鬼龍院の登龍門、鬼門と奈落から這い上がる螺旋の龍となり気流となって風土に巡る…過程は最短ルートの高速道路だけど一旦乗れば目的地まで・・呉越同舟の拘束される道路…という霊的精神性の成長過程のお話
寝起き閃キーワード 鬼龍
(ㅎ-ㅎ)鬼龍?
鬼龍の意味を調べると、出るわ出るわの『創作作品』で使われる『メタファー』の数々。その多くが『強い!カッコイイ!』というイメージだが…
ちゃうねん(ヾノ・ω・`)ナイナイ
私にとっての『直感の鬼龍』とは東北の『鬼神社』に『龍神伝説』が集まってる東北には『院が多い』という事
院とは
院は僧侶の居住するところという意味であり、「寺」より「院」がかつては上位でありました。 法号の院は天皇の退位後の居住をさす言葉で、天皇の退位のみであった院が皇后や親王、そして摂政関白、将軍、大名の退位したよび名に使用されました。
例えば『釈迦院』、または釈迦がかつて『鹿の王』だった事からか、ろくおうと書いて『鹿王院』
そういう意味で捉えた時
『龍神』はかつて『釈迦の説法』に心打たれ、改心し帰依して『法華経の守護龍』となったという観点では、釈迦の教えの地に『龍神』があっても不思議ではなく、『院を護る侍』のようなもの
その侍の『元』が『鬼と恐れられた豪族』であったとするなら、『鬼龍院』とは『かつての豪族』が『法華経の教え』で『侍』となり『釈迦の教えを護る存在』になった
「臨兵闘者皆陣列在前」
臨む兵、闘う者、皆陣を張って、列をつくって前に立つ
「いざ!陣上に!推してまいる!!」
だから『侍』という漢字は『人が寺の前』にいる『門番』
ある意味で『寺の教えを護る仏兵』とも言えるがそれは『文武両道』でもある
釈迦の教えを『心構えの精神』に据え侍としての『腕を磨く鍛錬』を怠らない
心を鍛える『鹿王院』という『登龍門』
それは自然な流れの『鬼→龍→仏』
そりゃ世の中を都合よく支配してやろうと『侵略してきた渡来人や宣教師』にとっては、『存在してるだけで目障り』な話
そんな『北の人(蝦夷・釈迦院)の言う行為(釈迦の教え)』をする『背信行為は裏切り者の異端者』と弾圧するのも…
やれやれ(´-ω-)ほっとけよ
『廃仏鬼釈』の対象として『蝦夷討伐をしようとした理由』がそこにあると言える
つまり『鬼龍』は『院(in)釈迦(仏)』になる為の『登龍門』
そう考えると…不思議だ
思議にあらずだ=考えるのではなく『感じる』
私は・・いつから『鬼と龍』に導かれて『釈迦の話』をしているのだ(笑)
始まりは多分、『夢と神社』・・ほぼ同時のタイミングか・・いや独自に取り組み出した『呼吸瞑想が釈迦の呼吸』と感じた事か…
『無意識に釈迦の呼吸』をしていた?(´-`)oOという感覚から、釈迦についてのサンスクリットの説法を説く日本語ペラペラのスマナサーラ長老の話を耳に入れるようになった
スマナサーラ長老は、スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)の長老で、1945年生まれです。13歳で出家し、スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学を学びました。1980年に来日し、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事
釈迦の教えは今のように『くどくど(功徳功徳)』してなくて、とてもシンプルに言う…あまりにも『単純』だから
『なぜそうなる?』を複雑に考え初めて、あーだこーだと想いを巡らせ時代を飛び越え『般若波羅蜜多 時照見=現代に相似する物事』の見え方に当てはめて
「あーそいう(祖云う)事か」(´-ω-)と一旦『難しく肉付けして想像』して考えて見ると、その想像の『偶像』を取り除けばシンプルな『釈迦の言葉の軸』に戻ってくるという
『難が有る=難癖つけられる』から『有難い』と『気づきの役目(間違い)』に感謝と納悳に至る
納悳すると『心に素直に受け止めてる』から、忘れる所かそれを『説明』する為に道から外れない『例え話がいくらでも想像して創造出来る』ようになる
『問題にめぐり逢い解決に至る』道筋を
『自力で想像』して『創造出来る釈迦力』を得る
↑↑↑…の段階にくる過程で
夢の中の『精神世界のレッスン』という感じる体験が増えてきた時、『夢のメカニズム』を追って『意識が別世界』に行く入口が『鬼門』だと感じた
そしてその「鬼門を通ったのだろう…」と『後から実感』を得たのは、現実で抱えた『過去のトラウマ体験』を、夢の中で問題に向き合い『自力でクリアするまで悪夢に魘された』から
想像してみればいい・・。『現実で二度と遭遇しない』はずの『一過性で終わったはずの思い出したくないあのシーンの臨場感』が『フルダイブ8KVRのように明晰夢でシチュエーションを変えて繰り返す地獄』を
鬼か悪魔の仕業か!…
と『他人のせい』にして『逃げ続ける精神』を叩き直し、『四面楚歌な袋小路』に追い込まれ、精神が崩壊して『自殺』か『殺人』に至るか否か?のギリギリの瀬戸際で『窮鼠猫を噛む反撃』に出る!!
