死という状態を客観で植え付けられた先入観の概念だが、主観で死の側からそれを現した時、生の世界とはどう見えるのか?・・の思考シミュレーションの結論は「僕らは皆死んでいる…かも?」という忘れているor気づかないだけ
究極の結論 『死んでいる』事を『忘れている』
最もシンプルでエレガントでクリティカルでプリミティブな考え方で捉えた時
一番恐ろしいのは
『死んでいる事』を自覚出来ない状態で『一定の経過時間で死んで何も残らない』と教えられ、『それを疑似的に繰り返す事』に気づかない状態
これを書こうかどうか迷った時、久しぶりにワクワクでもハラハラでもドキドキでもない・・シンプルにドクンドクン!と脈打つ『心音』が気になった…まるで『自問自答』するかのように
それこそ、『新しい意識が生まれる事を決めた』ように心音が高鳴るが…続けよう
死生観と解脱と成仏の違和感
ひとつは仏の世界の『極楽と地獄の二元性を説く』が
ひとつは『自力で解脱して成仏』する、『衆生を成仏させる』と説く
これは大乗仏教と上座仏教の『明確な方向性の違い』であり
『皆』に向けるか
『一人』に向けるか
胎蔵界の大日・釈迦(目覚める)と
金剛界の大日・釈迦(眠る)と
『金輪際での領域(空(有無))』と捉えた時
それらは迫る『死(世界の終わり)を恐れた人』が、焦って気にしだして「私は極楽?私は地獄?」と『二元性のトロッコ問題に乗せられる』ようなもの
六道輪廻は『天国』も含まれる
要は『極楽』行っても『地獄』にも行くと一過性
『楽あれば苦あり、苦あれば楽あり』
「ただの堂々巡りだよ」と言ってる『無責任』
『無の為』にそれを『言い続ける責任』とは
そういう『夢の世界』に捉えて眠らせておくため
『苦しむ』という『問題』から逃げ
『楽しみ』ばかり『欲して求める』
『他力本願』に『神・仏と縋り付く信仰が欲しい』なら『そういう眠りの夢』の世界へ
これが「皆救われるから大丈夫」と安心させる『大乗仏教の役目』であり『間』違いである
『間』違いから見れば『無責任』であるが意味は違う
『無の為の自然の責任』だからそれは『必要な空く間=亜空間=悪魔』
『存在しないものに救いを求める』とは結果論的に見れば『被害者』と『救われない事をしている加害者』があって成り立つ世界観
これは前にも魂年齢の特徴でまとめた
言われた事を鵜呑みに盲信する幼年期を利用し、過度に偏った正しさを自己主張して争う若年期の喧嘩が、若年期の『正』+幼年期の『義理』=『正義と正義の宗教戦争』になり
どちらにも『理解』を示し「争うな!」と『中間』に割って入った成人期は、『どちらにも理解されない』事から、『愛しさ余って憎さ百倍の邪』となり、正義と正義の『裏』で「両方滅べ」とコントロールする
これが『苦しむ事を選択する地獄』であり、その中で『存在しないものに救いを求める』のは『金輪際・セト際を見極める成人期の魂』なのだ
ここで『救い』を求め、『預言通り現れた者』がいたとする
その瞬間、成人期の魂も、思い通りに宗教戦争世界をコントロールしていた邪も
「え?アレってマジだったん!?」と『予想外、想定外』を目の当たりにして素直に従う瞬間
成人期・邪→『幼年期(盲信)』からやり直す
『卒業』か?『落第して最初から』か?(留年はない)
人生ゲームの最後のマス目に『振り出しに戻る』と書かれてるようなもの
今日の私の意識が久しぶりに『生』を感じているように『心音のドクンドクン』を感じたのは、この最後のコマに書かれている内容は
『死んでる事を忘れて戻る』だと読み取った
『読んだ』という事は、そこに至ってまた『振り出しから』なんだが、それを『認知してから振り出しに戻る』のは訳が違う
強くてニューゲーム
強くてコンテニュー
これはクロノクロスを参照
始まりに戻った時、「そもそも死んでる所から始まって、ゴールがそれまでの体験を踏まえて生まれる事が目的なんだ!」と気づく
生→死ではなく
『死→生』へと向かう旅
『死中に活を見出す』とはこの事だったのだ
なるほど(´・ω・`)と言う事は、世界の見え方や捉え方が逆転のポールシフト
『ゴールが迫った事=死』と思ってる人、まだ『人生に未練』があって『死にたくない』と焦って神様仏様と『生き延びようと執着』すると
『振り出し』に戻され、『全てを忘れてまた違う人生の輪廻』を『無意識が求めた楽しみ(業)』になるが
それは『死→死(現状維持)』を繰り返す
「私に還りなさい、生まれる前に…(振り出しに戻る)」の魂のルフラン
しかし、その逆
これは『望んだ自分として生まれる』為の『自分自身の理想形成』する為の『死→生へと向かう人生ゲーム』として捉えた時
