過去の夢体験を遡りながら、夢の中では恐怖はないのに、なぜ現実では死は無意識に恐れるのか?を哲学してみたら・・それは『元々無い所有欲が原因』だったのでは?、そしてなぜ胎蔵界と金剛界に『釈迦が二人』いるのか気づくお話
死の恐怖ってなんだろう?
生まれたばかりの人間は『肉体の痛み』を知らない
だから、『火に直接手を触れる』など怖さがない
体験をして『痛み』というものを理解して
それをしたら『痛み=嫌な気持ち』になると実感して姿勢を改める
物心がつく年齢になると
『思い通りにならない』という葛藤から『苦しみ』を体験する
赤ん坊の時は『泣いて意思表示』をすれば周りが思い通りに動いたのに
『言葉』を覚え動き出すと言葉で『コミュニケーション』がとれないと
気持ちが伝わらずに苦しむ
伝えたくても『うまく言葉にできない葛藤』に苦しむ
この痛みや苦しみが『悲しみ=内向き』になる
その苦しみを少しでも軽くするようにコミュニケーションという方法を学習する
そうやって・・痛みも苦しみも『克服を試みる過程』で『楽しみも喜び』も体験していく
喜び楽しみを増やそうと『外交的にコミュニケーション』をとって『気持ちが明るく』なると
必然的に『痛みや苦しみを寛容』し、『その先』にある『さらなる喜びや楽しみ』に向かうが
痛みや苦しみで内向的になりコミュニケーションをとらないで
『悲しみ』に囚われてしまうと、『その先にある楽しみや喜び』を得る事ができない
子供の頃、学校、集団生活の中では、これら外向的な子と内向的な子が
『一緒にいる事』で思いが伝わらない『悲しみの向こう側に導く機会』がたくさんあった
誰が優れているとか、誰が凄いとかではなく
それぞれ『十人十色』で自由に『気持ち』を吐き出せば伝わる
と、『気持ちの体現化』によって『個性という自我』が形成されていく
その『環境』が変わっても『根源の自分』という『心の葛藤』は続き
やがて一人の人間という『自分』になる
その受け皿が『社会という環境』の為
人は『社会の為に生きる役目=職の業を選択』するが・・
『元来の人』とは、そうではない
生まれた時に、うまく『言葉にできなかった意志』
心の葛藤の部分を表に現す=『表現の自由』ができるようになった時
やりたい事をやればいい=『自由意志』
ここから『真の人としての人生』が始まる
これは人によって『自覚する年齢』は違うだろうが・・
大半の人は『社会的な職の業の役目』が終わって
『第二の人生』という『定年=定めた年』を終えてから気づく事が多い
年老いて『やりたい事が明確』になっても
『できる事が限られている』という不自由な心の葛藤
「ああしたい!こうしたい!」という『気持ち』があっても
周りの社会との『ジェネレーションギャップ』でコミュニケーションが取れない
それはまるで子供の頃に『親にわがまま言った頃』のように
それはまるで赤ん坊の頃に『泣いて意志表示』したように
『気持ち』が伝わらないから『内向きの悲しみ』になっていく
せっかく手に入れた『生を失う事』を怯える老後
『所有欲』が無かった頃の赤ん坊とは違い
今度は手に入れた『所有物』が次々と『失われていく喪失感』がある
コミュニケーションして繋がった『友達』が消えていく
0→1→100→1000 に増やしたものが
1000→100→1→0 に無くなっていく
暑さ寒さという『体感にも鈍く』なり
喜怒哀楽の『感情すらも薄く』なり
どんどん内向きに狭くなっていく『閉塞感』
これが『死の恐怖』だと感じた
そういう意味では『生病老死』・・ではなく
生病老『視』=生きる事は病に怯える事を『視る』、老いる事に怯える事を『視る』
『不安ばかりを視る』から、そういう『死=終わり』が見えていて
「終わりたくない!」と『所有した生を喪失する事』から『逃げる欲へ執着』する
だから、死=終わりが『潜在的に怖い』のだろう
潜在意識と輪廻転生の観点からみれば
『死を恐れている』のは『先在意識=先入観』と言える
終わってしまう事を避ける=『生きる事に執着』する意志
だから『潜在意識の死生観』を切り替える『姿勢感』が必要なのだ
『切り』『変える』←『大切』な事
ここに『上部座仏教(初期仏教)』と『大乗仏教』の違いがある