という意志に至る『覚悟』は、その当時、「ワクチンを打たない奴は非国民だ!」という『任意』という名の『踏み絵の同調圧力』があった時
自然界の『未知の病気』に『免疫』が負けて死ぬか?
人工的に造られた『治験の実験薬品で副作用に苛まれる』か?
ここで私は『現実の問題』に覚悟を決めた
『難題』を受け入れ『克服』してやろうと
文字通り、『命をかける選択』をした
『正解(正法)がないヒトデナシの狂った社会に迎合』するくらいなら『人である心を持って死を受け入れよう』と
ただ死ぬは『やるだけやった後の結果』であり、そう『ならない為のできる限り』をやろうと
「天命を待つのは人事を尽くした先にある事だ!」(๑•̀ㅂ•́)و✧と気持ちが楽になった
あの時、私は確実に『ルシファー』という意志を感じた
その結果、現実での行動は、『食生活や生活習慣』の変化、『体』も鍛え、『免疫力を高める知識を実践』して…
この辺りから『炎帝や神農』など、自らの体に『毒素を入れて最適な漢方を処方する』という『薬師という存在の生き様に意識』を向けるようになった結果
夢の中に『問題をフィードバックして再現』し、それを夢の中で『解決策となる行動指針』を見つけるという作業をするようになっていった
心の奥にある『恐れる存在の見え方』が変わっていった結果…夢見の『メタファー』が変わっていった
夢の見え方は『その人の思い込み』によって『何層ものフィルタ』がかかっている
第一階層は『共通認知の事象』の反映。だから『有名なものや流行りのもの』など、多くの人が『同じように知識として共有している見え方=集合的無意識』になり
それが心理学のフロイトの『夢診断のシンボル的な読み解き方』になるから、『当たらずとも遠からず』になるが…それは『与えられた知識(プロパガンダ)による洗脳』でもある
この時点で信仰宗教への依存度が高ければ高いほど、『神という存在』を『正しく見る』という審神者(神官)はできない
ここで『ある格言』が『一層目のフィルタから目を覚ます』きっかけになる
幽霊の正体枯尾花
恐れているものとじっくり向き合って見れば、それは実は『たいした事はないもの』だったと気づく意味
これは私の感覚で言えば、『相手の立場になって考える』という事
例えば会社や組織で上司に嫌がらせのような『パワハラを受けた事がトラウマ』になった場合
『そこまで追い込む人間』は『どういう心理状態』なのか?その立場や発言の『裏側』に意識を向ける
例えば平社員が係長や課長に怒鳴られたとしても、それは『物事の一面』に過ぎず、係長や課長は『部長や専務』に『怒鳴られたり土下座して謝っていたり』と
『中間管理職』という『立場と責任』は「自分が被害者だ…」と組織の事を何も知らない末端が『悲劇のヒロイン』気取ってるレベルでは気づかない
恐れていた『存在(上司)』は『枯尾花』(板挟みで苦しい立場)
そういう『物事の側面の捉え方』が出来るようになった時、夢の中の私は『ミスをしない=相手の求める事をこなす』=『怒られない&上司もストレスない』→『穏やかな一面』を見る
=やっと『悪夢から解放』される
『心が大きくなった』から『余裕』になったのか
『トラウマを克服』した事で『心が広く』なったのか
わからないけども、『わかった』事は
物事は『一面』だけでなく『側面』、『多面的に見る』と張りぼての『建前』で隠したつもりの『本音がだだ漏れの一面』が見えてくる
『願望』と『問題』
願望は『良い一面』
問題は『悪い一面』
でも悪い一面の問題でも、もっと『掘り下げて』向き合えば、もしかしたらまた『良い一面を見つける事』もできるかもしれない
