魂年齢の特徴と言葉の捉え方を解釈していたら、なぜ神話の神はアベルとカインの後に『セト(役目)』を与えたのか、完全に納悳した気づき
魂の年齢と言葉の活用
幼年期 言葉も意味も『受け入れる』
若年期 言葉も意味も『反発する』
成人期 言葉も意味も『受け止める/ 邪堕ち 歪曲する』
老年期 言葉も意味も『創り出す』
超越期 言葉も意味も『生み出さない』
これ逆から辿ればわかりやすい
無為自然から伝わる自然の恩恵エネルギーを『有難いと感じた心』に素直に『悳』から表現されて創り出された『老年期の言葉と意味(ことわざ・格言・故事成語)』を
『成人期が活用』する→ここからおかしくなる
二元性の争いを『中間』で受け止める為に、双方に耳が痛い『弱みをつく説教』として『故事成語やことわざ』を使う
しかし、二元性のバランスが『拮抗』している状態とは…それはそもそも『中間という立場』は消える(´・ω:;.:…あれ?
『二元性』があるから『中間というポジション』があるが、その両極の力が『拮抗して相殺』している中心は『元々何も無い』のと同じ事
ここで『悟=差取り』を開く
文字通り、道(未知)を開く
成人期→老年期
=「元々、無だ!私の存在(役割)はなかった!」
成人期→邪な創造主・預言者
=「中間に邪なポジションを作らねば存在意義が!」
これが『関わる世界の境界線』
線引きすると
高次元 無為自然の創造主
超越期
老年期
↓↓↓
低次元 神 成人期の邪堕ち(二元性のバランスコントロール)
↓↓↓
幼若年期→成人期(板挟み)←若幼年期
ここでわかりやすい『法則』が見えてくる
成人期という魂の成長ゾーンは『善悪・光闇を不自然に動かす邪堕ちした成人期の魂』がいて初めて成り立つ。実は『それのおかげ』で『中間ポジション(自力で考える力)』は生まれていた
「二元性の争いを止めなければ!」という『争いの中には存在しない気持ち』は争いが続き『中間の立位置』が揺らがないと『中間という存在意義』がない
いわば成人期の魂とは『偽神』であり『預言者』なのだ
かつて成人期が中間という『自力で考える自由意志』を与えられた結果、その『中間という立場を維持』し続ける為に
『極端を学び二元性を邪にコントロール』して『波風』を立て、『問題』を起こし、それを『自力で解決』する
その『邪という創造主』が産み落とした
『次の成人期の邪を産む為のバランスコントロール』を行う跡継ぎの育成
神→『神の子(次の創造主)を育てよう』とした
あるいは…神→『神の器(アバター)を創ろう』とした
まぁ、これは『インプリンティング(すりこみ)』
自力で殻を破って解脱した時=悟の瞬間、『後ろの正面(親)』だあれ?
