寝起き閃ワード『説法』説法と説明と説教の違いは現実の物質と現実の物質へ執着する主義と、理想の想像からの創造へと向かうというエネルギーの流れる方向の違いがある事について
諸説色々ありますが…
先日のカタカムナ54首の閃にて、私の中の誰かが
三千世界の引き出しを使って実践活用出来る説法しろよ!この莫迦のひとつ覚えが!(`Д´)ノ
…と説教(呆れと苛立ちの感覚)をしていた
『一日一生』における『半生』を振り返って『反省』した現実の私の意識は…
いやいやʅ(´⊙ω⊙`)ʃ『お寺の住職』が『説明』してるんだからそれは言い過ぎでは?と感覚とは違う『道徳?倫理?』頭にごちゃごちゃと、常識的に…とか『概念で言い訳』を始めたんですよ(左脳が)
そしたらこれでした
『説明』とは『証拠』があって出来る事
住職は『お釈迦様』という『信仰の対象が言ったといわれる本』をしっかりと『教育』されて『勉強』して『俗世の欲を断ち切って修行』して『本質』を理解した偉い『学者』さん
故に『本』については誰よりも詳しい
だから『本に書かれている事』を求めたら、誰よりも『正しく説明』出来る
それは『本』という『証拠』があるからね
その『本』は言うなれば『答えのない例題集』
「お釈迦様はこう書かれています…」
その解釈は『その時代の証拠』を持って『再現性がある』のであって、『現代』に当てはめて…の『現代の俗世の問題』から『最も離れているのがお坊さん』という『矛盾』であり
言うなれば『社会の苦しみ』を知らないのにこれから社会に出る学生に『いいか?社会ってのはな?』と熱く知ったかぶりする、先の輩から『学生上がりの教師』になるのと変わらない
私は『元住職』などが書く『仏教を知り尽くした上で仏教から離れた人』が書く、『ビジネス仏教への堕落』『胡座をかいて居座る事への葛藤』などの『心の内面が書かれた書物』が大変面白く感じる
社会常識から『出家』するという『一線』を超えなければ『その世界の中身』は分からない。また『裏側』を知り尽くした『生まれながらに仏門』の者が『その教えに疑問を感じて離れる』というのこそ
まさに『お釈迦様の仏陀ルート』
全てを捨てて『知らない世界へ』の逆転カルマ
そんな体感なくして理解なし!の『生き様の力を持った例題本』という『証拠』ありきの『説明』をする『内容』に対して『反論』すると…
『説教』は型にはめこむ
私は仏教以外の『宗教の信者』と話した事があり、その人は『その宗教の教えが書かれている教本』を持っていた
私が何か「例えばさ…」といつものように『ある事を例』にしてわかりやすく伝えると…
「あ、それ!ウチの宗教の教えに書いてた!」ʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)はぁ?!
本をペラペラとめくって「ここ!」と指さされたので読んで見ると…(;´・ω・)ウーン・・・『似たような事柄のキーワード』は出てくるけど、『伝えたい事』とは違うんだよね〜
こんな感じで、何回か認知のズレのような『ニアミス』をしてて分かった事がある
『信者』って『教本のキーワード検索ロボット』になっている
該当するキーワードが出て来ると『それについてはこちらです』みたいに『教本の内容』を語ってくるけど
(ヾノ・ω・`)そういうこっちゃねーよΣ(゚д゚;)
と『否定』すると「だってそう教えられたもん!」(`Д´)ノ)罒`)エェ?逆ギレ
まずはとにかく『教本を読み込み』しっかりと『頭に入れ(自己学習)』、分からない事は『先輩』に聞いて覚えなさいと、そしてその「先輩って誰よ?」と聞くと『地域長、エリアマネージャー』みたいな、その『宗教支部の上の人』…らしい
はぁ・・(´Д` )大きなため息が出た
どうやらしっかりと『本の内容』を頭に叩き込んでないと『上から説教(ペナルティ)』を受けるから、それが『嫌』でしっかりと『覚える所』から始まるらしい
私はそんな『信者』と『幹部』における『説教の流れ』を見て、本質的に『本』を『利用』して『型にはめる』としか思えない
つまり「将来のあなたの為を思って言っているのよ!」という『大義名分』を利用した『善行』という『盲信した価値観』の洗脳