上座仏教=お釈迦様の教えは「死の先はわからん」と素直に言う
それは『どんな形で生まれる』か、始まりの段階の『因』では『果ては予想』でしかなく、そこに『心』が巡れば『恩の過程で変化』が起きる
死=まだ産まれてない
生=生まれる
つまりは『あなたがどんな存在』に生まれたいか自由意志次第
だから『死の先』はわからない
その死→生へ『望んだ世界』を見せてやろうという釈迦の掌の人生ゲームの『真のルール』
死から生に至るのが『果て』だから
『死生観』と言い、『生死観』とは言わない
『生から死』を語るなら生死観と書くのが筋だ
これもまたカタカムナで読み解くと面白い
しせいかん →示す責任の現象の強い力(因)
せいしかん→責任の現象を示す強い力(果)
しせいは『生まれる前(潜象・心が前)』にあり
せいしは『生まれた後(現象・心構え)』にある
私達は生まれたらいつか死ぬ
その『いつか』をわからないまま生きるという『生まれた責任の現象』を気にしてるが
そもそも「なぜ生まれた?なんの為に?」と『示した現象の責任』=『生まれる前に因』があると気づく事が大事
そういう意味では、『今日の私の意識』が生まれたのはわかりやすい
僕らは皆死んでいる
死んでいるから『苦楽に夢中』
まだ『産まれてない』
に気づく事
これはいくつかの体験や仮説を元に説明しよう
法華経の教え そもそもまだ何も生まれてない
これは以前、法華経に興味と理解を示した時にこちらの記事でまとめているが…当時の私は『まだ何も始まっていない』という意味が理解出来なかった
映画アザーズ 死者の誤認
ニコール・キッドマン主演のホラー映画。女性と子供が『得体の知れない存在』に追い込まれて怯えていくように描かれるが
実はその女性と子供の方が『現実から見たら幽霊』だったというオチが示すのは、『同じ空間』で過ごしているが、『普段は気づいてないだけ』で『ニアミスの接触』がある
これが『ホログラム』のように見えたりする『現象』だが、先にもまとめたように
『死んでる事が当たり前』と、『死んでる事に気づかずに生に執着』すると、『生が始まってなかった』と『死に目覚める』のと
それぞれ『心構えの姿勢』が違うよね
死んでる事が当たり前=『夢の中』
死んでるのに生に執着=夢の中の『現実に夢中』
死んでる事に『気づいた=夢から覚める=成仏』
これはアザーズの映画を見始め見終わる頃の『視聴者の気持ちの変化』であるが…
このネタバレをキイテシマエバ
オマエハコノユメカラサメルノダフハハハ
(〃 ̄ω ̄)σと『夢を壊す事』もできてしまう
あのゾワゾワの脳がひりつく『気づきと認知変化の感動』を『体感』出来ないなんて…損してるわ〜
(〃 ̄ω ̄)σと失った夢を『求める執着を与える事』も出来る
『夢から覚めてる』から夢から夢への『夢の死者・使者・試写』
夢で体験を融合する自分達
先程の『死から生へと生まれるゴール』へ向かう過程で『望む自分を生み出す体験』にコマを進める訳だが…最後は『振り出しに戻る』を何度も繰り返す輪廻転生をしていくと
「このゲームは一人でやるのは効率悪いな(´-`)oO」と気づく
どうせ『振り出しに戻る前提』なら、『大人数でワイワイ楽しく』やった方がいいだろと
多重影分身の術(パラレルワールド)
(一人一) →(´∀`)(´∀`)(´∀`)(´∀`)(´∀`)
『自分(I)』を『自分達(us)』に分けて、それぞれ違う『マス目(VR)』に止まるようにしよう
(๑•̀ㅂ•́)و✧『virus』拡散作戦
…言うは易し行うは難し
( ゚ ρ ゚ )( ゚ ρ ゚ )( ゚ ρ ゚ )( ゚ ρ ゚ )( ゚ ρ ゚ )ボー
疲れも『人数分増える』というのは例えで、『思考シミュレーション』が増えれば増えるほど『未解決の問題が山積み』になる
しかし、その中の『一人でも問題解決』に至れば、それは連鎖的に『問題解決の糸口』を見つけ、パズルのピースが次々とハマるように
夢の体験記憶が
『アレ』をした方がいい
『コレ』に気をつけろ
『姿勢を正す』ようにと伝わってくる
まだ通った事がないはずの『人生ゲームのマス目に書かれてる事』がわかるように、『君子危うきに近寄らず』と『そのマス目(同じ失敗)は避ける』事ができるのは、『ゴール』に至って『一抜けた役目』だから夢の外
『夢の外』からまた『夢中の自分』にこっそりアドバイス|ω◉`)『自分が自分に教える』のは『自力』であってチートやズルではない←ルールの盲点
現実そっくりの霊界
現実とほぼ変わらない、『違和感を探そう』としなければ『ただそこにある現実』と感じてしまう明晰夢は、『望んだ想像が創造』として『意識』か『無意識』で発動する