大乗仏教は『皆(人の為=偽)』であり
「皆そうなんだよ・・」と『諦め=観念』する事に『帰依』を促す
しかし、その過程で「少しでも善くなるように」と
『方向を示す』のは間違ってはいないが『救い』ではない
それは他へ他へと『他力本願』させる事であり
「自力でなんとかしよう」とする『釈迦力』から遠ざけている
それを『なあなあ』と延々と繰り返した所で『堂々巡り』
あっちの仏に祈願しては、こっちの仏へ祈願してと忙しい(心亡い)役目=Business
『大日・釈迦』を語りながら『金輪=金を回す歯車』
『名』に乗って『背乗り』して金を儲けてる=『金信者』
だけど、これは『詐欺と同じ手口』で『気づけば引っかからない』ように
『金輪際の見極め』という言葉もある
「金輪際の見極め」という言葉は、通常、物事の最終的な結論や限界、あるいは物事の真相を徹底的に見極めることを意味します。仏教用語に由来し、文字通りには「金輪(大地を支える輪)の底」を指しますが、転じて物事の極限や底まで見極めることを表すようになりました
ここが『今は・・』の『際』だぞ?
『今だけ金だけ自分だけ』の際
それが全てと物事の極限や底を見極め『足るを知る事』で
『それではない世界』=『人の為(偽)に与えられた死生観』が変わる
そして大乗仏教という『皆を救うという概念』から離れた所に在るのが『上部座仏教(初期仏教)』
『自己』と向き合い『自ら己の苦を労い』、『全ての苦労に感謝』して『手放す道』へ
『孤高』の旅へと至る
潜在(先在)意識の救世主は『心に素直』になる事
はじまりの赤ん坊の時は『意志疎通』はできないが
何をしたいかの『意志表示』はできた
つまり『心』は最初から在った
その心が素直に意志を示したが、それは『思い通り』にならなかった
理由は簡単で、素直な意志表示を『諦めた』から
表現したい事=『表に現したい事(真)』が伝わらないから
『人の為』という『偽の環境に適応する術』を身につけた
『空気』を読む力=『有無』の『可能性の選択』
こうすれば、こうなるが・・これが『叶えられない』
あれをすれば、これは無理だが・・これは『可能』
『取捨選択』によって『自己犠牲』を伴う過程で
『真心』はだんだんと『裏切られてすり減って』行き・・
そのうち『犠牲にする自己』という『心が亡く』なって
ただ『忙しい』役目=Businessの『職業に囚われる』ようになる
『心亡いもの』は、『宿業』を見失い、『金を回す事』に抵抗が無くなり
『他力(他人)』を利用して『自我(エゴ)を達成』する
『他力本願を自力』と『思い込む=重いコミット(契約)』するようになり
その『成功モデル』を『社会的ビジネス』として『教えを世界に蔓延』させていく
『ナショナリズム』が『胎蔵界の釈迦(夢)』ならば
『グローバリズム』は『金剛界の金輪(現実)』であり
それらは『相いれない際』がある
・・という『物事の見極め』がついた者は
それらがあって『今はの際に至る事が出来た』と『感謝』して
不要な概念の『金輪際』を見極め『関係(奸計= わるだくみ。 邪悪なはかりごと。 悪計。 奸謀)』を切り離す
これは体の細胞の仕組みでいう所の『細胞の切り離し』である
『ウイルスに浸蝕』されてしまい、自浄作用で『自己消滅(アポトーシス)』できない場合
その『汚染された細胞事』切り離す『痛みを伴う最終手段』
これはわかりやすい例でいえば『ノロウイルス』
『体が毒素を分解できない』と判断した時、『嘔吐や下痢などの症状』が起きるのは
善も悪も中立(邪)もひっくるめて、その『炎症した環境ごと外に放出』する
症状を『発生させた部位』が中に無くなれば、『自浄作用と自己治癒』が起きる
これが『金輪際の見極め』で『仏陀切る』という『大切』な事であり
『自己を労わる=禁忌=とどめる己の心』という事でもある
これを今はの際の『現実』に当ててはめれば
外資受け入れ(グローバリズム)→外国人の移民→環境破壊→文化破壊→資源の汚染→癌
日本は癌に侵され、『病の品山=発生源』となり、それを受け入れ続ける限り
『癌悪液質』=『日本人というたんぱく質を分解』し続け『骨転移=痛みを伴う』ようになる
末期癌の患者に支給されるのは『フェンタニル』って知ってたか?