『本を鵜呑みにする人』は分からないと思うけど、『感覚的に頭に入らない』というのは『その説明では納得できない』から呑み込めない
いくら『説教』しても『飲み込みが悪い』のは、もっと噛み砕く『咀嚼』が足りねーのよ
でも鵜呑みに飲み込んだ奴は『分解』できねーのよ「細かい事はいいから、教えられた通りに覚えておけ!」としか言えねぇのは
『莫迦のひとつ覚え』だから『本の型』に『はめる』しかねーのよ、罠だろうと暴力だろうと洗脳だろうとʅ(´⊙ω⊙`)ʃそれが説教Σ(゚д゚;)
納得するまで噛み砕く説法
そんな『釈迦の教え』って『答え』じゃなくて『例題』という『答えなき問題提起』
『質問』を『質問』で返す
『答え』は『実践』して見つけなさい
そもそも釈迦に『お前(弟子)の悩み』を言ったとて、『釈迦』は『同じルート』は通ってない。だからもしも「私がお前なら…」と『お前が都合よく求める答え』を説く事はできない
しかし、『似たような状況を想定』する事は出来る
「例えばこうしよう…」
こんな感じで、『悩み』をまず『分解(願い+問題)』にして、そしてヒントとなる『導線』をつけて『再構築した共有世界を提供』する
それを聞いて『弟子』は『その世界に魅了』されると、まるでその『思考世界』において『現実に追体験』しているように感じるだろう(夢心地)
「なるほど!!(*•̀ㅂ•́)و✧」と『閃』が起きる時、それはその『思考シミュレーション世界』の中で『取り組むべき問題』に気づき『意欲が湧いた瞬間』
そこから先は『釈迦の後を追いかける』のでは無く、『自分で答えを見つける為に行動』に移す
それを釈迦は( ◜ω◝ )「君に幸あれ」と
様々な『転生体験』の中の『三千世界の引き出し』から、その『弟子』にあった『前に進む成長を促すための例題』を構築した
それが『説法』
故にそんな『使い終わって役目を終えた過去問題集』は、時代、時代の『社会環境や状況』に合わせて『切磋琢磨に精錬研磨』されて行かなければいけないのだが…
日々爆発的に生まれる『仮想世界(SNSなど目に見えない思い込みの思考世界)』の『混沌の世の中』において『苦しみを抱える一人一人』にがっちりハマる『釈迦の例題』なんてものはねぇ!
だから『釈迦の教え』を胸に入れてる(生まれながらに持ってる?)者達は『宗教から離れる』と思う
そして『独自の経験からの分解解釈』による『説法』という『例えの力』を持っている。だから『本』の『質=ブランドの力を誇示』して『存在価値として帰依』してる『莫迦』も『死ななければわからん』よ
『仏門』で生まれ『仏門から出る』のも『ひとつの死』(終わりと始まり)
『禁欲』からの『欲望』
『欲望』からの『禁欲』
その『中間のバランス』において『正邪』と『邪悪』の『誘惑』に打ち勝って『己が何をするべきか』を見出した『釈迦』が最後にたどり着いたのが
はたから見れば『なんもしないで安寧に過ごす』
でも私はそんな『穏やかな心』になったから、現代も時空を超えた『三千世界を旅する弟子達』に説法と言う名の夢を与えて有難い『霊験』が出来るんじゃないかな?と思う
『観念』したら出逢えるよ(笑)
最後におまけ
カタカムナの言霊で読み解く『説明』『説教』『説法』のロジック
説明
責任が集まった思考の伝わり
説教
責任が自然に集まったエネルギーが生まれる
説法
責任から自然に集まって勢いよく引き離し生まれる
なるほどね〜
説明には『証拠』という『現物』がある
それには『責任』が集まる
「それに着いて覚えなさい」と教え込むのは、それを『継承する(次へ繋ぐ)教師』として『弟子への責任』が生まれる
一方で説法というのは、集まって勢いよく引き離すのだから『質問・悩み』を集めそれを凝縮して一気に『解放・解消』するような
まるで『宇宙の始まりBIGBANG』のように『見た事ない世界』を、あるいは知っているけどどこか違う『パラレルな可能性の世界』を見せられる
その例えば=『想像(imagine)してごらん?』に『意識』を飛ばされる
ここで日本語の『助詞』の言葉の妙
責任『が』、責任『から』の違い
『我』と『空』
責任『が』集まる思考が生まれる