この時、私には『金輪際(セト際)』が見えた
私の表現では『成人期の魂の邪堕ち』と言ってるが
邪=二元性(善悪)を全握してエネルギーコントロールする事ができる『万能の預言者』
それは『神(その空間を支配する創造主)』であり、その神が与えたもうた
『第三のポジション(中間)』になるべく現れるのが『神の子』…と言えば
その神の子が『極端に苦しむ人々』を導き、安寧の穏やかで
『平和の約束の地(中間)へ導く』という理想を描くのは…
『神』が、『神の子』という『一時の立場』を与えた神話に親和する
なぜなら『堕ち』がしっかりしてる
天に召される=『無』に気づく
これは創造主による、『中間』という『一時の先導者の立場』は、『二元性』というものは、その立場を維持しようとする『成長の為に与えた試練』であり、『中間』とは、その『両極を自ら体感して受け止め無害化』した『無の感覚=差取り』だと悟らせる
極端から→←極端へ向きエネルギー
その拮抗してる場は→相殺←
相殺してるとはエネルギーが無・『0』
しかし
無には相反する二元性の全てがある位置・『1』
1→←『1』→←1という『新たな立場』
しかし、『差取り』を悟ればこうなる
1=1=1
そもそも、取る『差』はない
両極の『今』を映し出す『鏡』となる中間
そうなると『鏡を取り除いた』としても『1=1』の極端は『元々』そこにある
立場を持たない、必要としない
しかし、『立場』を与える、『役割』を与える
それが『学びになる』と知っているからこそ
創造主・預言者は、創造主・預言者を『育成』する為に
善悪・光闇の二元性に『中間を求める魂』を送り込む
それが『セト際』か!(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)
勝つか負けるか、成功か失敗か、生きるか死ぬかなど、運命のわかれめ
セト(またはセツ、ヘブライ語: שֵׁת, 現代ヘブライ語: Šet, アラビア語: شيث)は、『旧約聖書』の「創世記」に登場するアダムの130歳の時の子とされる人物。 カインとアベルの弟。 「カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られた」のがその名の由来とされる。
授け(シャト)られた・・この言葉で法華経を学んだ人はピーンとくる
釈迦は三次元に送り込む弟子に『授記(ミッション)』を授ける
授記(じゅき)とは、仏教用語で、仏が弟子に対して未来世における成仏を予言し保証することです。仏教経典では、特に法華経において重要な概念とされ、弟子たちが将来仏となることを仏が認める行為
授ける記(しるし)=神の意志=セト
アベル(素直)を殺したカイン(騙す・嘘つく・擬態する・争う)の『特性を理解』している
『素直さ』を認め『嘘・隠蔽や争い』を嫌う
だからカイン(若年期の魂)を『見極められるセト際』
それが『拮抗・相殺』している状態は
『追い込まれている』けどで『後一歩と追い込んでる』
『窮地のピンチ』だけど『余裕のチャンス』でもある
有るし無いし=空の間の『中間』
まさに『選択』したいで運命の分かれ目
『金輪際=セト際』を見極めよと
セト→ノア→キリスト
セトから始まる物語は『導き』
そして堕ちは『二つ』
天に救われた後、『ノアは堕落』する
天に召された後、『キリストは蛇足に復活』する
ここポイント
天に召された、救われた
これは『一時の中間(成人期の魂)という役目と学び』を終えてもういいや”(ノ*>∀<)ノと
救えない幼年期・若年期・邪な創造主もどきの世界から離れて『超越した先人達』を追いかけて『仏の気持ちに成る=成仏』して『仏悳=老年期』に突入する事
そっちに行けばもはや、この世界は『意識して観測』されることも無く
「人生は学びのゲームだった、クリアしたからもういい」
と役目を終えた『やり込みゲームソフト』は『元々存在しなかった』のと同じになる
胎蔵界↑↑↑
金輪際・セト際の見極め
金剛界↓↓↓
『中間』という『万能神ポジションを維持』する
その『万能神復活』の為の『器を育てる邪な預言者』
まるで『神の復活』の宗教
まるで『大魔王復活』の宗教
その『成人期の魂は導かれる』ように『神輿に担がれる』ように『中間のカリスマ→邪のシンボル』となっていく
これね…最近思うんだ
都市伝説ブームというのは、世の中の善悪が明らかに乱れた時
『混乱』を止めるべく『真実を中立で発信』した人達
『コロナ禍には光り輝いたカリスマ』も
今や『陰謀論者と掌返しの世論』で姿を消した
それはとても簡単な事で『役目を終えたら消える抗体』のようなもの
例え『馬鹿』にされようと『頭おかしい』と言われようと
その『瞬間、その必要なタイミング』で『やるべき事』を成し遂げた
それで『同じ方向についてくる人』がいた
『一人』でも『そこ(新天地)』へ導く事ができた
という『達成感』があれば、『闇の中で隠された真実を解放する』という作業は必要だったが…
もはや『闇』が明けて『明るい陽射し』の中、『闇の中でスターになった立場』の
『ポジショントークを維持し続ける』というのは『光の中の闇』という汚点になってしまう
