好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

先輩という輩の戦敗から荒廃へ

先輩はなぜ先の輩(ヤカラ)と書くのか?戦敗から荒廃へ繋がっていくお話

尊敬できる先輩?

私は物心着いてから日々『上との戦い』だった
自分でやりたい事を好きなようにさせない『親』

親には親の同じ道を歩む導線を作り、その『レールの上を超特急で走らせたい想い』があった

親が努力して『全国で結果を出したスポーツ』で得た知識や経験を息子に施し『同じ道を歩む英才教育したい願望』は理解できる

客観的には(あえて倒置法)

しかし、それを求められる『主観の私』は例え、同じ方向に進むのだとしても『自分でやって気づきたい』という亀の歩幅でノロノロでもいいから『好きなようにやりたい』と反発し

「親の言うことを聞けば、いい指導者がいるからその道で簡単に結果を出せるのに…お前は人の話を聞かないね」と周りから『揶揄』されて来た

『今の意識』で冷静に考えれば、それはこういう事

既に『親チートで結果を出した人生体験』をしていた『魂の経験』があったとしたら、親の庇護は『有難い』と受けつつも、極力頼らずに『自分でノウハウを構築したい』

その『エネルギーの役割の芽生え』だったのだろう

その『最初の先輩』を『親』とするなら、学校という集団生活でも『先輩』という『ルールや決め事を押し付けてくる立場』とは馬が合わなかった

『自分で考えて行動』しているのが気にくわないのか、団体行動を乱している訳でもないが、『命令に従わないのが目障り』で、野放しにしてると『自分たちの体裁』が悪くなるという『世間的な見栄』からか嫌がらせをしてくる

嫌がらせ

長いもの=『大人達の悪い見本』の中の精神が幼い者たちの中では『郷に入っては郷に従え』のルールに従わない奴に対して、『出る杭は打たれる(打つ)側』に周るのが正解だと『多数決の集合的無意識』の概念を植え付けられる

それを『された側』だけど、そんな嫌がらせよりも『自分のやりたい事に意識』が向いていた私は『後から気づいた』くらいで全くの無意味

そういえば、あれが『嫌がらせ』だったのか?( ´-`).。oO()

そう言う『先の輩共』を『先輩(せんぱい)』と呼ぶなら、私は言葉も漢字も間違ってないと思う

先の輩共は、『先に生きる者』から学んでいるが、その先に生きる者は、学校以外の社会を知らないままの『先の輩が先生』になっている

『先の輩の頂点』がそのまま『先生』

道理で尊敬できる先輩はいない訳だ

教員免許について思う事

輩ってなんだ?

同類の者ども。ともがら、なかま。連中。車が列をなしてならぶ。順序にたくさんならぶ。その一群

まぁ、『同類』が『順番』に『列に並ぶ』が『車』に『非』ず

輩

先に生きる『先生も輩』
その先の輩の『教育を受ける輩』

「輩出」するという言葉がある

ともがらとも呼ぶ時点で『ガラ』が入ってくるが、輩と言えば『ガラが悪い』、それを『沢山輩出するのが学校』という、先の輩が『同類を育成』する『無個性製造機関』

農業における農協などの出荷物には『型崩れという訳あり品』が出てくるが、それは型にハマらない『型破りな個性』を発揮した『自然の産物』

どうしてこうなった?ʅ(´⊙ω⊙`)ʃが『分からないからこそ面白い』というのに

というように、その『個性を伸ばそう』とする者を『無個性の集団生活』が身についた『先の輩が同調圧力』をかけてくるのだから

『波長が会わない』で『上とは衝突』の連続
自分のやり方で『結果』を出すと褒める所か『貶して』くる

けなす

ʅ(´⊙ω⊙`)ʃ付き合ってらんねぇ

そんな私は下の『部活の後輩達』からは『面倒見のいい先輩』として気に入って貰えた理由も今ならわかる。自分で気づいた『成長の過程のコツ』を『自分なりに教える方法』を伝えて、後は好きなように伸ばせ(*´罒`*)

