単純に盲点だったのは人のエゴがそのまま神の様になると気づいた自然の法則における偽神の犠牲システムの夢
夢のあらすじ
私はとある霊山のとある駐車場から、とある印を組んでとある空間に飛び・・しばらくして戻ってきたら、そこにたまたま知り合いがいて目撃されてしまった
目の前で見たのだから、信じてくれるだろうと嘘をつく必要もないと真実を話した
この空間の過去に飛んで、そこで空間を浄化する方法を学んできたと伝え、その身につけてきた方法を使って霊山の空にかかっていた曇天を晴天に変えた
「見ろよ、あれが俺達が生まれる前にあったが見る事が出来なかった真の青空だ」
( ̄▽ ̄)美しい…と私は感慨にふけっていると、その知り合いが、「なんかお前…若くないか?」と言ったので
「空間を超える代償として若返るんだよ」とだいたい『10歳くらい若返った事』を報告すると「それいい!私も連れてって!」と色めきたった声を聞いた時
私は物凄く冷めた感情になって
「・・お前を連れて行く見返りは?」と言った
この時、明晰夢ではなく見せられている夢(自由は利かない)で、この私だと思っている主観と、え?見返り??Σ(゚д゚;)と認知がズレたと感じた客観の私の両方が有る事に気づいた
冷めた私を客観的に捉えた時
『見返り』という言葉は『欲』を望んだ訳ではなく
『お前の欲して望む業』を『代わりに叶える業を背負う俺』に対して、俺がその業を修めた後に得られるのは『俺の心を満たす』のか?
それを『お前は俺に提供』出来るのか?と
『空間を浄化』して『曇天を晴天』にするのは
ありのままの『自然の空を見たい』
その空から『巡る恩恵を広げたい』
その活動を担い『達成感を得る』
その為なら『自分を惜しまない』
人の為は『結果的に晴天』になった事で『皆が得られる恩恵』であり、皆に与えるが『主目的』ではなく、主の目的はその曇天を晴天に変える『過程の作業』に関わり『達成感による充実感』を得る事
その『代償』として『10年の若返り』がある
という事は、せいぜい『3回』
45→35 ここまでは若くなったで済むが→25 になれば周りも気づいて『気味悪がられる』か『色物扱いで人目を引いてしまう』から『地元』に居られなくなり
→15になったら、『移動手段』も『社会環境での生活』も難しくなり、→5になったら、もはや何もできない
「それでもやるか?」と過去の空間浄化の方法を託してくれた先人の伝えた『大いなる力には大いなる責任が宿る代償』として
45→35になって『初めて得た達成感と充実感』の晴天の感動をリスクを背負って味わえるのは…後、一回が限度
仮に10年経過後にまた一回となると
友人45 俺35
友人55→俺35 ←若作りで誤魔化せるか?
友人65→俺35 ←さすがに無理か
つまり『親しい人』を作らない、自分の事を誰も覚えていてはいけない存在を隠した『孤高の生き方を選択』する事になるが
そこに漁夫の利のように「私も若返りたいから連れてって」…だと?
怒りではなく…すぅっと熱が冷め
これが人が『神頼み』をする『無責任な他力本願』という『人が生み出した不自然な欲望の法則』かと気づいた
空間転移で『若返る事が出来る神』
それを『無責任に求める人の欲望』
その『人の業』を『神が代行』する
それが『他力本願』という時点で
「代償を払え」というのは至極当然の事
人の世も自業自得の因果応報
触らぬ神に祟なし
『自分でやった業』はいずれ『自分』に巡ってくる
原因の果ては『報いに応える』事
それが『業に入っては業に従い』
その『業を回収して業を修める修業』
それを『出来る神』に『やらせて』どうする?お前は『一時誤魔化す』だけで何も変わらない
いいぜ?お易い御用だ
『俺は出来る』から『俺には問題は無い』よ
ただその問題は『先送りしたツケ』だから
当然、『立て替えた業』は『それ相応払って貰う』
『しなくていい業』をやらせる
=道を踏み外させる、寄り道へ勧誘する
『人』はその身代わりに『女や金を差し出す』が…
『神』相手に『人の欲望(代替)で払える』と思うなよ?
