外道が語る地獄の入り口、あの世とこの世の境目にあると言われる『三途の川』
これが、私は自分の夢体験の中で体験してきて、『有る形象を嘘にして伝えてる』と感じた理由がある
外道は『地獄の沙汰も金次第』といい、渡し舟に金を渡して舟に乗せ「決して川には入ってはいけません、川に落ちたら助かりません」という
HAHAHA(≧▽≦)『騙るに落ちたな』と思う理由
私は以前、『法具師(別名:孵化師)になる』という選択する夢を見た
この時は『孵化師』がなんなのか・・わかっていなかったのだが、別の夢の中で『ある川の中で卵を放流する仕事』をしていた
これは『形象の見え方の違い』ともいえる
例えば、夢で別世界を体験しているという『前提』に置いて、夢には『現実の体感・゛常識などがフィードバックされて反映』されるため
幽霊・お化け=人型・襲ってくるという思い込みがない人は『違う見え方』になる
地獄(六道輪廻)や三途の川という思い込みが無い人にはそれは『違う見え方』になる
私は確かに向こうの快適な世界で『澄んだ川』を見た
そして、その『川の中』に入り『可能性の卵を放流する作業』をしていた
『地獄を信じる人』はまず、『川』があったら自分は「死んだ?これが三途の川?」と思い込む
すると「三途の川には渡し舟がいたはず・・」と思い込み、「船賃渡せばいい」と指示に従う
「川に落ちたら二度と這い上がれない」と恐怖を煽られ不自由を強いられる
『同じ川』なのに・・『外道=外れた道の教え』を信じる者はまさに『地獄の沙汰も金次第の儲』にされる
私はそう感じた時に、『三宝=三途の川』ではないかと感じたのは、私は川の中で新しい可能性(自由)を放流するという孵化師という役目の奉仕をしていた
放流=ほっとく『仏徳』
自由に生きろ=心に直=『悳』
その流れを支える『奉仕の法師』
ここがやっぱり『今はの際=金輪際』だと感じた
僧(そう)という『外道』は『地獄という洗脳』によって『和らぐの精神の霊界』のイメージを
色即是空(そう思えば)によって『地獄』に塗り替え、『信者は空即是色(そうなった景色)』を見る
思い込みが無ければただの『自然』であっても
『偏った偏見』の思い込みがあると『悪意しか見えない不自然』になる
泳いで潜って楽しく遊べる『深く綺麗な川』も
中を覗き込まないで金を払って舟に乗れと『水面下を語らない』
『観ればわかる真実』から『外れた道へ遠ざける』
『三途の川』を厚く敬う『三宝』とした時
『途』とは『みちすじ』という意味であり、3つの道がある
それを宿してる漢字は『靈=三口』である
雨→三口→巫=三口有=サンクチュアリ(聖域)=『外敵から守られて安全な地域』
『音の響き』とはとても面白い
そして、死にかけた人が、先祖が三途の川の向こうからこっちに来るな!と追い返されるという形象がまさに
「こっちは間違いだから来るな!」と自らの『盲信の過ち』を伝えているようなものだ
仏・法・僧(ほうし)=和らぐの精神の靈界へ
仏・法・僧(そう) =外道の六道輪廻地獄へ
・・そうか、だから、この話の前に破門・破戒僧・虚無僧という『門外漢』になる真理の探究者=修験者になる必然の話があったのか(繋がった)
靈界・・という名称は現実で『様々な解釈』がされているが、『体感』でわかる事は『悪意が全く感じられないとても穏やかで夏の涼しい午後のような空気』だという事
この『心地よい波動』を数回体験すると、いかに『現実』という空間が『波動が重く息苦しい操作性の悪い低解像度VRゲーム』のように感じるか、感覚でわかり
『この世はやっぱりVR説?』をとことん追求して違和感を探したくなりますよ(笑)
ただ偶然、そこにいけたとしても・・冒頭で行ったように、『自分が常識という悪意を持ち込む状態』だと、『悪夢として魘される』事になります
それ以前に、何重にも塗り固められてきた嘘や誤魔化し、『間違いを正しい』と思い込み、『世間体として受け入れ続ける』限り・・
そう、ここもやっぱり、17条の『曰く一』で語られている
皆(衆生)は『和らぐの精神』という宗(おおもと)に従わずに、間違いを広め続ける
だから『皆の中には達者がいない』のだから、まず『皆』から離れなければ『達者』になれない
だから上の『仏法の達者』はほっとく(仏悳)し、その可能性を『奉仕する法師の達者』もそれに帰依する
『誰も傷つけない和らぐの精神の世界を護る』ためには
お達者で「末永く生きろよ(争いの現実で)」(・ω・)/引き離し生まれる示し(ほうし)
やっぱり金輪際、関わらない『あの世(1)とこの世(繰り返し69)の/境目』
所で最後に唐突に「私もいいですか?」と言わんばかり頭に出てきた名前
三蔵法師
三蔵法師とは、仏典の漢訳に携わった高僧の総称ですが、その中でも最も有名なのが玄奘です。玄奘は唐代に実在した僧侶で、仏典を求めてインドへ旅し、その後、多くの経典を漢訳しました
『三つの蔵』の『法師』、蔵は『宝物庫』、その『仏の法を伝える師』
『天竺(天軸=北極星)』に『巻物(原典・トーラ)』を運ぶ『大日・釈迦(北極星)への奉仕』の旅
シルクロードを『知る苦労人(玄人)』
三蔵に奉仕する『玄奘』が『現状』をお伝えしました
・・おいおい、最後は駄洒落かよ(笑) やっぱ『同音異義語』は『時空を超えた哲学』だ!
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