言葉には誰もが共通認知の意味(効力)が与えられていて、そこに自分の想う事をのせて引用すると言霊となる。しかし、言葉の意味は生み出した者ではなく、使う者が都合にあわせて意味を変えてしまった物があり、そんな事ができるならば、言霊の意味を忌にする事に限界は無いという、言霊の解像度とちょっとしたトレーニングのお話
言霊の解像度
まるで〜のようだ!と言語を視覚化する分解投影する想像力と、ならば〜これは?と新たな空間に創造する力
言霊とは『言葉に制限』をかけない『限界』無き『現界表現』
例えば『満たす』とは『見たす』と説いてみる
足るを知るには『見て足す』もひとつ
『目』は『口』ほどに物を言う
物を言うのは『物語』だから
物語を『見る事』も足るを知る事でいずれは『満たす』
満たすという『満タンの状態』を『見るという行動』に変えると『目』という『物質の観測点』が生まれ
目は『口』であり、口は『物を言う』という『先人の知恵の言霊の解像度』を取り入れると
『物(光の反射)』を『語る』を『見る』とは目だけにあらず『耳』も使うし『頭』も使う
結果、『満たす為の行動』という言霊の解像度から、『目、耳、口、頭』を使って取り入れた『物語』を、『身体全体で感じる体験を足す』という『想像と創造』のメタファー=隠喩が産まれる
これが『言霊の解像度が高い』という事であり、『満たす』為に『見足す』のに必要なのは『意識した物語の観測と体験』であるという意味では
最初から『意識』しかない
『意識』がその言霊を『深く洞察』しなければ、『満たす=満タン』、それ以上も以下もないという『与えられた意味』の限界で、『限られた界隈の決め事』としか『認知』できない
満たすを満タン=『結果』と捉えるか?
満たす〜為に=『過程』と捉えるか?
因果の『原因に意識』を向けるか?
因果の『果てに意識』を向けるか?
果ては『意味が確定した限界』だが
原因からの『過程は変化の途中』
いくらでも『果て』を変えられる『ターニングポイント』
満たすを『目指す過程』=満たすには何をどうすればいい?
何を持って満タンとする?=『今は足りない』を知る
ならば『見ながら足せばいい』=見足す
『目』は『観測した情報(光)』を『口』に伝える(ありのまま口伝)
口はそれを『言葉(音・周波数)』で『物語』り、『耳』はそれを『聞く(幾何学・パターン分析)』
『光子』が『波』に揺らぐ
光の追跡=レイトレーシング
光の伝達経路=レイライン
人は無意識に『興味を持った物(光)語り』に『意識を向けて観測』している
例え『光(物質だった人影)』を失っても、失った光の『残光』を追って『霊(ray)の追跡、先人の知恵(光)』を求め、その『光の物語』を見て『感銘』を受け『自分の一部』として満たして行く
見て足して、満たして行く
では満たすとは『何を満たす』のか?
それが『納悳』という『心が求める物語』
『かつて人』だった『光の追跡と蓄積』
『靈』の『先祖供養』
『靈ライン』を辿り『パワーをスポッと』満たす
『例となる生き様』の『先の祖(残光)を人(現光)と共に養う事』で『光』が増して輝く
全ては『光の捉え方』
物質は『光』、『目に見えるもの』は全て『光子』という『講師(反面)』
ただ『目』を通して見ると『光の細分化・投影』によって『限られた意味(色)』に囚われている
では全てが光子という『粒の粒子』なら『物質を通り抜ける事』ができるのか?