…と
結局、神=示申=『心を満たせる何か』
それが払えるならば『若返り』でも何でも構わんが
『目先の欲』に飛びついて、軽々しく、「私も!若返りたい!」という『同意の目的』が…既に『ズレている感覚の気持ち悪さ』…
心が洗われるような『感動の晴天を偶然一緒に見た』にも関わらず、その『遥遠い時空を超えてやっと得た感動』の共感は伝わらず…
逆に『目先の若返りの見た目の変化』に気づいて、私が背負った『最も望まない代償を求める業』を『欲する人の醜さと浅ましさ』
『可愛さ』余って『憎さ百倍』
『喉元』過ぎれば『熱さ』を忘れるように
『感動』を失った『冷めた心は絶対零度』
『無責任な人の欲望』に対しては
『無慈悲で冷酷に人の代償』を求める
それは『他力本願』への『自然の神の気持ち』
ゆえに『人の為』とは残酷で冷酷な偽神に頼るという事であり
人の為でなければ、実はただの神(自然・あるがまま)のエネルギー
今回の夢で言えば、私が『私のやりたい業』を背負って、『曇天を晴天に変えていく』だけの、『人知れず』起きている『自然現象』に過ぎない
一緒に連れて行って欲しい理由が「私も曇天を晴天に変えたい!」だったら、共に連れて行った先で
「あれ?私なんか若返ってない?」と後から気づいて、実は・・と若返りを種明かして『幸運』に感じる
その時、『人の世の時の流れから離れる』のが『一人』ではなく『二人』になってお互いが『伴侶』となって、日本昔話の爺さん婆さんが若返って、末永く暮らしたそうな・・めでたしめでたしみたいな
その未来永劫の時から離れた空間でお互いを嫌い反発するような・・その時の『目先のエゴ』によって『分離』してしまえば・・という可能性だってあるが・・
そこまで考えるのは蛇足である(笑)
要は、神様=自然エネルギーにも色(波長)が有るってことで
神楽=神を楽しませるってのは、ハーモニー=調和の旋律を奏でる事
神(自然)が願う事を叶える事が夢です!という人がいたら
それを神(自然)も求めているのだから無条件で力を与えるよね
だけど、自然だから、人のエゴのような『不自然な力』は与えない←ここ重要
自然は流れだから、命運を運ぶ龍という見えないうねりを見つけて体感する
よく『龍の逆鱗に触れる』・・と『怒らせるポイント』ばかり表現されるけど
それ以外の触れたら『気持ちいいスイートスポット』ってのがあるだろう?
これは例えの話であり、流れとは激流も清流もあるという事
それの勢いは『水の中』に入って見ないと『圧』が伝わらない
神=示申=自然の流れはそこにある
その龍に触れて見ないと圧がわからない
触れる場所を間違えれば怒りの激流
気持ちいいスイートスポットに触れれば穏やかに背中を後押し
と、夢の中の神=私=龍として例えた時、その龍に触れる者=人のエゴとして捉えた時
『人の為』に『偽神となる事を求める』と『龍の逆鱗に触れる』事になる
人の欲を神の欲にするな
不自然を自然にするな
無理を道理にするな
その流れ=「力が欲しいか?くれてやろうか?」
ただし「叶えた後に、叶えて貰うぞ?」=代償
仮にこれを望んだものが、別の誰かを人身御供した所で
それはただの一時のツケであり、業は望んた者(の子孫)へと引き継がれ・・
それを人は、都合よく『呪い』や『祟り』というのかもしれないが
なんてことはない『先祖の業=借金の取り立て』だから
『業を回収』して、これに『懲りた先祖達』は『子孫に業を残さない心がけ』になる
そしてその心がけを『聞く耳を持つ子孫達』に『警鐘として継承』していく
欲欲考えて、夢夢忘れるなよ?と
夢夢、『違うシチュエーションで体験』させてくるから、まるで日本昔話の主人公の人生を追体験したような・・
見ている側(客観)では伝わらない、その時の主観の心の内面を実感してくると・・
夢も現実も・・よくわからなくなる(-ω-;)ウーン夢現
人の『都合のいい欲望』が、『神(自然)』を『偽神(不自然)』にしてしまった
人の偽の『偽』から離れ『真』を求めた時、『偽神』もまた『真の神』としての姿を取り戻す
それはなんとなく実感しているのは
レッテルや罵倒、人を貶める言葉を裏返せば、失われた元が見えてくる
勝者の歴史では敗者の文化や歴史は都合が悪いから消されている
消された者、今は『亡き月の王』に『望』みがあるように
善くも悪くも龍に触れた時、触った神に・・
怒りで祟られるか?気持ちいいと崇められるか?
真実は体感無くして理解ができない
『偽=人の為の神の気持ち』に同意したら・・『人のエゴ』というエネルギーに同意するとは『気分が悪いもの』だった
ちなみに、私は神社に行く度に、真から伝える心は
まずは穏やかな日々(結果)に感謝
その後に、やろうとしている事へのヒントやアドバイス
間違っても「やってくれ、叶えてくれ」とは一ミリも思わない
だから、導きはすれど、その先でどう選択するかはお前次第の旅のように
毎度、バリエーション豊かな『様々な別世界の可能性の夢』を見せられるのかもしれない
人のエゴが神(自然)を狂わせた・・それは間違いなく罪であり罰だけど・・
だから、先にこの話が来ていたのか(笑)
間違いに気づいたら『与えられた罰』をどう活かす?
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