好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

空海の霊場物語14 破門・破戒僧・虚無僧になる理由

破門・破戒僧・虚無僧という、守破離の門外漢が必然的に生まれる事が釈迦の思惑の想定内であり、その想定内からでた想定外をまた育てる事で世界は多次元に拡大して広がり続けるお話

真言の住職への真言の進言

母の月命日に真言寺に行ってきたら、帰り際に偶然逢えたらいいな〜と思っていた住職とばったりあったので、北斗曼荼羅に関する、釈迦金輪・大日金輪の『金輪にまつわる思う所』を素直に伝えてみた時に思った事

大日如来のパワーストーンの導き 大胆不敵から金輪際を見極める

『面白い着眼点と興味と同意』はするものの、『信仰として教えられた事を職業として話す立場』から逸脱しないで説法をしてきた

言うなれば檀家の客の云う事を聞くだけ聞いて『ほっとけの精神』であるし、私もただ『思う所を伝えただけ』なのでそれでいい

『間違いを指摘』するものではなく、「『間』違いでの考え方です」と『前置き』として伝えた上なので、『聞いてくれただけで有難い』訳で

ここで自分が今

「『門外漢』として『門内の住職』とこんな宗教を『哲学の観点』から話しても、弾圧をされない良い時代になったものだ」(´-`)oO

という『宿した先祖の誰か』が『感慨深く感じていた』ような気もするが…それで気づいたのが

破門や破戒僧とは実践をしたかった意欲

『力』を持てば『振りかざし』たくなる
『剣』であれ『錫杖』であれ『チャラチャラ金属』である

同様に『知恵』もまた『実践して活かしてみたくなる』もので、分かりやすく言えば

子供の頃、算数で『方程式』を覚えて『スラスラ解ける』ようになると、『ドリル』が『ページが多ければ多いほどたくさん遊べる』という感覚だった

『客観』では『勉強熱心』((φ(>ω<*)
『主観』では『得意で楽しい遊びの延長』((φ(>ω<*)

それと同様に、『お釈迦様の知恵の説法』や宇宙的、天体を用いた『マクロな構造がミクロな身の回りの事と相似』しているという事に気付かされて

Σ(゚д゚;)ほんまや!!と感銘を受けた者は、あれも?これも?まさか・・あんな事まで!?と連鎖的に発想が点と点を線に繋ぎはじめ

「ワイも自分で見つけるで!」εε=(((((ノ・ω・)ノ

と、『門下生である事を逸脱』してしまう

『門下生』とは、言うなれば『年功序列カーストの義務教育』のようなもので、『上の立場にいる』から『同じ仏門にいる』と言っても必ずしも『人徳が高い人間』ばかりではない

それは『学校生活』という集団生活の中の『縮図』、社会の会社組織の縮図の『縦社会』を見てもわかる通り

とこにでも必ず『他人』を『利己的な立場の維持の為に抑えつける呆れた奴』がいるものだ

そんな『憎まれっ子世に憚る仕組み』が『自浄』されないで『エスカレータ式に決まるのが年功序列カースト構造』

『石の上にも3年』…齧り付いて死にものぐるいでしがみついて『根回し』してれば「次の立場は安泰だ!」のような『打算がまかり通る』と

その『地位に着いた者』はまず一番最初に、『自分の地位が脅かされる事が無い』ように、『粛清』『根絶やし』『ルールの変更』など『身の回りを整理』をする

『ただいる』だけで『上の立場になる』…だけでなく、どこからとも無く『コネで天下って上』に居座る

そう言う『仕組みに違和感を感じた者』は・・

「そもそも『現状の教えが間違ってる』から『釈迦の説法のような世』が訪れない。『ここ』にいては『釈迦の教えを実践すらできない!おらこんな宗教嫌だ( º言º)」と自分で出ていく

『破門された』…ではなく『自分の意思』で『破』って出ていく

それが『守破離の精神』であり、破戒僧や虚無僧はみんなこれを『実践』していた

門外不出の秘伝は既に外に輩出

日蓮というルシファー因子の生き様を追う(前編)

それこそまさに『金輪際』

大日如来や釈迦如来を『金目のものだ』と『目星』をつけて『金の輪で地獄の沙汰も金次第だ』と利用する

そんな宗教とは『金輪際関わらない!』という今まで『守ってきた教え』を『自ら破って』門から『離れて』いく

それが『門外漢』
そして『自分の求める業』を『修める』為に
『修験者=体験を修める者』になって『意識の旅を始める』のだろう

私は宗教を意識する事なく、『四字熟語』や『ことわざ』、『格言』として、多くの『実践』で生まれたであろう先人の智慧を学ぶ事で

門下生に成る事なく、住職の言う事は、『立場がある観点』では『本質』的には間違っていないと感じ、門の中と門の外では伝わった漢字の意味と忌みの解釈が

根本的に『間=空間』違っているのだろうと感じて、一理を感じた

破門・破戒僧・虚無僧

門の中の教えを破る
戒め(禁忌)を破る法師
虚は無(全てある空)であるという法師

『あらたな法を伝える師』の言葉=『門外の漢字』に魅了され、それは『法華経へと繋がる道』に自然に導かれていった結果・・

『宗(おおもと)』は『大日と釈迦』という役目は『本の中の質』ではなく、『本』になる『元』の『閃きの光』を『問題解決に自力で取り組むエネルギー』として実践する事

『漢字』という『言葉に宿る言霊(カタチなき愛)』そのものなんだと感じた

・・夢の中で形象を体験してきた、『封印されていた平安の魔物』の解放と、それは『解放したら修験者』だったという表現し、そして、その修験者が「魔を払うものはいないか?」と書いた魔法円に入った事・・

魔物

この『夢=潜象で体験した事』が『現象としての言葉』で『弥勒=あまねく全てを自己表現して記録する』に至るという繋がり

夢は『時空を超えたエネルギー存在』との『コンタクト』なのかもしれない

空海の霊場物語2 封印された平安の魔物(修験者)と尼僧の夢

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top