…という『探究』というのは言い換えれば『意識して観測する監視』でもあり、どんな問題やトラブルが出てきても『それと向き合い解決する』という
『釈迦の心構え』を持ち監視して、「来るならこいや!」と臨む兵、闘う者、皆陣を張って、列をつくって前に立つ『鬼』になっている
自我に『鬼が心に隠した悪夢』を見せて追い込んでくる・・その『鬼の試練を克服』してやろうと取り組んで行くうちに、気がつけば『釈迦力に鬼』になって鬼に立ち向かうようになる
この『自力で問題を克服する流れ』に気づいた頃、まるで『流れとは龍である』と意識の観測が向いた先に…
『龍神』が『釈迦の説法』に感銘を受けて『法華経を守護する龍である』という『法華経』に出逢う事になった
…と言っても出逢った時にはもうほとんど『下地』ができていて、私がトラウマや現実の問題を克服する過程で
『先人達の格言やことわざがマインドセット』されていたが、その多くは『釈迦由来』のものだったと知る
というより『釈迦=問題にめぐり逢い解決する』という意味なので、ことわざや格言とは、『問題にめぐり逢い解決した先人達が遺した釈迦(言霊)そのもの』だから
私は幼少の頃から『ことわざや四字熟語の格言が大好き』で色々覚えていた『弥勒』
弥勒は『あまねく全てを自己表現して記録する』という意味
体験や体感を『素直に表現していた明るい少年(突き抜けた個性)』だったが、『集団生活の衆生の中』でそんな素直な自分を押し殺して生きていた『同調圧力の社会の中』ではそれに気づく事も出来なかった
『自己表現』をしなくなったら『弥勒』ではない
ただの『莫迦の教科書のひとつ覚えの門下生』である
莫迦とは『拒絶・否定に巡り逢う』という意味
あるいは『釈迦に巡りわない・否定する』
『一切皆苦』という『一の立場』になった時
『釈迦(先人達)』を『貶めて莫迦(否定)にしている社会』だと気づいた
「そこに学びはない…」という『夢の診断メッセージ』が増えてきた頃に思ったのは、『そっちじゃない方向』へと『大きな流れ』が、私に『ワクワクする未知の知識』を運んでくる
まるで『龍の背に乗っている』ように、『気になった先人達(哲学者)の言葉』から、『その人の生き様』へのシンクロニシティ、まるで『宿した』ように『心がワクワクがする事』が増えた時
これが『憧れる』という事だと感じた
現実の憧れるとは、その人のようになりたいと『姿形、言動や行動の形の真似』をするが
私の憧れるとは『心が童』になる
心に素直に先祖を受け入れる、あるいは心が立つ里
=『意識』が『立った里』を巡る=『ルーツを辿る』
その言葉は…『どうやって』生まれたのか?『見た目は結果』に過ぎない
私はその因果の『因』に『心』を巡らせる事で、『先の道引き』に『恩』を感じつつ
その人の奇跡(軌跡)を辿りながら、その人が『選べなかった選択の先』へ行く
これは『トラウマ解消の夢』で学んだ事であり『終わったパターン』を覚えて『それを回避』する
そのためによく教えを守り、そして教えとの『間』違いに気づいて破って離れる=『守破離』
始まりは『門下生』だけど
終わりは『門外漢』として出ていく
この『門の中』を『渦の回転』だとするなら
その『渦の流れ』こそ『龍』になって『登る力』
ここまでが私にとっては『鬼龍=気流・気運』
『鬼門』と向き合い『鬼の試練』を克服し
『門の向こう』の『渦の力』で『自ら龍』になる
そんな世界に『in』させてくれる『院』
自然の中にある鹿王院、釈迦院という『風土』の地
『鬼も龍も仏』もワンセットな『艮の金神の地』
さてさて…ここでふとある『人物』が頭に浮かんだ
鬼龍院翔=ゴールデンボンバー
