好奇心

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老体に鞭打って→law体に無とチ ミエナイチカラ

閃きワード『law体に無智売って』・・老体に鞭打ってが何故か、law(法)を体(人の本)と説き、各々の『チ』の業を体験する為に『借りた』、為すべ業を回収して修める修業?そして、老体に鞭打って動く時の「どっこらしょ」がミエナイチカラのサポートを受ける真言になってたと気づく元担ぎの元は釈迦というお話

老体に鞭打って とは

年老いて身体が衰退した状態の中、気持ちを奮い立たせて何かをすること。〔語源〕「老骨」は、年を取って衰えた体。 老体。 老躯(ろうく)。 「鞭打つ」は、鞭で打つ意から転じて、励まし奮い立たせる意

老人が立ち上がる時の掛け声は「どっこいしょ」

「救ってください」[無事に、成し遂げられますように]という意味で用いられているかけ声です。 #ドッコイショ(ヨッコイショ)の語源はヘブライ語の「ドッコイシャ」です。 意味は「救いの押して」で、この言葉の語源は同じヘブライ語の「ドケッイシュ」意味は「救い主よ、苦しみを終わらせてください」です

ヘブライ語では、『神頼み』だが、老体に鞭打って、自分を励まし奮い立たせるとするなら、それは『自力』で何とかする

その意志を『無事に、成し遂げられますように』と捉えるならば、『自力で問題を何とか解決しよう』とする
その結果、『無事に、成し遂げられますように』と導き手助けしてくれる『加味の救いの押して』のサポートに『巡り合う』

釈=問題を解決する
迦=巡り合う

どっこいしょという掛け声は、そういう『元担ぎ』でもあり、担ぐ『元』が何なのか?をわかってると『自力で頑張る気持ち』になる

なるほど、さぁやるか!(自力で)という掛け声がヘブライ語と繋がれば、『ヘブライの語源』にも『釈迦という役目の教え』が関係すると言える

・・これだけでも、『老体に鞭打って』は、私にとっては相当な『先人の智慧の継承』なのだが・・

閃きワード law体に無『智』売って?

Lawは『法』を示す
体は『状態』であり、『人の本(質)』
『本の教えの質』によって『体=本質』が変わる

そこに鞭を打つ=『矯正・強制・叩く・痛みを与える』・・のではなく?

『無』『ち』を売る?

『無』とは『全てが内包されている空間=可能性』である
『ち』は漢字の解釈によって多種多様の色がつく

智 とすれば『智慧』
値 とすれば『価値』
痴 とすれば『病を知れ』
恥 とすれば『心に耳を傾けよ』
治 とすれば『治せ、治めよ』
致 とれば『至れ、達成せよ』

このように『売る=取引』とするならば
law体とは『法則』を『人の本質』として『宿し与える取引』

まさに『間借りの体=人間』
借りた体で、『無(全て有る)の中』でそれぞれの『チ』の『業を修めよ』と
修業を促すのが『老人=老いて枯れる人』ではなく『始まりの原因』

宿した精神の『宿業』を示している・・と解釈すると
そこには人間的な『老いも若き=時間と変化』もない

『law(法則)』に従って『体(人の本質)』を成している
それを『借り』て『生の中』で『活かせ』と『生活』している

『人の本質』という『宗教的な大枠の集合』ではなく
『各々違う本質』の『業』を宿して『修める為』に生きている

『業の回収』とは、その『チ』を『地』で体験して理解する為に『借りた体』を返す

『無地』売ってたんだ

「無地」は、全体が同じ色で模様や飾りがない状態を表す言葉

『何もない仮想空間』を『自分』という『人に宿した『チ』の本質』を『投影』して『体験』を得ていた

だから各々『チ(宿業)』が違う『地(仮想環境)』が違う

カタカムナで ち の言霊は 『凝縮』
カタカムナで じ の言霊は 『内なる示し』

内なる示しで凝縮した空間=『心が投影』された『チの球の仮想空間』

老体は老いた人の体=肉体年齢=借りた体の『タイムリミット=時限』
law体とは法則と人の本質=宿した業を回収して修めるまで続く『リミットレス=永遠』

業を回収する為に現れる問題を解決するまで・・『終わらない』
「・・やるしかないのか・・」と『自業』と向き合い始めた時

「どっこらしょ(さてやるか=自力)」と声を発する=『真言』
その真言は「背中を押してくれ」という『加味のサポート』を求める『進言』

自力で問題を解決しよう=『釈の向上心がある』なら手伝ってやるよ!と導き後押しに『巡り合う』
これが『釈迦力』となる

なるほど、元担ぎの担がれる『元』はやはり『釈迦=自力で問題解決する法に巡り合う』である

『廃仏鬼釈』・・『元』の『釈=自力で問題を解決する意志』を『無く』してしまったから『元気』がない
『元気』を取り戻せば、『元気』があれば何でもできる!

そりゃ年齢に関係なく『老体に鞭打って』でも『宿した人の本質』に従えば
無の中に各々の『チ』という『為すべき業』が見つかり、元気を取り戻す

人として動く=『働』・奮い立つ衝動
『生きる活力』が湧いてくる

しかし「人は金の為に動く事』を嫌がり始めた=『違和感』に気づき始めた

それが『何』を意味するか、『金の為』ではない『各々の適材適所の能力』を活かす
問題を解決してそんな『理想社会を構想し始めた』という事でもある

人の『都合のいい法(law)に従う』のではなく
『自然の法(law)』に従う

『自然』とは目に見える『植物や動物』など無の空間の中のもの』ではく
その『無の為』に志して借りた体に宿した『人の本質のチに従う』という事

『皆(無の中の苦の衆生)』には『合わせる』のではない
『一切(一人切)』の『元来の為すべき役目』に各(おのおの)の差の能力を活かす

それが『自然体』
「おのおの配置につけ!」とはそれぞれに『代わりなどいない役目』があるという事

寄せ集めた集団の中では、『突出した個性』という『出る杭は打たれる』
そんな『凸凹』だからこそ、『自然体の法』の中で『役目』がある

『代わりはない』のに『代替品の偽=人の為の物』で誤魔化す
そんな『社会の構造が歪になるのは必然』である

『失われていった先祖達』の『心を宿す器』となるその『可能性が最も高い』のは・・『日本語が理解できる=継承されてきた日本人(昭和世代)』だと思う

ま、『肉体年齢』的に老体に鞭打って「どっこらしょ」しなければいけない人達もいるだろう
だけど、そのどっこらしょ!の掛け声が、『真言』となり、それを『後押しする先人達のサポート』がある

そういう『元担ぎ(形象の継承)』なんだよ

ただの言葉遊びのつもりが、どっこらしょから

無事に、成し遂げられますように
救いの押して

まさに『加味頼み(サポート)』
自力で立ち上がるのに「押す力を貸して」と言っていたとは(笑)

言葉は言霊、『ミエナイチカラ(精神性)』が支えている

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