阿弥陀とは『時代の移り変わり』という『宇宙の法則(諸行無常)そのもの』だった(久須志シリーズ)
次は『阿』の如来を追う旅の始まり
今までの流れ
久須志=薬師=伝承者=薬師如来達。それは流派(九画=九龍)を崩し先頭は山から野に『水の流れ』の如き『蛇』のように散った
この『久』と『志』を受け継ぐ神社が各地に転々とある事、またその地は『白山信仰』が多いこと。そして阿蘇、阿祖、あそべなど『阿』に関わる地と『三面鳥居』と『縄文』に関わる地である事
そして今回また新たに読みといたのが『屑』という漢字には『三柱』と『月』が揃っている。ここまでま来ると『阿』も『確信的』である
そこで今回、『阿弥陀』とは何か?を『直感』と『先人の知恵』と『心の内観の振動』と合わせて調べて行こう
阿弥陀について
説1
あみだ【阿弥陀】 極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。 弥陀とも略称される。 《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという
説2
お釈迦様は、今から二五〇〇年ほど昔、初めて人間として仏陀(仏様)となられました。 そして、人々を救うために教えを説かれました。 つまり、真実の世界を言葉にして私たちに開かれた方と言えます。 一方、阿弥陀如来は、お釈迦様が人間として初めて気がつかれた、私たちを救う真実の「はたらき」そのものです。
説3
阿弥陀さまとお釈迦さまは両方、仏さまですのでその優劣はありません。 どちらも尊い仏さまです。 『無量寿経』というお経のなかで、お釈迦さまは弟子たちに、過去世で会った人々を救う願を立てた尊い仏さまのことを紹介します。
説4
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つである。 浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」という称名念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説く。 西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)の教主とされる(東方は薬師如来)。
なるほど(´・ω・`)見えた Σ(゚д゚;)千里眼?!
『久須志』になぜ『薬師如来』の痕跡とその麓に『阿弥陀如来の痕跡』が『混在』しているのか
それは東洋の『神道が薬師如来』
西洋の『仏教が阿弥陀如来』
それが『和合』していたのだろう
南無阿弥陀仏
南無し=有ったけど無い地=『百済』
『南』から渡ってきた『僧侶』=南祖坊『法力(知恵ある)集団』
『称名念仏』とは『仏の名』を声に出して称える行法。これを『阿弥陀如来が宇宙の法則』として、伝えたのだとしたら、それはかつては人の歴史の成り立ち、愚かな栄枯盛衰の繰り返しの長い長い旅を経て伝わった説=伝説という伝言
それを『解釈』しては各地を転々と『様々な経験』を積みながら『伝来伝承』していた『生き字引の悟りの知恵』の中で、『仏の名』とはかつて存在した『そう言う役割のエネルギー=呼称の証明』を伝えた(唱えた)になって言ったであろう
『今』の『心』を忘れないために、『念』じて仏佛と覚えさせ語り継がせ、それが『カタチ』と『言葉』だけ残って念仏は『仏の名を唱えるもの』だと『風化した名残』の物々交換になったのだろう(托鉢)
という事は、阿弥陀は世界を転々と旅した『始まりの始祖の一族の末裔』であり、それを語り歩く『伝承伝来の移民・難民』だった
その『教え』が東方の薬師如来とも言える、自然の『形なき恩恵』と共に争い無く生きる『八百万の神信仰と癒しろ地』にたどり着き『和合』する事で、『神仏習合=阿弥陀と釈迦』はであってひとつに和合した
それが『久須志信仰』なのではないか?『逆』かも知れないけど、それは『どっちでもいい』と思う理由は(´-`)oO{
《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取する
『世自在王如来』のもとで『四十八』の誓願?
『創造主』と『48音』=神と『ヨハネの黙示録』??
うーん(・∀・)『キリスト教』が混ざってやせんか?お鉢(順番)が回ってきましたね?
無量寿経って…釈迦の生涯80年間に説いた『7000余りの説法』の『オススメダイジェストまとめ』みたいなものらしい・・そんな『都合のいい事』を釈迦が言うとは思えないなʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)
それは『弟子』が『掻い摘んで』まとめたキリストについて語る『都合のいい聖書(コオロギも食っていいよ※改変)』と変わらない。『教祖を神格化』したい宗教組織は『美辞麗句』で『荘厳の物語』を真似して『仕立て上げる』から『ボロ』が出る
ボロは着てても心は錦!
