好奇心

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感覚的量子論 49日の不思議 般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)

母は納棺の際に真言宗のお経を唱えてもらった。私はその真言宗のお経が今まで聞いてきた浄土宗や曹洞宗(禅宗)とは違うので、しっかりと一言ずつしっかりと耳に聞き入れた。結果、その翌日から母の声が私の記憶から消えた・・さて、それは何か起因はあるのか?を洞察していこう

般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)

理趣経

真言宗の納棺式では、土砂加持が行われる前に「般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)」が唱えられるのが一般的です。
【真言宗の葬儀で唱えられるお経】般若理趣経(はんにゃりしゅきょう、慈救呪(じくじゅ、陀羅尼(だらに、光明真言、 御宝号(ごほうごう

真言宗の常用経典で、朝晩のお勤めや葬儀、初七日、四十九日、年忌法要、お盆、お彼岸など、あらゆる法事で読誦されます
仏の真実の境地に至る道(理趣)を示すお経で、密教の極意を示すものです

ふむ・・実に興味深い(一人一)

母が亡くなる前(意識が無いで寝たきり)の時
納棺はされたが、お坊さんの予定で一日遅れた時

ここまでは、『母の状況』や『母の声』がしっかりと記憶にあった

精神の母と肉体(代理)の母 決別と旅立ち

感覚的量子論 49日の不思議 死者からの電話の夢

しかし、その翌日、納棺された母の前で真言宗のお坊さんが『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』を唱えた翌日

私は『母の声だけ』が生まれてから今までの全ての思いでのシーンから消えていて、『映像として残っている母の声』を聴いても、「母・・の声?(・・?」というしっくりこない感じがあり

それは、きっと故人の事を家族が『気(思い描くカタチ)』にしない為では?という『業の回収』と『納悳』して『喪失感』で泣くだけ泣いて『氣締め』をつけた

感覚的量子論 49日の不思議 記憶の中の声の喪失と氣締め

その後に氣が巡りだしたのが、『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』についてだった

私は、お坊さんが読み上げる(本見ながらのカンニング)般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)を目閉じ、『吉祥座(右足が上)』で『音の響き』を『カタカムナで翻訳』しながら聞いていた

すると、もっとも多く登場した音の響きは『セイ』や『ゼイ』だった(印象的に残るのは)

例えば、耳学問で記憶にある言葉で言えば

イッサイユウゼイ(何度も繰り返し)

カタカムナの言霊で読み解くと
伝わって自然に集まり、遮る現象が湧き出て生まれ、強く内に引き受ける現象

これを『納棺』という『遺体安置の状況』にあわせて考えると、言霊ロジックとしては

『何かしらの力』が集まって、『遮って棺桶の中に閉じ込める』

そういう『力の流れ』に感じる

言い換えれば

『彷徨う魂を押さえつける』とも言えるし『つなぎ留める』とも言えるし・・なんだか、あまりいいようなイメージを感じない

仮に、これが『原因』で母との繋がりである『肉声の記憶』が、私の中でも『封印された』と仮定する

なぜなら、『故人の魂に聞かせるべきお経』『私の魂』もしっかりと『耳』を傾けてカタカムナで『エネルギーロジック(波動)』に変換して聞いてしまっていたから

そりゃ、『ダイレクトに影響』を受けてもおかしくはない(笑)

でも、こういう捉え方もできる

仏の真実の境地に至る道(理趣)を示すお経で、密教の極意を示すものであるとしたら・・

『母』と『主』を切り離す事で、お互いに気にする『毒』が解かれる『気の毒を解毒する作用』でもある

『主』が『母を気にする』から『毒』に苦しむ
『気』にしなければ、『苦しみ』は無い

仏の真実の境地に至る道(理趣)において、『苦しみ(有る)を気にする』のではなく
『気にする』から『苦しむ(有る)』のだから『ほっとけ(仏)場』にはそれは『無い』

そう思えば、そうなる
色即是空、空即是色

私にとって母の死という『葬儀』もまた『学びの修業の場』
『真言密教』の『念仏に触れる良い機会』だから『有難い事』なのだ(一人一)

イッサイユウゼイ
その漢字は見ていないから、私は『教』は知らん
しかし、カタカムナでは、精神の『気の毒を解毒する』と『納悳』した

とはいえ、49日は故人も遺族も『悲しみと苦しみ』の中
それが傷が癒える『氣締め』がついて『元の生活に戻る』までは『落ち着く時間』が必要

最後に、『名は体』を現す『般若理趣経』を読み取って観よう

はんにゃりしゅをカタカムナで読む

強く引き合う圧力が自然に飽和して離れ示しが自然に湧き出る

すげぇな・・真言もカタカムナも

家族という『現世との強い関係性(圧力)』が、『自然に飽和』して『気の毒』を気にしなくなって離れて、『氣締め』が付いた後に、次なる『示し』が自然に湧き出る

それぞれの生き方・生き様、お役目という生活に向き合うまでの道しるべ

これが『般若理趣』という『名に込められたエネルギー』なのだから、きっと『中身(体)』にはその『心の変化・環境の変化の過程=念仏』が『エネルギーでまとめられた凄い秘密の教え』なのかもしれないね

・・そうか、念仏とは『過程』なのか・・

念=今の心
仏・忌=ほっとけ(気にしない)

『今の心(因)』がいずれ『仏(果)』になる
色即是空、空即是色=そう思えば『因』、そうなる『果」

因果の法則を『二言』で現したのが『念仏』なんだと『納悳』
『観念=今の心を観る』して『心に素直』に『悳』を積む

その果ては『仏・ほとけ』なんだ

ほとけのカタカムナの言霊は
引き離し統合に放出

魂は根源に還る

ヒフミヨイマワリテメグルムナヤコト
アウノスベシレカタチサキソラニモロケセユエヌオヲ
ハエツヰネホン カタカムナ 引き寄せの法則

振動と周波数 氣とカタカムナが繋がるお話

だから『念=今の心』が大事なんだと
『忌中=己の心の中』と向き合ってる時だと『念』押し

信念=『人の言う今の心』ではない
心念=『心を映した今の心』

祈りではなく『意の理』=『意識して理解』する
『理(法則)の趣(おもむき=思う向き)』を知るための教え=般若理趣経

・・と心が感じたままに『悳解釈』
つまり、『体感』無くして『理解』なしの『感じる事』が大事って事だ

カタカムナの信者ではなく感者になる

法華経との縁 空海の筆と八代龍神の夢

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