四隅の口封じの立場によって大が囲まれる『器が試される』という世界の仕組みのお話
円(縁)・四角(環境)からすべて(全)が始まる
三の口で『三中主』
あるいは『品』
では四の口では『器』
ほほう( ˙꒳˙ )という事は
五の口は『悟』
三の口は二元と中立の立場の『三原則』
四の口は四角の中心に円を置いて、その円から外れた四隅の角に『視覚の死角ができる角=過度』が立つ
五の口はその四隅と円の『22:78の法則』を語る
『もうひとつの観点』を持った発言の発現
それは『心』から伝来するから『悟』
『心が五つの立場を口で語れる』ならもはやそこには『別の立場はない』から、『新たな立場』を生むためには『無』に還る
『全ては有る』けど『カタチ(立場)は無い』
つまりは『悟』とは『立場の差をとる事』
=真空の無であり有への『原点回帰』し、そこから『新たな次元の意識を生み出す』という段階
『超越した思考と試行』はもはや、その概念の中の四角の『四口の器』に囚われ、『三つの品』にされるがままの『二元性の生類』では…『悟った者=別次元に意識がシフト』した者からすれば『生類憐れみの例』である
『衆生・大衆』を救わなければと・・
そんなわけで( ̄▽ ̄)Σ(゚д゚;)そのノリ?!
『器』って奴は『四口』に囲まれてる『大』だよな?
これは『四角の中』に囲まれてる『円』なんだよ
『視覚・資格・刺客』…色んな立場の『界隈の過度の極端』から見た『大衆の78』であるとするなら、『隅の界隈は22』という『死角の支配』なんだよ
でこの円に集める、集まるから『大衆を救える』という意味では、ある意味で『空中推挙』なんだよね
現代の主流派はこんな風にファンタジーに捉えている
死んだ人は復活し、生きている人はそのまま天に上げられ、空中でキリストに会います。 2番目に、携挙が起こることは、イエスが約束しておられます
でも根源はこう
艱難が始まる前に携挙が起こり、これにより真のクリスチャンは艱難を避ける事が出来るとする説。携挙を強調する教派の多くは艱難前携挙説の立場をとる。これはキリスト教根本主義の説とされ、初期の神学的根本主義において艱難前携挙説は必ずしも一般的な主張ではなかったであろうとも言われている
艱難辛苦
困難にあって苦しみなやむこと。つらいこと。なんぎ
こんな時に『キリストが復活』して『生きてる人』はそのまま『天』に上げられ・・って、正直な所、『夢で何度も体感』したんですよね(笑)
それが『ヤコブの梯子』から降りてきた『天使』に抱えられて「パトラッシュ・・僕もう眠いよ」と『常世の冒険』に連れていかれて・・
『精神と時の部屋』ならぬ・・『精神を説く部屋』のようなあらゆるシナリオの空間で鍛えられてきたから、『コロナプランデミックを避ける事』ができたというのは、『自分自身に宿る意志氣が変わる事』なんですよ
『主』は来ませり・・゛ではなく『主湧き』ませり(ワクワクと夢から心の内面から)
携とは たずさえる・たずさわる
挙とは 物事を起こす。おこなう
これは『使命を持って行動を起こす=自発性』であり、イエスが助けてくれるとか、弥勒が救いに来てくれるとか、『他力本願』の言い伝えではなく、『特定の神(偶像)を盲信してきた宗教信者』にとって、『宗教からの決別』という『艱難辛苦』を意味している
『主体性がない組織団体』から『主が沸いて』自らの流れに乗って離れる
有難い言葉=滅多に無い=『滅びが多い時に有る=艱難辛苦』の状況で『空中携挙=意志氣が変わる』。精神と時の部屋のような時間も空間もない『夢(空の中)』の向こうの『精神を説く部屋』で鍛え上げられた意識をたずさえ物事を起こす
その『自分の使命』を思い出して『自力で釈迦力に励む事』
「お前にまだいう事あったっけ?」と釈迦に塩対応されてみ?『憧れ』って書いて『心は童子』だから恥ずかしくなるよ(笑)
だから「『四つ口の角の過度=極端(例として神教)』に近づくなよ?」という『反面教師』でもある
極端に行けば極端の『反対』を知りたくなって『堂々巡り(仏教)』する事になるが
『円の中の大』となった衆は『簡単に救える』んだよ
なぜなら、大とは『一+人』と書く
『一人を救えばいい』のさ( ̄▽ ̄)ニヤリッ Σ(゚д゚;)
『四角のカゴ』に閉じ込められた『一人』
それが『囚』われた『人』の意識=囚
その『立場による口封じ』から『人』を出せば『人は大きく』なるんだよ
『人と囚』を比べてみ?『口封じ』されてるより『大』きいだろう( ̄▽ ̄)ニヤリッΣ(゚д゚;)
これが『器』が大きくなる『大器』
『大器』が『器から出た一人』が『器』を見ている
これは『人』が『囚』を見て『囚人=奴隷』だと気づく事
「かつては俺もそれだった…」と思ったら、『そこから出してやりたい』と思うだろう?( ̄▽ ̄)ニヤリッΣ(゚д゚;)
だから四角の中の『円の中に集まってきた大衆を救う』には、『一人』を救えば、その一人が『別の一人を救う大器』となり
結果、『大器晩成』
大きな器は完成するまでに時間がかかることから、真に偉大な人物も大成するのが遅いということ。大人物は遅れて頭角を現すということ。才能がありながら不遇である人に対する慰めの言葉としても用いる
老子の言葉らしいが、私はその通りだと思う
『一人』が『皆を救う』のではなく
『一人』が一『人を救う』のだから『簡単』なんだよ
その結果、『大』になっていく『大事』で『大切』な事
それが大和=一人の和の心
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