例えば、『都市伝説ブーム』もそうで『神輿』に担がれ、『素人から芸能人』へと『社会的地位を得るとんとん拍子の先』にあるのは・・
その流れをコントロールしている『邪な万能神とその預言者』が、『器(操り人形・次の預言者)にする為』に育ててるんだろうなと
『金や地位が目的では無かった』のに結局『見えない金の流れ』に載せられている
『流行りを作った者達(スポンサー)』すら『流行りに乗った』というのであればその流行りは『誰が流した流れ』なのか・・
少なくとも『今までない立場(不安を煽る邪)』を生む流れは『自然の流れではない』のは確かだ
ノアに素直に従い導かれ『新天地に渡った者達』
キリストと共に『罪と向き合い業を回収して天に召された者達』
セト際で『進むべき方向が変わった者達』
それについていかなかった『聞く耳持たず残された者達』は
『堕落したノアの血筋』が広げる滅びの預言
『復活したキリスト』という蛇足の信仰の預言
『教をコントロール』する『予言者(偽神・善悪掌握)』となった、かつては『闇の中の一瞬の光(役目)』だった意識が
『存在の連続性(立場)に執着』した結果生まれた『光の中の永遠の闇(常に不安を求めて発信する)』となる
『都市伝説ブーム』が消えない
『不安を煽る物語』がどんどん新しく生まれる
まるで『バンドラの箱』を開いて『カオス(混沌)』が飛び出したような状態
それは、それを『立場として執着する意識』が生まれたから
『社会的価値がない』とされてきたから『金という力』は巡らなかった
しかし、社会にとって『必要悪・ガス抜き・コントロール』にちょうどいいと
『社会的地位の立場』を認められ『金』が巡りはじめ『金と立場に執着』し始めた結果
その信者は『不安を求めて集まるファン=儲』となった
門前の小僧、習わぬ経を読む・・という事は、既に『元』を知っている
元を知らずに、門下生は『与えられた教』を読む
『経典・原典(元)』と『教科書』は違う
『元に興味を持つ』のは、『行動の結果』、既にあった元に気づいて『共感』を受け
その元が伝えた言葉を『生活の実践』の中で素直に受け止める
『元と間が一緒』だから、『間違う』事はない
しかし、元とは『違う間で生まれた教』というのは初めから『間違いの教え』である
では、『どこ』から間違っていたか?
それを見極める言葉が『セト際』
アベルは素直であった(幼年期の魂・正常な細胞)
カインは優秀だが自己中で反抗的だった(若年期の魂・ウイルス)
その後に現れたセトはおそらく・・(成人期の魂・カインの刻印を見極める免疫)
そのセトから生まれた『ノア→キリストという役目』は
盲信する幼年期の魂も、抵抗して争う若年期の魂も『全てわかった』上で
『自己犠牲の中間(抗体・機能獲得)へ導く立場』を全うした
キリストや仏陀の『葛藤(サタン・マーラ)の物語』は
『正しさ』とその中間の立場だからできる『邪』という
心の中で揺れ動く『己の心をとどめる=禁忌』の『正邪』の闘い
だから、正法を説き解脱し天に召された
しかし、その痕跡は世代を超える事に『宗派』として『間違った教』が広がっていった
あ、あかんwまた『繰り返しのターン』入ってもうたw
そうだから、『セトの役目』の段階で『物語・神話』を見極めないと
陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる
物事の勢いが極限に達すると、その反対の状態に変化するという意味
ある意味では『ポールシフト』でもある
惑星の自転軸や磁極が、何らかの原因で現在の位置から移動する現象
地磁気が弱まると、宇宙からの放射線が地球に届きやすくなり、生命に影響を与える可能性があります
現実的な意味では『地軸の反転』として有名だが
私の観点では『立場の逆転』を意味していると思う
『唯物信仰』が『唯心信仰』へとパワーバランスがひっくり返る
『宇宙人・幽霊』とか、今まで『否定』されてきた事が『肯定』されるようになる
でも、これも実は『繰り返しの転換点』という意味では『セト際』であり、見極めなければ・・
以下、『蛇足の邪の役目・役割の二元性と中立の世界』にまた囚われる
私は、都市伝説ブーム、スピリチュアルブームというのは
『偽=人の為』でもあるし『真』もあったと思うから
『真偽の見極め』が重要だと感じた
その時、私の背中を押してくれていたのは『ルシファー意識』だった
心の中で『正しさ』を追い求めた時、向き合うのは
その正しさのバランスを少し崩すだけで傾く『邪』だった
だが『邪に気づく』という事は同時に「正気を保て!」と
『反面教師』として『有難い指標の存在(師)』となっていたと気づいた
私は『邪という波動エネルギーの変化』に敏感になった
そして、これが『隣人を愛せ』という事だろう
『正』を保てなくなった時、『隣人として邪』がいる
これもまた『真理』なのだろう
例えば、中立・無・穏やかな『凪』
中立を保つ状態から『極端』には触れる事はない
しかし、ふっと凪の湖に風が流れて『波風』で波紋が立ち『言の葉』が落ちた
その波紋と言の葉が『どこから』はじまり『どこへ』行くのか?
