好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

世界が終わるまでは離れる事は無い説法 意識>精神>肉体>堕落

人の在り方は意識>精神>肉体>堕落、これが理想だが、堕落>肉体>精神>意識、人が内=肉の人の本質=体に入る事で、体験を得る流れの後は、やはり元に戻る過程で、必然的に堕落と向き合う事が『永遠と一瞬の特異点』になる。世界が終わるまでは離れる事は無い・・wandsの流行り歌が謡える歌=意識の解脱の説法になっていると気づいたお話

加味合わせを確かめる?

上と下の神合わせを止める=正
『設計』の『噛み合わせ』を解

『新たなDNA』 を生み出す
それは何のためか?

神合わせる為
噛み合わせる為
『加味』する為

『味わう』ために『命』を生む
命=いのち=意の地・知・血を生む
めい=名・may=〜かもしれない可能性を生む

結局、『肉体が生きる』とは『食う』なのだ
結局、『精神が生きる』とは『空(有無=矛盾)』なのだ

本来、精神とは『生きる為』のものではない
それが何故か『人の内=肉』に閉じ込められた

パワーバランスが違う

最上位層 意識
意識が『観測しない世界(構造)』は『存在』できない
有っても無い

上位層 精神
意識の観測した『世界(構造)の中に流れているエネルギー』を捉え、その『影響』を受けたり、『コントロール』したりと観測対象に対して『発生する力』

下層 肉体
構造の中である事も『無自覚』なまま、目先の『見える・聞こえる事』に一挙手一投足し、生きるという『意思』もなく『生きる=食う』を味わうのが当たり前の『繁殖する動物』

故に、精神なき人は動物=獣

最下層 堕落・停滞
人が落ち込む・下を向く原因、『重さ』、『だるさ』、『倦怠感』のようなやる気を失う『停滞』を引き起こし、生きるという『当たり前』すら止めてしまう『重い空気』

本来はこのバランス
意識>精神>肉体>堕落

『意識』が『観測する物事(世界)』を決め、その世界で『動くエネルギー(精神)』の元、『肉体』を操り、目的・宿業=為すべき事(体験からの学び)を成す為に『停滞(堕落)』しないようにする

『観測目的』を達成(悟り)したら、それを覚えて=『覚悟』
もう『その世界(興=役割の舞台演劇・仮想)』から覚め、解脱する

解脱して『終わり』ではなく、次は違う世界を観測しよう!という『始まり』
『意識の探求』がまた『新たな世界(物事)』を『体験で学ぶ』為に『精神』を生みだし『堕落=停滞を禁忌』とする

足るを知る=体験で覚えて悟→興味がなくなり覚める=『仏陀・解脱』を繰り返す
これを『死=肉体の終わり』だと思っていると『仮想は下層(堕落・停滞)』して終わらない

この時、『限度=極・端』がどこにあるのか?
それを決めるのは自分の『意識・精神』に『肉体』がどれだけ『共振・共鳴』するか?

それが『感動=心が感じて動く事=共振・固有振動数との一致』だと捉えた時
その『正解=上+下+止めて解く』の指標は心に素直=『悳』を積む事でしかわからない

だからそこに『他者の意識や精神(価値観・エネルギー)を介在』させた時、『飽きっぽい』という『評価』に見られるのは、それは『比較しなくていい比較』

『一』を知りたくて『位置・立場』を得る者にとって、その『一は全』を知れば『事足りる=足るを知る=満足』である

ある程度・・『最初からできる』のは、その『積み重ねを継承』している状態。だから、有る程度『以上』の『一』を求める場合『その位置に至る』まで満足はない

しかし、その有る程度は『自分の心』しかわからない
『どの位=人の立場で満足』するのかは・・その人の『心の振動』次第

例えば、『知的好奇心の探求』の果てに『大学教授や物理学者地位』になったような人が、有る時、『全ての地位』を捨てて、『世捨て人』になって『自然を旅する人』になる

その『心変わり』はなぜ起きたか?

それは誰にもわからないように、『人を突き動かす』のは、意識して『観測したい世界(物事)』に『精神』が導き『肉体』が従う流れ

私はこれが『最良の心を満たす循環=それぞれの宿業』だと思っている

しかし
堕落>肉体>精神>意識
もしくは
肉体>堕落>意識>精神
肉体>意識>堕落>精神
肉体>精神>意識>堕落

堕落とは、『社会に不適合』という意味ではない
意識して観測する為に精神を指導として肉体を行動させているのに

『行動』を『停滞させる物事』ばかりに目が行くように『精神汚染(他者の指導・評価エネルギー)』を気にして

『肉体が間違った方向』に操られている事で、『意識が観測したい事ではない物』ばかり見せられる

「生きるとは肉体ありきである!肉欲を満たせ」となり、意識は『一つの世界(物事)』を一から十まで『全てを欲する望』になり・・

興味が無い『流行りの流れ』に流される
欲望は『適わない=停滞する事』を知っている
だから、意識と堕落は『両者』が向き合って『禁忌と敵対=結果向き合う』

揺れ動くのは『心』である
どちらに従えばいいのか?と

これは『精神(指導)の領域』でも起きる
『自己の宿業の指導精神』に『他者の指導エネルギーの精神』を『加味(神)』するのか?

