突然閃いたカタカムナ5.6.7首の別解釈、おそらくカタカムナ研究者の誰もやっていない未知のパラレルワールドの認知を生む解釈、引き寄せは引き寄せだが、それは客観であり、主観は違った。それは今の私がやってきた事の裏付け=温羅(鬼神)であり、盂蘭(先祖供養)カタカムナでもあったと『体感無くして理解なし』な気づきのお話
意識は『意識』しないと『存在』しない・・
そもそも意識というものは無い
私は意識が観測するのが世界と捉えて
意識は観測の目であり存在だと思っていた
それを自意識だと思っていたが…
形がおしゃかになって崩れ去って
自然の一部になって巡ってまた形に宿る
帰省して寄生して
形無くなる前の生き様の禁忌を規制して
それを忘れるなよ!と免疫として護って共存して
先の祖が人と共に養っている環境が
細胞と共存細菌のバランスを保った健全な身体
つまり、息を吸って吐くという呼吸で
自然と限定的な空間を出入りしている
宇宙と地球を行ったり来たりしてるようなもので
他人と接近して話をしていたりすると、その呼吸から入ってくる限定的な菌というのは
宇宙に存在する惑星との接近であり
惑わす日の生まれとして様々な影響を受ける
匂いが好き!と反応する細胞組織
音が好き!と反応する細胞組織
雰囲気が好き!と反応する共存細菌
空間にはvirusが溢れている
I(私)VR(仮想)us(自分達)
全ては私であり、先祖達という和足しを渡してくれる和多志達であり…その全てをひっくるめて自分という巨大なロボットという身体を制御しているのが
意識という全ての反応の創造主
私が意識を失うという
巨大人型ロボット操縦への執着を止めれば
その巨大人型ロボという形を保ってくれている細胞や共存細菌として縁として恩恵を運んできた先祖達と同じ、自然を巡る粒子の1つに戻る
カタチがなくなり
自然の八百万の神とひとつになる
なるほど(´・ω・`)カタカムナの567首
56億7千万年後に51の悟りから52の悟りを得て現れる弥勒の世か
語録の人の意
七つの千里をかけるよろず念
語意・語彙の悟りのコツを得て
現れる自己表現の世か
それが宿るから先祖供養として、自然の風土に恩恵を感じる=振動周波数の共鳴が起きる
…で、形は壊れるんだよ”(ノ*>∀<)ノΣ(゚д゚;)
硝子の音の共鳴実験のように 自我という概念が音も立てずに崩壊して
形なき粒子の中で観念して出逢うのよ、形が無くなったお釈迦様と
そしてその夢の感動を現実に引き寄せて 自己表現したくなるのよ、弥勒として
一二三四五 間割て廻る 六七八九十
合うの術知れ形割き 空に脆せ結えぬ緒を
生えつ稲本 形神無名
後と録の間は繋がってない
語と録の間も繋がってない
間を割っている
後の記録も語りの記録も 先の祖先と形は違う
明日の間に『後という間』が入る明後日
明らかにするのは後の日の語りの記録で、これで元からあった1〜5は形が変えられ 6〜10で全く違う虚や事になってしまう
後間の誤魔化し=空間の介入
この法則は各国の神話の流れを見ても起きる
聖書に旧約や新訳
アーユルヴェーダの上巻下巻のアースラ神の扱いの変化
これは勇者が世界を救済した後 王として統治した結果、魔王になるような
陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる 陰陽の循環法則にも相似する
だから歴史とか目に見える形は、解釈次第でどうとでもなる虚や事
一から五の一期一会という その時、その瞬間を大切にして、その後の事はなるようになる
例えば最初は七英雄と呼ばれていた者たちが、歴史に不満を持った後の者たちからすれば七つの大罪に置き換えられるように
そう思うからそうなる =色即是空、空即是色
まるで意味が無い事であるが、そういう後の祭りが生まれるという事は
元の猿真似なのだと偽→真理の元に気づき 反面教師として照らし合わせることができる
これが思い込みという形を割く事であり 元の真理を見つけて感動して振動に共鳴すると、後から造られた偽物という概念の形が脆く崩れ去る
破壊するつもりはなくても、偽の元になっている真理に出逢ってしまうと、その波動の振動数によって
超音波振動で汚れがこびりついていられないように 頭も体もスッキリとする
そうすると、自然に心が求めていた物事が見えてきて
そうだ!俺はこれがやりたかったんだ!”(ノ*>∀<)ノと他への気の巡りが無くなるから、客観的に見れば引き寄せているように見える事も、それしか道がないと向かう道を定めた主観では、足で歩いて向かって、自分だけに見えているものに手を伸ばしてそれを掴むのと変わらない
…という感覚で置き換えると、読み解きの法則が見えてくる
合うの術知れ ←前後・因果・二元性の同一
形割き空に脆けせ ←形(歴史・物語)に意味は無い
結えぬ緒を這え ← まとまらない諸説の元を辿れ
追名本 カタカムナ ← 片神無名
継い名本なら継承
追名本なら先人の導き
後世への託す目的なら
どちらも解釈としては間違ってない
なるほどな・・『語彙的』に『切る所』が気持ち悪かった
合うの術知れ ←指示
形割き空に脆けせ←指示
結えぬ緒を ← なんやねん
生えつ稲本 ←締めが意味わからん
これが
結えぬ緒を這え ←指示
糸口が掴めなくて『まとめられない由緒』など、出処がわからない『ルーツ・元』を地を『這う』ように地道に辿れ
なんなら地べた這いずって草の根かき分け虫を探すように見つけろと
この1~5以降の『間を割った後の6~10は虚しい』から、形割いて『空に脆けせ=有無=半信半疑』にして
『頭空っぽの方が夢詰め込める』という『結えぬ緒を這え』という『摩訶不思議冒険アドベンチャーを後押し』する
この、ルーツを引き寄せて辿れ!思い出せ!という最後の一言が…『解釈違い』で伝わらない
術知れ!