それを『眺めて仏悳』のもまた『一興』
『邪は誘惑』して『正に楽しみ』を与えてくれる
『問題なき所』に『問題』を生み出して問題を『解決する機会』をくれる
釈迦とは『問題に巡り合い解決する』という意味
『問題が無い』所に『釈迦・閃』は産まれない
という事は『釈迦が生まれる場所』を創るのは『邪』なのだ
と、これは心の中の正邪の中で『隣人を愛せ=トラブルを楽しめ』だが
現実の現象では『安心』している所に『不安』を生み出し
その不安解消に『釈迦を呼び出そう』という『かまってちゃん』なのだ
心が穏やかな時は、かわいい小悪魔
心の波風が激しい時は、手の付けられない大悪魔
難儀な関係性だよほんと・・
『問題を解決する』という事は『愛した隣人を失う事』である
それは『ワクワクして向き合った事への執着』を『いずれは手放す』という事
まるで創造主と創造主に『愛されたい執着心』
その為には、皆兄弟の『人類を殺すカイン』のようだ
『邪の器』を生み出す為に『信者を増やす邪神教』は大抵『復活』をテーマにしている
これはキリスト教を初めとした宗教は皆同じであり『門下生とは信者=儲』なのだ
だから、たいした問題が起きない時は、釈迦は『弟子=仮想シミュレーション・閃き』だけ送り込み
弟子に『自力で解決』させる=『釈迦力のサポート』はする
『サイトカイン=免疫大暴走』が起きないように、自然治癒の免疫に『力(閃き・智慧)』を与え『邪への精神抗体』を身につけさせる
それがセトという第三の力
有事の再には、『見極めて導く自由意志』
大事な人・物・事を『心』に秘めて『金輪際を見極めて離れろ』という
ノアの箱舟であり、導くキリスト意識の役目
その元が『セト・免疫』という際にある
勝つか負けるか、成功か失敗か、生きるか死ぬかなど、運命のわかれ道
『免疫』が勝てばそこは『安寧の極楽』になる
カタカムナで セト の言霊は
責任の統合、引き受けて統合する
ノアの言霊は
時間をかけた命
キリストの言霊は
エネルギーが離れる方向に統合する
『全て引き受ける』という『責任の統合』
これがアベルとカインの後に創造主が送り込んだ『セトという意志エネルギー』
セト・セツという表現の違いもあるが
セツ だったとしても『責任が集まる』なので役目は変わらない
責任の統合、引き受けて統合するという表現は
私は『自業自得の因果応報の業と向き合い回収する事』とも相似すると感じる
幼稚なアベル、自己中なカインを『生み出した責任』
そのカインが犯した『罪とその後の子孫の教えの影響』
その全てを『自己責任として回収する役目』という際
カインの刻印=若年期の魂を『見極める中立・成人期の魂』
それは『創造主』にとっても『学びの過程』である
創造主が『創造主の産みだした世界』を隅々まで体験する
何が問題で、何が問題ではないのかを見極める
この作業を『自らする為の器』として『set』したのかもしれない
人それぞれ『運命の分かれ道=セト際』は違うかもしれない
まだカインの魂の世界で『セトをsetできてない』のかもしれない
ま、これだけ『教(常識)のトロッコ問題が蔓延』したら向き合うのも大変で
万教帰一の『元』が何なのかは多くの人が気づかないかもしれない
教が生み出したトロッコ問題は解決策はない『二元性の柵(しがらみ)』
それは釈迦が解決するべき問題ではなく『人がエゴ』と向き合う『人の問題』
『邪』がどれだけ、光の中に『人為的な人の為の偽闇という問題』を生み出しても