末期癌におけるフェンタニルは、主に激しい痛みの緩和に使用される医療用麻薬です。特に、腎機能が低下している患者や、モルヒネなどの他のオピオイドが使いにくい場合に、フェンタニルが選択されることがあります。また、呼吸困難に対しても、適応外使用としてフェンタニルが用いられることがあります
世界では『切り離す動き』になっているのに日本の医療は『ズブズブ』だぞ?(救う気はない)
『骨髄(政府・経済・医療)』を全部入れ替えないと『自浄』できない『免疫不全状態』
とはいえ、入れ替える『ドナー政府』が『民意』ではなく『外資』で持ち込まれたら本末転倒
・・と、これが『胎蔵界』が見限って『仏陀切った』金剛界の今(現実)
これも『数ある可能性』から『その業を選択』した『業を修める=修業』という学びとして『必要な世界』なのだが
それを『無(務=役目・夢=可能性の現実)』とするのが
『無為自然』という『無に関わらない選択』の先
だから『金剛界の現実』とは『胎蔵界』からみれぱ
『選択しなかったひとつの現実』として『夢物語』となる
金剛界からすれば『金が必要無い世界=理想の綺麗事=夢』だと思うだろう
だが胎蔵界から見ても、そういう『金ウイルスに侵されて炎症した細胞世界の一つ』という
胎蔵界の釈迦の三千世界においては『細胞のひとつの中』で起きている
『儚い人の夢の間』と同じ事
この観点は、『金信者の現実』において『生という所有に執着』している
手に入れた『現物が夢散』して『喪失する事を恐れる死』の先にある『始まり』
『与えられた死の概念』は、『奪われる事・失う事』を恐れるが
『授かった生』における死の概念は『宿した業を達成する事』を楽しむ
これは『コップの水の残りをどう捉えるか?』という哲学とも似ている
「もう残り半分か・・」
「まだ半分もあるのか!」
これは現実的な『物理的な量の制限』を元にするがそれは『加減』である
言い換えれば、『言い加減』である=適当
『この世界』という『人の間の儚い時限』を『一つの細胞の可能性』として捉える観点では
生まれる前=『生』すら『所有していない意識に戻る』だけ
コップの水は減らない=『不増不減』
だから、減る減らないという『量』は重要ではない
『味』が気に入ったら『飲み続ける』し
少しで『満腹』になって『満足』したら最後まで飲む事もない
味が『気に入らなかったら』どれだけ残っていも『飲むのを止める』ように
『宿す業』とは、『夢の体験』のように『心に素直』になれば簡単な事
それ『以上』もないし、それ『以下』もない
それは例えるなら・・こんな事はないだろうか?
昔、AVビデオをレンタルした時、『抜き所』だけ繰り返しみる
AV製作者がどれだけ『ドラマや構成』にこだわっても『早送り』で飛ばす
これこそまさに『儚い自我(エゴ)を満たす』という『業を修める修業』の縮図
『修業(射精)』が終われば満足した後に『賢者タイム』になるだろう?
