好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

果(仏)から学ぶ因(念)

念仏と書いて因果と読み解く・・その心は?『恩』を巡らせれば理解できるお話

はじまり=因=今の心=念 終わり=果=仏

さて、前回、般若理趣経を読み解いた結果、念仏とは念→仏という因果の『過程』であると独自解釈した

感覚的量子論 49日の不思議 般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)

『仏』を学ぶという事は『果て=結果を知る』という事になる
『結果』から見て学ぶのは『歴史』にも言える事だが・・

歴史には『人の業』という『因果』があるので
その『因=念』を知らなければいけない

つまりは『始まりだった時』の『今の心』だ
これは宗教における『開祖の気持ち』でもある

その時、『何を気』にしていた(色即是空)
その果ての結果は『どう受け止めた』(空即是色)

そう思うから(想像)、そうなる(創造)

そう考えた時、『宗教の歴史』というものには、『様々な因』に対して『様々な念』が絡んで『縁』になっていて

『因念(開祖)』を振り返れ『ば因縁(後の教えの解釈)』が絡んだ『果ての結果』となる。つまりは『不確定性原理』が『多様』に含まれているからこそ

すでに、『開祖(元)』からかけ離れた『別の結果』となる『真言伝言ゲーム』なのである

一人で『最初から最後』まで創り上げる
『自らが流れが元』で、『自らが流れの終わり』とならなければ

『思い描いた理想』は『具現化』できない

そこに『他力=縁』を混ぜては『因縁の業』が生まれてしまうのだ
混ぜるな危険の『科学反応』と同じ『宗教学反応』

さて、そうなると「自らを分けたら良いではないか!」という『自分』の発想が生まれる。現実でも『自分のコピー』がいたら『役割分担で負担が減る』『楽ができる効率化』と考えるだろう

その発想もまた色即是空で=『そう思う』から、空即是色=『そうなる』
それは、『因』であり、『念=今の心』であり、『果』は『仏=ほっとけ』となる理由は

『自分のコピー』が『コピーを産みだす』という『因果』を産む
『開祖』は『自分のコピー』が作れれば『それでいい』が始まり

その『因を受け継いだコピー』は、『コピーのコピーを作る』のが始まり

その為、開祖は『コピーのコピー』を『想定』していないし、コピーのコピーの『そのまたコピーが生まれる事』も想定していない

ただ『念=今の心が行った業=そう思う事』が『因』となり
その『想いは具現化した後』も終わりなく『果』が続く

つまり『氣締め』をつけていない

『未来永劫、その繰り返し』になるとしたら、『持続可能な限り続く』という先細り。『劣化』しない為に『定期的に自浄の仕組み』が必要である

それが『破壊・破戒』

「端折りたい、省きたい、逃げたい、隠したい」と思う事が『因』となり、それが未来永劫『引き継がれる業』の『果』となる

つまり『今の心を観る=観念』という『定期的な見直し』が『自浄作用』
それは宗教の『教えの果て=歴史』にも通じる

『中から自浄する作用』が機能しないと、組織は腐敗した『腐れ縁の流れ』になる。『なあなあ』で『曖昧』で『有耶無耶』で、『元が何か』わからないから『多様性を元』にして

劣化、増殖、コピーを続ける事で『癌』というスタイル=『流儀』になる

『開祖』が流れの『名』ならば
その『教えを学ぶもの』は『体』となる

今回は『真言の流れでの閃』だから、『空海』とするならば、『空と海が名』であり、学ぶものが『それを示す』必要がある

空は『有無』の思想=『想像』
海もまた『産む』生命の根源=『創造』

『想像と創造』が『真言』であると訳詞如来の妙見狸は感じる(一人一)

理想は愛である!(言い切り)=『ideal(理想)』
『愛を想像』する事が『今人(imagine)』=im negai=『私の願い』

とてもシンプルなんだが、ごちゃごちゃと『多様性の腐れ縁』が・・『I(私・自我)』や『相(相対)』や『AI(システム)』を語ったりと

『時代』の流れ、『次代』の流れで『真言という因念(元)』に『因縁(腐れ縁)』が連鎖して『歴史』が生まれる

それが『人の間』という『業』である

とても『単純』な事を『複雑』にするのは、口から『デマや枷』をつけて生まれる『デマカセの嘘=口から虚』

目から生まれる泪の神と口から生まれる嘘のデマ枷

真言の『忌=己の心』を『間違えた解釈(多様性)』が混ざると、以後、全ては、『解釈間違え』が連鎖していく

密教はもともと、一人の師に一人の弟子の『一子相伝』の流儀
それは『開祖の念』の『混ぜるな危険』を『体現』していた流れ

それがいつからか『免許皆伝』になった
伝える皆、許して免じる=『御免なさい』

御免なさいは『謝る言葉』
謝るは誤る=『間違える』でもある

謝って許しを請うくらいなら誤るな=最初(開祖)に『気』を付けろ

あやまるの言霊は
感情が飽和した需要・受容が留まる

需要が留まる=『ニーズ』がある
受容に留まる=『受け皿』として利用する
免許皆伝にして『信徒』を増やす

それは『開祖の念』ではないと道を『誤る』
所説、仏説と『多様性の解釈が複雑化』して『宗教の衆派の分断が争いの元』になる

般若理趣経は私にとってはまさに『念=因=始まり』として効果を発揮した。『母の思い出の記憶の音声を失う事』で『執着』が消えて新たな始まりの『今の心』となった

果(仏)=ほっとけ!から学ぶ因(念)
『理趣』を納めたら『履修』

以前、『履修科目』の話をまとめていた
履修は『寡黙に離衆』して一人(自力)でやれと

人生の履修科目は離衆寡黙にこなせ

それが『因果=念仏』だと(一人一)観測位置

spongeのアナグラム ONE GPS(観測全体の一人)

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