日本人の『精神(大日・釈迦)』に『合わない外国の神』の『加味』は必要か?

この『意識vs堕落』と『精神』(免疫とウイルス=どちらから見ても)
この影響が肉体と心=『心身に変異』をもたらす事で

道に迷う=宿業(意識の観測)を忘れる

意識が『肉体(目先)』に囚われる
意識が『精神(物事)』に囚われる
意識が『堕落(停滞・間違い)』に囚われる

神=加味は『足りないを和足し』
悪魔=空く間は『侵略・奪う』

こうやって書けば

神と悪魔の『争う世界(精神構造)の舞台演劇』に『夢中になって観測』している『人の中の意識』という構図

心亡き 忘却と忙殺の果てに『懮』にたどり着く

「意識を強く持て!」という言葉がどれだけ『重要』か理解できる

ここで大事なのは『構図の正しさ』等では無く、元々、『構造の中』の『精神・肉体・堕落』に対して

それすら『観測』しなければ『存在』を許さないのが『意識』

意識が『構造の中』に囚われている
『人』として『口封じ』されている

これに気づく事が重要

ただ『生きる肉体』と『堕落』が恐れるのは死=存在意義の消滅

『堕落』は『肉体』が無ければ『人として生きる』を味わえない、だから極端に『死』を恐れる
『精神を堕落』させるのは『周りのエネルギーを巻き込める精神』を堕落させないと

『生を貪る自堕落を感染』させて『寄生』を続けられない
堕落は『ウイルス』のように『精神に感染・汚染』する

故に精神は『鍛えて』置かないと『誘惑に対する免疫』がなく弱い
すぐに『肉体の快楽や欲望』を求める『精神』に侵される

だが、この『精神を鍛える』のも『意識』次第

意識の観測が『構造の中で精神が汚染』され『精神が崩壊する』という、精神が『人の内=肉』の構造にのまれ『不自由』になるなら

意識は『精神を切り離す=見限る』
もうその構造は『観測しない=興味を失う』

意識とはそのくらい『絶対的な存在』であり、何ものにもとらわれない
意識が『興味』を示さなければ『世界は存在』しない

逆に言えば『共通の観測意識』があるから、『共通だと思ってる世界が存在』している

わかりやすい例をひとつ

『ゲーム内ギルド』という仕組みがあったとして、誰かがギルドを立ち上げる

そのギルドは『いつまで存在』するか?

それはギルドに『属している事に意味』を持ち続け、ギルドという『存在の為に活動し続ける者』がいるまで

『人気のある』ギルドは『開祖』がゲームに興味が無くなって『脱退』しても『運営』が続いていく

『人気のない』ギルドは開祖がそのゲームに興味を失い、『初期メンバー』も抜けたら、誰にも『存在を知られない世界』は『無いも同然』である

その『存在を観測しなくなる』だけの意識は
その『構造世界から出る・離れる』だけで

意識は『興味の対象が変わるだけ』に過ぎない

意識・精神>肉体・堕落

しかしこれが
肉体・堕落>精神・意識

こうなってると永遠に『存在が有限の輪廻転生=ウイルスの循環』になる

『堕落した人の肉体』に『汚染された精神』が見せる『現実を観測する意識』とは、『身動き』を封じられて『見たくもない洗脳ビデオから目が離せない』ようなもの

そこから意識を『最上位層に戻し切り離す為』に行うのが

堕落した『肉体習慣を改善』する事
まず、『肉体が堕落』しない

その『意志』を持つと肉体よりも上位層の『精神』が肉体に『堕落が身につかない』ように、「病は気から!」と『強い免疫耐性を与える試練へ導く』ようになる

この時、意識が『目先の誘惑や堕落』から、「困難無理!」と『泣き言』を言って、『逃げ出したくなるような精神を試される試練』を観測=業の回収をし始め

その肉体から『堕落を切り離す身を切る痛み』と、その痛みが『精神が導いてきた理由に納悳する体感』を持って

「難が有ったから強くなれた!有難い!もう未練はない!」と大丈夫!という自身が身について『チュートリアル』を終える

チュートリアル=中途現実という仮説

意識は

『精神』は「何故、人を救おうとするのか?」と『観測対象が精神』になった時、そこに肉体も堕落もない

意識は『精神世界しか存在』させない=禅・瞑想

その『精神世界』を『意識が観測』し始めた時、精神世界は『体験で得たものが反映』される=夢

肉体の堕落から『救い出してくれた精神』、その精神によって『人の堕落に耐性』がついた意識

精神は意識して観測した世界を測る『バロメーター』であり『ピンチの時』に助けてくれる

意識・精神は神仏の意志

意識は『音の心』の『認識』
『陽気なリズム』に誘われて『好奇心』に興味を持ち『観測する意欲』を生む

『異性』を意識する
『異なる性質』を観測する
『事なる性質を物』にしたい(欲望)
『物事を体験』するまで終わらない

それが神=『加味』の意志

「…やれやれ、また『好奇心』が始まったか
仕方ねーな、『その世界の観測が終わるまで』見守ってやるよw」と

世界が終わるまで=悟りと解脱の説法!?