(ヾノ・ω・`)ナイナイ そう考えている時点で、『限界』
〜とはなになにである
〜故に〜は〜とならない
まるで『我を思う、故に我あり』
『物質透過』『すり抜ける』
これも言霊だから『解像度』を上げてみればわかる
物の質と物の間を通りぬける。光が通りぬけて向こうが見える。すく。すかす
光が通り抜ける=『反射しない』時点でそれは『物質ではない』が、『透過』という言葉を『等化』に置き換えると面白い
一般に総合特性を平たんにするために,周波数特性や位相特性を補償することをイコライジングequalizing(等化)といい,その装置をイコライザーと呼ぶ。ヌーソロジーでは正反対に拮抗している二つの力(対化)を、精神の力(ヌース)によって一つにまとめること
そう考えた時、物質と透過は『正反対』であり、物質を『等化』にすると『周波数特性を変更』する事により、物質と非物質は『精神の力を持って両方の性質を同一にする』と読みとけると
その精神の力を使うのが『意識』なんだよね
『知識』が自由な発想を『邪魔』をすると『限界(果て)』が決まる
できる訳がない=できたという『前例』がない
有り得ない=『可能性が有る』のに『得よう』としない
限界とは『その人の界隈(意識が観測している環境)』で決めつけられている。だから『そういった界隈の類友』から離れて、『環境』を変えて『認識』を変える『過程』が重要でそのために『意識の観測点』を変えてしまう。
「今、現実的な物質透過は不可能だ!」という物理の話が、『等化』に認識を変える事によって、『周波数特性の光の波の話』になり、そしてヌーソロジーをもって『物質と非物質の同一性』を持てば
『物質を透過する=光となって通り抜ける』というのは『意識では可能』という事になる
『すり抜ける』という言葉も解像度を高めて行けば面白い事がわかる
擦り抜ける時点で『摩擦』が起きている
摩擦とは物質と物質が相反する方向に進もうとする時に起きる力
通り抜けようと光が向かった時、『反射』するという事は、光にぶつかって『屈折』している事になると考えると、それを『抜ける』訳だから『隙間』がある
摩擦の解像度を高めると『間察』
光子が入り込む『間を察する』
『進むエネルギー』に対して『止まるエネルギー』が働く時、力が『ある程度通り抜けている』という事は、光子が物質を『いくらか擦り抜けた』、間にはいったとも言える
つまり『擦り抜ける』の場合、全部がそのまま『透過』するのではなく、一部の光子は『相殺して消滅』する
だから例えるなら物と物がぶつかって『欠けた』場合、その『欠けた形の分のエネルギーは向こう側に透過して擦り抜けた』と考えた場合
通り抜けたのは『光子(物質)という役割を捨てた粒子=非物質』であり、『目に見える形』で残ったのはその『非物質側』から生まれた『新たな光子の残留=最初から欠けたカタチの周波数』として『生まれた物質』
『破壊と再生』とは『物質(光子)』と『非物質(役割を持たない素粒子)』の『役目の入れ替わり』
こんな風に言霊の解像度を深めると
ただ『満たす』という現状の言葉と
ただ『物質透過して擦り抜ける』という現実では不可能を現す言葉も
どちらも『精神=非物質領域』における観測点、物質的な物ではない『音の周波数の組み合わせがパターン化した言葉』には、その言葉に宿した『先人の靈=生き様』が宿っている
ただし、低解像度の『与えられた都合のいい意味という限界』で『思考停止で目が虚』になってると、ここまではっきり『自己認識』は出来ない
『意識の解像度』もあげないと、『言霊の奥からの投影』は見えてこない『非物質の精神の領域の波動』
画面を『4K8K』にしても、周辺機器の出力が『720pやFHD1080p』だったら、『新しさ』は感じない(低いレベルに合わせる)、だから『言葉の処理をするCPU』も、『言葉の想像を膨らませて創造するGPU』も、その両方を使いこなす『意識』を変えないと意味がないようなもの
言霊は『エネルギー』を持って『振動』しているから『心に響く感動』を生む
だけど、それは『単発な震える音』ではなく、『旋律』を繋いで『メロディ』のように奏でる事で、『幅』と『奥行』が生まれ『空間』になる
その『空間』だからこそ精神が宿る『スペース』が生まれる
『意識が世界』を生み、意識が『世界を観測』する
だから意識が変わらなければ『観ている世界』は変わらない
『与えられた世界』は『因果の限界の知識』だが、原因を知り過程で『認識』を変えれば『結した果て』の方向には行ずに『未知の世界の始まり』へ
これは『端間理』を知れば『終わり』という言霊で、極端から極端の『端から端の間』が『生まれる仕組みを理解』したら、もう『足りないものはなく満たされ』興味もなくなり『自ら執着を手放す』だろう
『全てコンプリートしたRPGゲーム』のようにね
そのうち『PROGRAM』のアナグラムに『RPG』が入ってる話をまとめます
さて、『満たす』という一言の何気ない言葉から、『満たしたら自ら手放す』のオチまで、言葉の解像度を高めていく感じる波動エネルギーの導きの意識の旅(トレーニング)についてこれました?(笑)
今でこそ、2~3時間くらいで、まとまるようになったけど、最初の頃は4~5日もずっと意味わからん・・と波動が停滞する日々だったんですよ(;^ω^)自動書記はきついぞ
でも満たすのオチが満たされてたら放棄するんだったら・・満たす必要ないじゃん!最初から満たそうとしなければいいだろ?wと思う人もいるかもしれません
それが、『人として生まれる不思議』で満たそうとしなくても、情報を『見せられ足されて』しまうので、満タンにするまで止められなくなるんです
足るを知ってやめないと、溢れてこぼれたらまたやり直しを繰り返す蛇足、過ぎたるは猶及ばざるが如し
だから、慎重に自分の目で見て、口で物語って、耳で聞いて、頭を使って、体全体で経験値を足す
言葉の解像度が高い人の特徴は『難』でも『何』でも真理の探究をする事に哲して学ぶ『好奇心』を持つ人
そんな人にとってはこの世のあらゆる事象は遊びで学び、体験から生まれる言葉は波動エネルギーをのせれば言霊になる
魂の経験値を積む為にやるべき精神トレーニングのお話でした(^^ゞ
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