〜我思う故に〜である(現物)
責任から自然に集まったエネルギーが生まれる
〜でなければいけない『概念』(カタチを維持)
責任から自然に集まり勢いよく引き離して生まれる
〜に限らない可能性の『想念』(カタチサキ)
もっと噛み砕いて簡単に言うと
説明は『現実』
説教は『主義』(思い込み・重い)
説法は『想念』(可能性・軽い)
我(が)から生まれるか現実主義か
空(から)から生まれる理想を求める想念か
だから『莫迦のひとつ覚え』に囚われると『釈迦』になれない
『現実』に囚われ『釈迦の教えは絶対!』という『ブランド価値観への執着』と、その価値観の押しつけの重いコミットしてる事を言う
釈迦の言葉が『以心伝心=響いたら実践』するのが真
ずっと虎の威を借る狐が『宗教依存』
『開祖』がいねえのに『何を盲信』してんだ?って話
社会に出て『俗世間』を知り、その中で得た『苦悩や幸福体験』から生まれた『三千世界の夢(悪夢込み)』の引き出しを元に、『道に迷って教えを乞う者』が『納得』して『1人で前に進める』ように『悩みの奥深く細かい所』まで『意識』を飛ばして『耳を傾けて観念(観音)』する
迷い人を『導ける』ような『理解』に至った上で『分解』して『新たな例題(仮想世界)』を生み出すのが『説法』である
寄り添わなければ説法とは言えない
『寄り添う』ためには、その『迷い人』と同じ痛みや苦しみの『弱さ』を知る必要がある
故に『無力』という言葉が『深い』
『無』は『空』であり、空は『有』
あるけどない、ないけどある
『有無』は『産む』
『無力』だからこそ『気づく事』が出来る
『最強の無力』の正体とは質量を持たない『素粒子』
『現実に関わる』時だけ「ちょっくら体(物質)借りるわ」という『意識』になれば『色んな人生の色んな体験を共有』出来るから、悩みを抱えた『迷い人の気持ち』を感じる事が出来る
…けどこれは現実では無理無理(ヾノ ´ω` )Σ(゚д゚;)
だから『心』を通して逢いましょうってな(*´罒`*)
『往生』際が悪いな、四の五(死後)の言わずに『素直に観念』せぇ
往生の意味はこの世を去り、極楽浄土に往(い)って生まれること。
『無力』になればいい
『全て失う』と『全てを得る』
でも「全てを捨てたくない!」という『気持ち』があるから『生きて悩み苦しんでる』という事になる
ならばそこまでして『生きてやりたい事』ってなんだい?
『全てを得られる』のに『そこから遠ざかる理由』は?
『究極はここ』・・だけど、それじゃ『問題』がデカすぎて『説法』にはならないから、悩みを抱えた気持ちを感じとって分解して再構築する
それを『楽しんでる』のが『釈迦』
様々な『三千世界が増えていく』から
『難』があるのは『有難い』(-人-)持ちつ持たれつ
あれ?そうなると『問題を生み出している』のも釈・・…シ━━━━━━━━ッd(⊙ε⊙💦)
まあ、そんな訳で『説法』は仏教だからの専売特許ではなく『相手にわかりやすく伝えよう』という気持ちから生まれる『例え』の力
この『例え』という『仮想世界』に『相手の意識』が素直に入って(ログイン)『納得(クリア)』して『解脱(ログアウト)』してきたら、そういう事だったのか!(*•̀ㅂ•́)و✧と『閃』が起きる
『閃』とはまさに『脳内BIGBANG』の宇宙再構築のようなもの
あれもできるしこれもできる!という無限に膨張していく『突破力』
ま、逆にその都合のいい『喩えの仮想世界』に『意識』を閉じ込めてしまう『洗脳』も『例』=『人』を『列』にできてしまうから
『法華経』って危険な呪術
『最上経典』と言われるのも納得
そういう『意識が囚われた人』を救い出すのもまた説法(夢)
やっぱ道具(法則)は人(意識)の使い様(精神性)
…(^ω^;)という
私の中の誰かが説明と説教と説法の違いについて淡々と語った後に『法華経』という『大いなる力には大いなる責任が宿る』けど…
『現代の法華経』って…大丈夫か?(´Д` ) と『疑惑』を感じてるようで、だから『日蓮の考え方(法華教から離脱)』に興味を持ったのかも?
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