飾らないシンプルさにこそ『釈迦』が出る
『ありのままの自然』を捉えた『観点』での気づきは、四の五の言わずに『可愛い子には旅をさせる』
自分の『目』で見て自分の『意志』で感じて、自分自身にその『経験』として『身』につけて、『自分自信』に変えて初めて見える『達観した孤高の景色』がある
そのための『後押し』となる事は伝えても『答えを教える』ような事は言わない。もしそんな『人を楽』させて『成長の機会を奪う』ような事を言うとしたら、そいつは『釈迦では無い』
虎の威を借る狐の『なりすまし』か
名騙りの『偽アカウント』だろう(現代風)
と、本は読めずとも『それの影響』を受けて『語っている者達の説』を聞けば『行動や言動』から伝わってくる(エネルギー保存の法則)
真実は『薬師如来』と『阿弥陀如来』の『教え』は『和合』していた。『東西』は一時繋がって『平和』だった
それだけ分かれば十分
そして『阿』の着く所に『三面鳥居』と『縄文遺跡』、そして『ピラミッドと山』
確かに『阿弥陀如来』と宇宙は繋がる
『阿』が始まりというのなら…
あれ?そう言えば、最近こんな本が話題になってなかった?
アミ 小さな宇宙人
これが『阿弥陀如来をモチーフ』にした『創作物語』なのだとしたら、阿弥陀如来の教えを『現代風に表現した新しいカタチ』なのかもね。そのうち縁があったら読めるだろうけど、あらすじをかいつまんで調べると、
この中に書かれていた人類の愛の波動が一定以上越えなければ・・という事やフリーエネルギーの話も含めて、おそらく内容はほぼ被っている。しかし伝える対象が子供に読んでほしいという意味ではアプローチの角度が違う
これをこの茶番デミックからの『世界統一ワクチンテロ』が始まる前に、導かれるままに読んでいた私は、『愛の波動』というものがなんなのか、当時はわからないまま・・気が付けば自らの実践行動の中で『それを伝える側』になっていたと
『アミ=阿弥』であり『陀=悟る者』はそれを伝えられ『実践する人』が『現れて完成する法則』なのだと気付いた
そんな訳で『阿』のルーツは分かった(*´ω`*)
次は『弥陀』だな
『弥』と『弥生』
ふむ( ・・ )いきなり『確信』に迫る
『縄文(阿)』を終わらせたのが『争い』を持ち込んだ『弥生』となると…ん?阿弥陀という言葉自体が…
『阿』→『弥』→『陀』
阿の縄文時代→弥の弥生時代→陀の仏陀(如来)の時代への『移り変わりのような循環』に見える。阿弥陀くじという歌とメロディの『独特な和風感=通りゃんせ』と同じ
メロディの原曲はお座敷歌の『菊の花』歌詞の阿弥陀くじはオレたちひょうきん族で桑田佳祐が作詞
だけど阿弥陀くじという遊びは昔からあるようで、何か『決め事をする時』に行われる。『選択』したら『後戻り出来ない』という事は子供でも知っているシンプルルール
右往左往と転がるように落ちて『隠された結果を受け入れる』という法則。これが『阿弥陀くじ』という仏教が大衆娯楽にまで扱いが浸透した『末路』でもあるが
それに参加する者から帰依され『強い運命決定権』だけは持っている不思議
『自由意志』で『選択』したのだから『どんな結果』になっても『恨みっこ無し』だ!という『無責任法則』に巻き込み、『望む結果』へと導く『ギャンブル(勝負・争い)』に人を巻き込む
『自然』を『不自然』に変える
『阿』の者達は『素直』だからこそ
『弥』の侵略者達の侵略を受け入れ『奪われた』
そう考えると、『阿(縄文)』の時代が終わり、『弥の時代』に移り変わって、奪い奪われの武器による『戦乱が広まった』のも納得できるし、それを経てまた『平定の世』が訪れ、
自分で考えて道を見出した『仏陀(悟った者の世』が現れる
ま、次の
これが『阿弥陀=369』でもある
そしてこれは『役割』が『循環』する事でもある
例えば
3を再生
6を維持
9を破壊
としたとしても
善(3)再生したとて維持(6)したら悪になり、その維持を破壊(9)したら無(有る無し)
今度は悪が再生したが維持したら善に代わり、でもそれを破壊したら無(有る無し)
つまりは『9』の『破戒の時代』は神も仏もいない『末法思想蔓延る仏陀(自ら悟る)時代』だからこそ、新たな『神仏の再生』が始まる
…のだけどʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)
私は阿弥陀『くじ』に引っかかる
この『阿弥陀思想』を『大衆娯楽』にまで広めた『遊び』が『くじ』。ここに『く=久=九=派の山』の上流から下流への『水の流れ』を感じる阿弥陀くじ…
このくじはもしかして…『久慈』では?