『無責任な放任主義』のように見えて『与えるものは与えた』から後は野となれ山となれと、『肥料と水』を与えて見守る『家庭菜園』のように『今と同じ事』を『無意識』にやっていた

その対象が『野菜』か『人』かの違いでしかなかった

それで『目をかけてた後輩に慕われていた』という結果が知らない内に形になっていた事を『学校を卒業する時』に知った。そうなると、野菜の出来も人生の終わりも『同じエネルギーの相似』が起きるだろう

因果応報のカルマの回収
それは悪い事ばかりではなく『実りの収穫』でもある

社会に出てから私は先輩と呼ばれるのを嫌っていた。だから『後輩が着く』のを嫌がった

先輩という言葉にのしかかる『勝手な想い込み』のイメージ

面倒見がいい先輩は『理想』だろう
だが先輩には『後輩を選ぶ事』はできない

学校における『同調圧力のリーダーという先の輩』が『新しい環境』で『先の輩に楯突く』のはどの新人社会でも起きる『軋轢』だろう

そうなると先の輩は先の輩として『なり上がろうとする後の輩』に「舐めんなよ?」と『力』を示さなければいけない…って言う『空気感』なんなん?ʅ(´⊙ω⊙`)ʃ

だから私は先輩という『言葉』も嫌いだったんだろう

先輩と呼ぶ時は仕方なく・・なんなら先輩という言葉は無個性な集団の『個人を特定』しないで『誰にでも適応できる都合のいい言葉』

ヤカラに対する言葉

そんな言葉をかけられても『嬉しく感じなかった』のは多分そう言う『縦社会の楯突く上下関係』が好きじゃなかったのだろう

ヤカラの言霊は飽和した力の場
一言で言えば『カタチを失った集団の力』

それを『育成』するのが『社会を知らないまま先生』になる『先の輩』が『後の輩』を育てる『集合的無意識を洗脳』する学校生活

その実践例がまさに令和の学生達に起きてしまった

子供の体調不良の原因はマスクのツケ

無事、『都合のいいテスト』に合格した『無個性集団行動型』に整えられた輩達は『都合のいい支配者の権力の一部』として取り込まれる

言うなれば、『地位と権力を維持』するための会社の歯車を回すだけの『都合のいいマウス』を求めている

『大学学歴フィルタ社会』等がそのいい例だろう
〇〇大学=将来は関係閣僚なエージェントのリクルート

社会に染まることなく、義務教育から高等教育、大学という『資本家が投資して都合のいい人財を育成』して『先の輩』が完成する

『輩』の時点でただの『集団の力=社会的同調圧力の多数決』として利用される

シジルとシンボルマーク 契約と多数決は呪術

諸先輩方(しょせんぱいがた)という皮肉

先輩を複数形で言うのは『方』をつけて『先輩方』と言えばいいのに、モロモロ込めての『諸先輩方』というのは何故だろう?

Yahoo知恵袋でもこう回答されている

「諸先輩方」は複数を意味する「諸」と「方」がカブっている。「馬から落馬」のたくいだ。「諸先輩」か「先輩方」が正しい日本語。

ただの言い間違いが流行した?それは『間』違いだなと感覚的に想うのは、その謎も『先の輩』と分けて考えれば見えてくる

諸先(所詮)輩方

『諸々』という言葉はあまりいい意味では無い
色々含む=いちいち『特定』しない

複数形にするなら『方』をつけるだけで『カタ』が着くのに、あえて諸々と『十把一絡げ』で同一視している。もし私に『尊敬する先輩』という者がいたとしたら、『名前で個別に際立たせる』と想う