そこに釈迦は産まれない
むしろ金輪際・セト際だと『切り捨てる』だろう
人が『セト際=自然免疫』を失って『終わりのない問題』を生み出し続ける『教の生成AI』となっていく先にあるのは・・さらなる下層
DNA(元=原典・正法・原点・因)を人為的=『偽』に変えてはいけない
それは『元』から遠ざかる『邪な教え』
・・と漢字をそのまま読めば『果て』がわかる
セト=授けられた=授記=『自己免疫』を失えば・・
カインの思う壺=サイトカイン=炎症反応
『炎の病が正しい=戦争』となってしまう
という感じで、私は『創世記』というのは『体のメカニズムの医学書』だと捉えてます
大日・釈迦金輪際の見極めとセト際が
『自力で問題解決する意志』+『釈迦力の閃きの後押し』が
授けられた『自己免疫』と『自己治癒』の身体の仕組みと一致し
『アベル(細胞)』を殺した『カイン(ウイルス)』と
その『カインの特性』を理解した神が与えた『セト(免疫)』と
まさかの『釈迦の授記=授けられた=セトと一致』するとは思わなかったけど
『類は友を呼ぶ』ように『シンクロニシティ』で物事を照らし合わせてみると
『表現が違う』だけで、『伝えてる事は一緒』という『万教帰一』
『創造主は人を創造主に似せて作った』という事は
『スケールは違う』けど『メカニズムは相似している』という事
だから前もって授記=セト(対策・自己免疫・自己治癒)をsetできる
『セト際=運命の分かれ道』に潜む『擬態した何か(癌)を見極められる』のはそういう事だろう
素直な心(RNA・ミトコンドリア細胞)を護り
自己中(RNAウイルス)とそれを操る邪(メッセンジャー)の侵入を防ぐ
鬼門の『鬼』であり
説法で癒す『仏』であり
問題解決に取り組む『釈迦』の『三位一体』である
その『仏鬼釈を廃した』・・という動きそのものが
創造主との『精神的な繋がり』を切り『自己免疫疾患』を引き起こす
そりゃ『神も仏』もなくなって『護るもの』がなけれは『鬼』も必要ない
大事なもの『元』を全部手放して『無血開城の国譲りの売国奴』
そりゃ『盲信』して『偽神崇拝』しても救われる訳ねーだろとw
やっぱり『セト=責任の統合の際の見極め』が運命の分かれ道
体を大切にする選択=『精神の胎蔵界』を護る
人為的なDNA改変を選択=精神世界との繋がりを自ら断ち『金剛界』に堕ちる
意識の観測する現実世界と精神世界は『人の間の選択』で決まる
生まれた時から人は『自己治癒と自然免疫』を授けられている
人に造られた『ロボット』にはそんなものは無い
『自己修復・自己メンテナンス』という『現状を維持』する
それっぽい『模倣の仕組み(ナノマシン)』を搭載するが
それが最も嫌い『殲滅する対象』が『自然の共存細菌』だろう
ただ『真逆になる=概念・立場がポールシフト』するだけ
創造主は『人の自然な成長を見守る』が
人は造ったものが『自然に成長する仕組みは与えない』し
見守る所か、新しいものができれば『用済みで交換して捨てる』
理由は簡単で『コントロール・支配したい』から
この時点で、それを生み出した魂の年齢が『若年期』だと透けて見える
コロナ禍をきっかけに本当に多くの『精神的な気づき(反面教師)』があった
まさにあれは、精神世界的にも現実世界的にも『大いなる成長のきっかけ』と今なら思う
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