私が感じた『鬼龍院』が『艮の金神』だとしたら
『金爆=ゴールデンボンバー』というのも不思議な一致
一時期、『ゴールデンボンバー』にハマって過去曲を全部聞いて、MV見て、その一人一人の活動を追った事がある
『鬼龍院翔』という人物像はまさに『生き仏』
『争い』を好まず『人の弱さや痛み』を背負いつつ『弱者救済の歌』と『笑いと楽しみ』を提供し続ける
例えばこんな曲もコロナ禍に生まれている
修羅、自問自答、上でも下でもない
上の神でも下の修羅でもなく人の間
人形(空っぽの器)でもロボット(命令通りに動く)でもない
釈迦でも豚でもない
人間だと『連呼する音』がその「立場から逃げんな!」という自問自答の葛藤にも聞こえる
『人を救う』前にまず『自分を奮い立たせる』という意志と自己表現
釈迦を『悟って何もしないで放っておく立場』と捉えているのか
豚を『家畜=飼われている畜生』と捉えているのか
数々の『仏法用語』を散りばめながら『表現の中で否定』しているのが面白い
『認知のフィルタ(与えられた意味の盲信)』で物事の捉え方は違って見えるように
釈迦は『何もしてくれない』から『自力で解決する』という『意志が釈迦』であると気づいてない
気づいてなくても『豚』はそうするのだ
なぜなら、豚とは月の豕(いのしし)=『月の意の志士』=月従う意思
また豚の『音の響き』は『仏陀(悟った者)』でもある
つまり、『神も仏も』いない末法の世でも『人間』として『自力で問題を解決』する
=『釈迦』となる事を忘れるなと上がって下がってのうねりの中で増幅する強いメッセージ
と、これで『法華経を無自覚』だとしたら・・『天然慈石(素直)の弥勒』として色々と『先祖(釈迦)』を宿してんだろうと思う
『名は体を現している』
こういう『相似』を見つけると、その人が…というより、その『名に乗る』という『宿す事』で『自然と生き様が似る』のだとしたら
『仏鬼釈=鬼龍in登龍門』を通ると自然に廃され隠された『艮の金神へと意識が繋がる』のだろう
そしてこう考える人は・・『世界で私一人』だと思うポイント
婆伽梵(ばかぼん)
サンスクリット語の「Bhagavan(バガヴァーン)」を漢訳したもので、「お釈迦様」や「仏」という意味
金院梵婆(ゴールドinぼんば)
言葉は面白い、『音の響き』がグループの『生き様』になっている
…で、タイトルの『拘束道路』ですが・・
一切皆苦として、『一の意志を悟る事』で一気に『意識が高いステージに進む』という意味では、下道から外れた『高速道路』
『皆(衆生)が下道(したみち)を行って苦しむ』とは「こっちに『優良道路』があるよ?」と言っても「みんなそっちに行ったら間違いだって言うから行かない」と言うようなもので
そりゃ、『一人で高速走る=空いてる』からどんどん進む
夢の中で私は・・『水陸両用車』で道を外れて、『海を抜けて全く違う世界』に到達し、そこにはすいすいゲートを抜ける『違う道』があった事
また『原付の仮免』で『高速道路』を走ってた事もある(それは後に水陸両用スーパーカーやバイクと変わっていった)
もちろんこれは・・夢の階層のフィルタの見え方の認知が、私が『無知蒙昧』だから、『想像力と表現力が乏しかった』からこのような
「まるで・・~のような?」という『メタファー』だろう
道なき『未知を進む』という事への『ワクワクと不安』
『安心して走れる道』だけど、焦らず急がず速度は出さないで『マイペース』
・・しかし、その道は『目的地まで下道に降りられない』…という意味では
『拘束道路』
(・ω・)c<´ロ`)ノ>⊂(´・ω・`)止まるんじゃねーぞ?