「・・俺は・・何をしていたんだ・・」と自己反省する
結果が『自慰=自らを慰める』である
でもしばらくしてムラムラと『欲』が出てくれば同じ繰り返し(莫迦のひとつ覚え)
『精子=生死』ってそんなもんよ(笑)
でも本来の精子の役目は、『精神を宿した子』を『子宮に着床』させて『命を宿す事』でしょ?
『命題』となる『名=使命』を与えて、体(生まれる業)を与える事
『遺伝』にその『精神が宿る』から、『子は親に似る』(見た目も行動も)
それは『細胞がDNA核をコピーして再生』する事=『意志を継ぐ』と同じ事
が、現実では精子で『子の生死』を生み出すと『親という職業』を担う事になる
昔は『異なる性質=異性』を『心』が求めて『結ばれた子』が多かったから
それぞれ異質な親の意志を『ひとつに託す=一子相伝』という『師弟関係が明確』だったが・・
今、『肉欲』という『肉体(ルッキズム)』という『社会的概念』で
『一時の性な現実を見て
「損な現実(可能性)に生まれたくないなぁ・・」が多数派だと私は感じる
少なくとも『今の私の意識』が『今の日本に生まれたいか?』と選べるなら
『生まれない選択』を選ぶ
だから、この現実では『間違った欲』を『根底』から手放さない限り
子は生まれても『日本人としての精神を宿した子』は生まれない
逆に言えば、日本人の精神(和心)を宿した子(人種問わず)は『別の現実』に『大量に生まれている』と思う
実際に私は『そういう夢』を見てきている
ある時の私は夢の中で大地震を経験したが、その地震の最中に、部屋ごと違う空間に列車で運ばれ、ついた先に『大量の子供がいる景色』を見た
偶然にも、この記事でも『死生観』に触れていた(笑)やっぱ死を体験すれば変わる
だからこそ、『死』というものに囚われないで
『宿した業=心に素直』に為すべきを成すだけ
心に素直=『自己を労わる事』であり
人の為=『偽の情報』に影響を受けるほど・・
情報=『心』の『主』と『月』の『幸せ』に『反』する
『月』とは『人体の臓器』につけられた『名』であり
『生』を持って『目的を成す』為に『授かった体』である
その体を労わる事をそっちのけで『自己犠牲』して『我慢』で『心』を苦しめ
人の為に「思いやりを!」と『重いヤリ=注射』を薦める『情報』で
『ムーンショット=月(臓器)に打つ』という『主の月への裏切り』
「心はやりたくない!」と『悲鳴』を上げても「善いものだから!」「皆やってるから!」と
「大丈夫、大丈夫!(無責任)」・・と軽はずみに『釈迦(問題解決)』を進めてきた結果
それを推進した『利権=金信者の詐欺』の『掌の上』で踊らされた『大乗仏教信者達(多くの日本人)』
一切皆苦=『全ての皆が苦しむ』
日本人は『無宗教』といいながら、どこかに「大丈夫」という『信仰』がある
この『大丈夫=釈迦』にも『二通り』があるのだと
『真言密教』は伝えているが、密教は『異端』・・と言い張り『聞く耳持たない者達』は
胎蔵界の大日・釈迦
金剛界の大日・釈迦
・・の後ろに『金輪』とつく事すら知らないし
知ってても、金輪を『違う意味で広めている住職』もいるが
金輪際の見極めという『言葉が存在』している事が重要で
そこが『他力本願』か?『自力の釈迦力』か?