奈良時代の『常陸国風土記』に「古老のいへらく、郡より南近くに小さき丘あり。 かたち、くじらにに似たり。 倭武の天皇、よりて久慈と名付けたまひき」と記されており、これが『久慈』の地名のひとつの由来と考えられています。
倭武の天皇とは…(やまとたけるのすめらみこと)巡幸伝説をはじめ,祖神巡幸譚,嬥歌(かがい)や歌垣をめぐる恋愛伝説,巨人伝説,白鳥伝説,夜刀神(やとのかみ)伝承など
東国の民間伝承の宝庫の観がある。しかもその文章は当時の文人たちに愛用された四六駢驪(べんれい)体とよばれる華麗な『漢文』を用い,『神仙思想』で装われていて,一種の文学的世界を形づくっている
ならば『阿弥陀』と『倭武天皇』は無関係では無い
ま、歴史はどーでもいいとして
久を慈しむ(いつくしむ)=「いつくしま(厳島、異表記:嚴島、嚴嶋、ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」
慈愛、救い、清らかな志・・そういえば、嚴島神社も入口が3本の支えがある鳥居と水に深い関わり!!Σ(゚Д゚)
久須志の痕跡ある所はまったく同じ条件だ
まず地元(久須志・薬師如来あり)
秋田田沢湖御蔵石神社(龍伝説)
岩木山神社(白山信仰・白蛇信仰)
久須志の水の流れ=龍を追えばどんどん失われた歴史が繋がっていく!!(≧▽≦)楽しい
ふむ何だか今日は凄いぞ?・・
まとめ 阿弥陀=宇宙とは369の循環法則
あくまでも私の感覚ですけど、『言葉』は『伝える』ためにある中で、称名念仏とは『仏の名』を声に出して称える行法。つまり『固有名詞=存在である』という『思い込み』から、『特定の仏=宇宙』と結びつけている
しかし私は、残された『地名の痕跡』から読み解くと
阿は縄文時代、三面鳥居、善の文化
弥は弥生時代、武器と侵略の悪の宗教六芒の維持戦争
陀は末法時代、善悪が混沌し神仏なき教えを『破戒』して『己が悟り新たな創造』を産む転換
これが巨大な『宇宙の創造・維持・破壊の法則』の中で、善悪(阿弥)は無くならない、一時の平定はその中に生まれる『三柱』の守護に過ぎないが
その籠の中で『大切な月(己の意志と体)』は守り育む
そこに『統べる心』の日本武尊・倭建命・大和健
やまとたけるの言霊は
飽和した受容が分かれて放出して留まる
『カタチ』を失った『久須志』が『流派』に分かれて散らばっても各地に『根付いて留まる』
やまとたけるが『散らばって留まる』という『意志』なら
久須志の言霊は、『引きよる示しの方向へ進む』という道標の意志(石)
阿弥陀=宇宙の法則は『破戒』の後の『自由意志』による陀=『悟った者の選択』って事。それを『釈迦』は『説法』してくれたのかな(ㅅ´꒳` )感謝
…いやいやいや(ヾノ´°ω°)『久須志』スゴすぎ
しかし宇宙人『アミの観点』から言えば…『阿弥=縄文と弥生の和合文明』が『仏陀の薬師に知恵』を与えた事で『阿弥陀という三位一体』になったとも…うーむ( ¯ᒡ̱¯ )これは『無限の思考の旅』になりそうだから『自由意志』=『宗教の根本破戒』でやめておこう(笑)
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