ま、そんなわけで『漢字』というのは、『物事の捉え方・見え方』でとても様々な『多様性の表現』が隠されている
鬼龍院
『鬼門』を開き『奈落の瀧』に落ち
『自力で自ら龍』となり這い上り昇って『空を翔』
それ(・ω・)c<´ロ`)ノ緊縛>⊂(´・ω・`)金爆
私は偶然か必然か、『鬼の地』に生まれ、『龍神伝説』も多く、『月夜見の先読みの知恵』と問題に巡りあっても自力で解決する『釈迦の名がある地の風土』に生まれ
生まれた場所に『八大龍王と白龍龍神の祠』があって『子供の頃』からそこに『縁』があって…という『人生長いスパン』で見れば
必然的に『妙見狸の訳詞如来』という『謎の襲名』に納悳している不思議
この名は考えてつけたものではなく、ある時から『急に自分で言い出した』
襲名って『名を継ぐ表現』も面白く、『龍の衣の名=流れを継ぐ』って事だから
このブログでずっと書いてきた『独自体験の記録』とはまさに『弥勒(自己表現)』が『釈迦(問題にめぐり逢い解決)』になるまでの道筋
『鬼龍』を通って『龍になった意識』が『気流』になって『何処か』に伝わる
それが
一二三四五間割て(1〜5次元・階層)
巡る虚や事(偶像・虚像)
逢うの術知れ形裂き(鬼門)
空に諸消せ結えぬ緒を(流れ・龍)
生えつ稲本(釈迦の教え)
=カタカムナ?!
…うーん(´-`)oO今日の鬼龍のキーワードがどこに『着地』するかと思ったら…まさかの『カタカムナ567首』
567(コロナ)の後に『弥勒降誕』
コロナ=君・太陽・王冠・ウイルス
最近での王冠と言えば『ローマ法王』か
『吉』と出るか『凶』と出るか?『両方を自己表現で記録』するのが弥勒…φ(..)メモメモ
そういう意味では多くの人が『問題にめぐり逢い解決』して『釈迦』になる
『宗教という問題』に向き合い
『幽霊の正体枯尾花(ビジネス)』と記録して
『門下生』から『自力』で離れて『門外漢』になる
『羊』が『頭角』を現して『山羊』になって
『羊飼い牧場』から『自然に帰る』という意味では…
日本人は元々『羊』じゃねーからな?
目を覚ませよ『角持った山羊』さんよ?
『柵を壊す』のが『策』じゃねー
柵を『飛び越える』のが『奇策』
問題に向き合い、問題を乗り越える
当たる前=当然の事=『釈迦』なんだよね
それがわからない、わかろうとしない
『莫迦のひとつ覚え=否定する』 なんだよね
なぜ?どうしてと莫迦を見る?→正直者は疑問の鬼となる
自力でやって問題解決するしかない→釈迦
問題ない、ほっとけ→仏
『他力本願』になるな(情報に踊らされるな)
なぜ?なんで?どうして?という心に納悳できない『間違いの押し付け』を鵜呑みしない『鬼』になれ!
自分で『痕跡』を見つけ『自己表現で記録』する『弥勒』になれ
その『結果が釈迦(先人の知恵)』になり、後世の者はその『言葉』を胸に『問題ない→大丈夫』と安心をえる
これが日本から廃されて消されてしまった
『仏鬼釈の精神』である
目を覚ますとは、『これを取り戻す』という事
そのために・・有るけど誰も気づかない『亜空間ドライブ』な鬼の高速道路・・
しかし、降りる道がない『拘束道路』の『呉越同舟の旅』でもある・・
仲の悪い者同士が一所にいる、または共通の目標で協力すること
(・ω・)c<´ロ`)ノ鬼>⊂(´・ω・`)止まるんじゃねーぞ?
鬼の導きは・・まだまだ続く、空海シリーズが終わらない・・to be continued
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