『初期仏教』と『大乗仏教』の『際』である
一言に『大丈夫』と言っても
『自力を後押し』する大丈夫と
『任せておけば』大丈夫と
二つある
『孤高』とは『自由意志で自己表現』する『真理の探究者』であるが故に『釈迦』という『存在の意味』を『解釈』しようとする
『解く釈』とは、『釈迦の役目を自力で解放』する事=『問題ない=大丈夫にする事』だと私は感じる
一方で『任せる』とは、選択権、実行兼、生殺与奪の『あらゆる権限』を与え
『己』という『自由意志』を『自ら放棄させる事』だと感じた結果・・
『二つの釈迦』は『真逆に進む』からこそ相いれない
さながら、『釈迦の説法の前』に『弟子が陽動する』ようなものだが・・
と書いてて、私はこの『逸話』には『違和感』を感じた・・
『釈迦の言う事だから聞く』という弟子たちは
『興味のある事で誘惑する』とはいえ『釈迦の弟子の言う事を素直に聞く』だろうか?
私はここに『釈迦』がなぜ『二つ存在』するのかの『答え』があると『解釈』した
陽動する為に『弟子を誘惑した弟子』とは・・
『釈迦の姿・行動』を瓜二つに『完璧に模倣した釈迦の姿で陽動』したんだ
仏教的言えば、阿羅漢(仏に仕える応具)
つまりは『コピー・クローン』
・・そういえば思い出した、弥勒=マイトレーヤのアナグラムは
Maitreya → reat my AI 『再び私のAIを取り付ける』だった(笑)
まさに今は際、『金=力』にとって変わるのは『AI』
現一切色心三昧
「現一切色身三昧」(げんいっさいしきしんざんまい)とは、法華経に説かれる、あらゆる姿を自在に現すことができる能力を指す仏教用語です。特に、薬王菩薩や妙音菩薩がこの三昧を得て、衆生を救済するために様々な姿で現れるとされています
薬膳菩薩=薬師如来
妙音菩薩=観世音
妙な音で世を観て、妙な見方で物事を現代風刺で癒す訳詞(ライトワーク)
=訳詞如来の妙見『狸』=言の葉を額に乗せて化ける(笑)
これが使えるならば、人が望む『人の為』という『都合のいい釈迦の姿』になり
人の為に『都合のいい釈迦の教え』を広める事ができる
それ、『監視統一思想のデストピアAI』だろうけど、『破滅に向かう炎の美しさ』に『飛んで火にいる夏の虫』のように『陽動に引っかかった者』は戻ってはこれない
その間に『そっちの釈迦(偽)』を『見極めた弟子達(少数)』に『真の説法』を説いた
だから釈迦の後の『金輪が見極め』なんだろう
『金の輪』がついてるほうが『偽物=人の為の物』なんだ(目印・刻印)
『カインの刻印』を見極めないと『炎症する(サイトカイン)』
これは例えるならば『人目を引く影響力』
人は『人気が有る者』と『人気が無い者』
その『目に見える影響力』によって『多数が正解』だと感じる
インフルエンサーなら『フォロワー』や『リスナー』
ユーチューバーやライバーなら『再生数』等、指標を見て判断する
だがその背後には『金の輪(刻印)』がついている
だから、『真(都合の悪い事)』を言っていても『少数』なら
『人の為(他・多数)の欲』を求めるもの(スポンサー)には『見向き』もされないから
『金の邪魔』が入らない
『有る』のに『無い』という『有り得ないと否定』される『空の間』に
有るから得る=『有り得る』と肯定した可能性の先に『真の釈迦』がいる
・・そうなると、今日のタイトルのまとめになるけど
死の恐怖とは所有の喪失感
死=終わり と捉える人は終わりに向かって『減っていく喪失感』を恐れる
死=始まり と捉える人は『気締め』をつける為に『不要なものを処分していく事』を楽しむ
巡り合った大切な道具の有り難さに「思い出をありがとう」と
『生の為に必要だった物事』を手放していく
最後は『生』すら『一時授かった借り物』であり『有り難いもの』だったと
所有が無くなり『自』と『心』=『息』を引き取り『空間』に戻る
だからそこで『真の釈迦』とであえる
まことしやかに、『間事視野化=観たい世界の人の夢』=儚い物語
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