だけど、尊敬出来ない無個性の集団的圧力をしてくる『金太郎飴のような輩達=先輩風邪』をふかしてくる者に『気』を使わなければいけない時

『皮肉』か『揶揄』を込めて『所詮』輩方=諸先輩方というだろう

モロモロ『先』にいて『道を塞いで邪魔』する『輩の集団』

「そこ通るからどけよ!邪魔」(`Д´)ノ)罒`)だと『角が立つ』ので

「そこ通るんでよけて貰っていいですか?」( ´ ▽ ` )ノ

くらいのノリで『気に食わない相手』にも笑顔で気持ちを伝えられる意味がわかるとまるで受け止め方が違う『同音異義語』

『笑い』ながら『怒る』みたいなもの

日本人ってそう言うニュアンスや含みのある話術の『ワビサビ心得てる』から、『意味がわかると真逆の皮肉』って言葉が存在している

『支配』に対するささやかな『抵抗の意志』
『言葉』では屈しても『心は譲らねぇよ?』という

無個性集団の『人間性』の中で生きる
個性がはっきりした『精神性』の意志

『無意識』でもそれを『実行』している

また同音異義語にはこんなのもある

戦敗から荒廃へ

戦前の教育は『先人の知恵』を伝えつつ、『新しい個性』を育てる『温故知新』だった

日蓮というルシファー因子の生き様を追う(後編)

戦後、『教科書は黒塗り』され後世に伝わるはずの『成功ノウハウ』が『歴史から抹消』され、そして戦後70数年立っても今の教育機関は、社会に都合のいい『無個性集団を構築』する『先の輩が後の輩を育成』する

『戦敗』から『荒廃』へが続く

その無個性集団から離れて、『好きな事ひとつに集中』して取り組んだ日本人達が『世界で活躍するアスリート』になり、そしてその『意志』と『ノウハウ』で『後進』を育てている

だから『先陣を切る先人』の叡智や伝統、それが廃れないように紡がれた『ことわざ』は時代を超えても通用する『尊敬できる力』

そのシーン、状況に対して力を発揮する『適材適所の精神性のエネルギー』

『未知』の『道』の先へと『先陣』を切る『先人』と
既にある道の前で『諸々』たむろって『邪魔』する『先の輩方』

こうやって捉えると『先輩って邪魔』だよね

だけど、先輩だって『教えられた道』の『先を歩いてるだけ』なんだから、追い越しそうになって『詰まってる時点』で『大した道じゃない』し

順番に並んでる車じゃなくて人であって、『先が行き詰まってる』から屯って、暇だから『後輩の方』振り返って『追い越し禁止!』と突っぱねる訳だろうし┐(´д`)┌

そんな『先が輩』で『行き詰まった道』は歩きたくないから、誰も行かない『未知の道』を探して歩く

それが『先陣を切る先人』になっていく

たまにまだ道として確立されていない『先人の足跡や痕跡』を見つけるから気になって辿って行くと、そこには先人が『道標』として立てておいてくれた石碑のような『格言やことわざ』と出逢う

こんな『誰もこないような方向』にも誰かが来ていただと!?Σ(゚Д゚)

そんな先人はどんな『想いと経験』でこの『言葉を産み残した』のだろうと…どこへ向かったのだろう。足を止めてゆっくりと『哲学』して『自分なりの納得する答え』を見つけ出し『違う方向』に進む事を決意する

それもまた『先の輩のいない人生』を楽しむ『醍醐味』でもある

道に迷うというより道はない未知
好き好んで迷い込むもんじゃねえ(ヾノ ̄▽ ̄)だからクエスト

シンプル哲学 quest(探求)とrequest(要求)

ちゃんと準備と装備が必要だ
『確立した自己』と『学びに変える精神性』ってやつ

波長が合わない

カタカムナ52首 創造主の目的は意識の拡大

袖触れ合うも多生の縁と一期一会の幾何学的本質

私は『戦』って『敗』けて、『荒廃』を引き起こすような歴史を繰り返す『先の輩』とは同じ道には進まない、その道はもう『先の輩で渋滞』して『行き詰まって』んだから(笑)

『言葉』は本当に『受け止め方』次第で『色んな側面や奥行』を持っている。その『感覚』が分かってきたようなカタカムナ『52首(コツ)』の不思議な世界(*´罒`*)オモロー

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