脆けせ!
緒を這え!
追名本・・ついな・・追儺!?
追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や疫神を払う儀式
『魔・間を払う術』を記した『追儺本』がカタカムナか
なるほど、『引き寄せ』は『効果としては同じ』だが、この5.6.7首の自己解釈次第では、『宿る精神の力の質』か変わってくるな
『元を大切』にする意識、地道に『自道のルーツ』を辿る
糸口が掴めなくて『まとめられない由緒』など、出処がわからない『ルーツ・元』を地を『這う』ように地道に辿る
これは・・私は『夢』を通して『先祖に導かれる』ように、『高麗・高句麗、唐、古代バビロニア』等、色んな世界に『意識の観測』が向いたように
そして、『空海の霊場』を巡った後の夢の中に『平安の魔物』と呼ばれ、僧に封印されていた修験者がでてきたが、封印を解くや否や、「魔を払いたい者はいるか?」と発言していた
この儀式が『追儺』だったとするなら、それ以降の私は、現代に伝えられている『神話の多くを懐疑的に観る』ようになり、その『元を辿れば何なのか?』と語源・音の響きから観世音を始め、これまた様々な『神話の別解釈に至る新しい発見』に繋がってきた
イナンナの冥界送りの話
そしてアナンナキは阿難無き世界の金と女の奴隷支配
ただ南無阿弥陀仏で阿難の心=主命入る民として
カタチ無きオシャカに壊されてしまったお釈迦の教えの廃仏希釈
阿難無阿弥陀として崩れ去って自然に還った意志が共存細菌となって宿る仕組み
これらの共通点は『自然を愛する宿主を護る心の鬼』となり、『魔・間を払う』事
『自然を破壊』し『人も破壊』する、『全てを憎むものを受け入れない抵抗』であり
『仏の説法』で『なだめて諭して癒し』、聞く耳を持ったら
『釈迦として問題解決に至る閃き』が生まれる=大日
『闇の下の日』ではなく、闇の上の『大日』
この『闇』というのが、『間割て巡る異物=闇のveil』であり
この『間の後の事』は『全て虚や事』になってしまう
『真』が遮られ、『偽=人の為』が蔓延する
『神話・伝承』が『書き換えられて』広げられる
『正しい意味』が『レッテル』貼られて『禁忌の忌』にされてしまう
だから裏カタカムナは『温羅(鬼神)』であり『盂蘭』(先祖供養)であり
盂蘭盆(うらぼん、盂蘭盆会)とは、一般的に「お盆」と呼ばれる仏教行事で、祖先の霊を迎え入れ供養
私が・・今まで先人の知恵、独自体感論、夢日記、感覚的量子論、金輪際の見極めとして書いてきた事全てが・・
温羅カタカムナ(鬼神)
盂蘭カタカムナ(仏と成った先祖供養)
廃された『仏鬼釈』を『体感して身につける事』だった(笑)
それが『私が求めていた辿るべきルーツ=結えぬ緒を這う』だったから、『シンクロニシティ』に感じていたのだろう
道理で・・『カタカムナ80首を卒業』した後は・・なぜか『鬼に縁』が生まれ=『鬼籍(死後)』に入った?
そして『先祖達』がやんややんやと『ライオンズゲート』で訪れては『楽しい智慧』をくれた訳だ(笑)
『絶えたはずの子』が『応えを求めてきた』のだからそりゃ嬉しいだろうなw
これが全部、『カタカムナ』として『元を辿ったルーツ』としての『引き寄せ』だったとはね
ほんと世界は『大きな繰りの氣の下』で巡ってる(感慨深い)
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