この明晰夢という空間が実は『霊界』だったら、『思い込んでいる概念』がずっとそれを『無意識に想像して創造した世界を投影』し続ける
『現実に夢中』になっている限り、それは『無自覚』の『無意識に発動』している常識や概念を反映した『思い込みの明晰夢』であると言える
霊界=死んでいる=まだ生まれてない
『生まれる先』の可能性=『観たい世界』を見れる=天国も地獄も現実も投影
それはまさに夢のような…夢のような…としか『表現』出来ないが…
その『仕組み』に気づく=『自覚』する
『無自覚』ではなく、『無(夢)を自覚』したから、無の為に『必要な夢(理想)』と『不要な夢(概念)』を見極め手放す事ができる
それが『霊界という役目』なのではと考えると『霊界学校』の役目はまさにそれを
『夢で説く事』であり『夢を解く事』
『夢を壊す』のではなく『夢の終わり(目覚め)』を促す
望みが具現化したようなブームの繰り返し
最近の兆候として、『〇〇リメイク・リマスター・リバース』という『懐古ブーム』が起きる流れ。これは何の業界でも定期的に起きる『ループ』と言われるが、それこそまさに『違和感の正体』
創造クオリティの『低下=無能』
人の『アイデアを模倣・真似する』
人が生み出したものを『流用』する
『新しいを生み出す』のではなく『既存のものを再利用』する
『物を大切にする』と言えば聞こえはいいが
『新しいを生み出せない』のは話が違う
『創造力の欠如』は『想像力の欠如』
自発的な思考の『個性』を『無個性』に推進し『思考停止の他力本願』に仕向けておけば、何度繰り返しても『わかりゃしない』と支配者が『人々を馬鹿にする流れ』しか生まない
出口のない『流れが止まった沼は澱む』ように『新しい流れや風』が生まれない空間は、得てして『リバーステクノロジー』を行う
『終わった事をほじくり返す』=オワコン法則
簡単に言えば世界は『行き詰まった』
『人類滅亡時計』も残り数分だっけ?
行き詰まらせた張本人は『逃げの一手』でちゃぶ台返しのグレートリセット ナカッタコトニ(ノ`Д´)ノ彡┻━┻
そんな『馬鹿と同じ精神の次元』には『付き合いきれないと自覚する事』が『目覚め』であり、それが『無自覚』に『無の為を自覚する』という事
ああいう馬鹿を見て『金輪際関わらないようにする』という『見極め』をする為に『心に正直になった』のだと自覚すれば
『リメイク・リマスター・延命』など、それは単に『向上心と想像力の枯渇』に過ぎない
そんな悪夢に『先』は無い
見ても面白くないからさっさと『目覚めて』『別の夢』に切り替えて行こう(๑•̀ㅂ•́)و✧
古代種と呼ばれた夢
私は以前、『既に存在しない星の一部の意識』をサルベージされた『古代種として再生』されるという夢を見た
既に『カタチとして存在しない状態』でも、『意識の断片をデータ化』してサルベージされる事で『違う体』で『違う場所に至る』という夢もまた…
自由に『想像を創造』する事ができる
『思考シミュレーション』が生み出した
『死→生(復元)』のひとつの可能性
まとめ 死とは『生まれてない』状態
私の中で
死=師・志
無=夢・務
死は『恐れるもの』ではなく先に行った『師の志』と向き合う『師合わせ』な事
これは『夢を通して行った世界を死後』として捉えていたから『先祖供養』で先の祖を人と共に養う過程の『恩で見せる』という務め
『師』と『弟子』が出逢い、弟子はいずれ『師』になる
因果の間に『心』を巡らせる『恩師』に感謝する
『無=空間』であり『全ての可能性』がある
その可能性を『一つに意識して観測』するのが『現実』
現実は『可能性の一つ』なのかもしれない
無とはその『可能性を見せてくれる空間』であり
無の為に『それを自然に伝える恩師』がいる
『無(夢・務)』を与えてくれた無為自然の『恩師に感謝』する頃には、その『恩師の役目』に共感し『師・志』に至る
自覚して『目覚めた先の景色』は…
どっちが『現実の見え方』だったのか
人間の『エンジニア姿の作業員』
『見えないケーブルを修理』する感情のないロボット
生まれるを助ける『孵化師』と『法具師に』なると決める進路選択の夢
全部、『霊界=生まれてない頃の選択』だとするなら、『この現実』は…って書こうとしたら自然に笑いが込み上げた
フフフ(´^∀^`)フフフ… Σ(゚д゚;)
一人でじっくり静かに物事をまとめたい『プライベート仮想現実の夢』なんだろう
私は別の夢の中でも、『プライベートな部屋が欲しいと要望』していたのは、やはり『物思いにふける』のが好きなんだろう
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