世界が終わるまでは離れる事はない
そう願ってた幾千の夜と

戻らない時だけが何故輝いては
やつれ切った心までも壊す
儚き思い、このtragedy night(深刻な出来事や悲しい結末)

満開の花が似合いのcatastrophe(突然の大きな災害や非常に深刻な状況)
誰もが望みながら永遠を信じない
なのにきっと明日を夢見てる

これ、wandsの名曲だけど、今の私にはこう見える

永遠=意識が目先の観測する世界の愚かさと間違いに気づいて離れるを繰り返す
信じない=人は言わない
なのに(矛盾)きっと(可能性)
明日=明けの日=日の目が出る=お天道様が登る
夢ている=精神世界
儚き思い=人が夢で思う=理想
tragedy night(闇夜・深刻な出来事や悲しい結末)

後悔の悟りと解脱
満開の花=蓮の花=地上の泥から離れた天上空間
転じて、崩壊していく争いの地上

非常に『達観』した『その世界から離れていく意識』が
やつれ切った心までも壊す=『堕落した争いの世界の観測』を切り離す

基本、やりたいように争った結果の堕落した精神に操られた肉体の世界は、それが『有った』から夢で『精神は理想を描き』成るように成った『ほっとけ(仏)=成仏』の解脱の歌

なぜ、私は今もこの歌を覚えていて『歌えるリスト』に入れてるのか
それは『謡えるリスト』だったと気づいた

能や仕舞などで使われる「謡(うたい)」という独特の節回し
無意識に大事な『古典として認識』していたのかもしれない

そして、なぜ昨日の友人達とのカラオケで歌わなかったのか・・
考えてみたら、そういう『メンツ(精神)』ではなかった(笑)

壮大で感動的なのに歌詞は『破滅的なエンディングを嘆く』ような内容
これを『人の目先』の『流行りの失恋ソング=ランキング=比較』に落すのも『堕落』

だからこそ、『意識』の『観測する物事』と『感動は人それぞれ足るを知る事』なんだろう

『道』を踏み外したら『叱咤激励』し
『堕落』にのまれたら『心を鬼にして試練』を与え
『意識』を取り戻させる

「人の内=肉の人の本質に口封じされてるぞ?」

逆もまた然り

『ほっとけない=この世界には仏が無い!』と観測を初め
慈悲や哀れみに『同情』し深く『人の本質に囚われた仏様』

その『敵すらも愛す精神』を『加味』しようという様は『同類の仏を導き』に戻ってくる

『地獄に仏の道標』を置く事で仏は『仏の様を観測』して戻ってくる

気がつけば

「そうだ、元々、仏だった」と思い出す頃にはそれも『加味の一部』であると、『観測していた意識』が『観測を止める=気づくまでの世界は消滅』する

しかし、地獄から戻った体験は『耐性』として『精神』に宿っているから、『同じ地獄(tragedy nightなcatastrophe)』はもう興味が無い

夢で描いた『満開の花=蓮の上=ほっとけの世界』にいる

結局世界とは『見たいと思った始まりの自分』と『見た後の終わりの自分』が『同一だ』と気づくまでの存在

『気づくまでは永遠』に感じ
『気づくと一瞬の事』になる

気『締め=限度』=足るを知る=満足する
=それを『覚えて悟る=覚悟を持つ』という事

ま、こんなネタバレをしても
それは『悟った風の頭での理解』に過ぎない
それは『人が人に語る』という『構造の中』

本当に悟って『興味が無くなった存在』は
もう同じ『人の世界に生まれる理由』は無い

これが仮に

もう『虫の世界』には生まれない
もう『獣の世界』には生まれない

と言えば「ふーん」と流すのに
「もう人には生まれない」と言えば

「じゃ、何に生まれ変わるの?」と問う

それは『人』というものだけ『特別』にしている
この『人を特別』にしているのは『社会という構造』である

その『構造』に関わる事無く「それはそういう物事だ」と観測する

意識とは本来、『そこ』にある
『構造』と関わるか?

それは『精神レベル(神仏)』が決める事

『加味』したいのか→遊びの降臨・神楽
『ほっとけ無い』のか→『地獄に仏・不動明王・戒め=今締め』が生まれる

これが『始まり』なら
どちらにも言えるのは『気締め』

遊びに満足して『悟って解脱』
地獄から『衆生を成仏=仏(ほっとけ)に成るで救い出す』

それぞれ『過程に学び』があり
それが『魂の経験値』であり『精神免疫耐性』

悟った事を覚えておく=覚悟
『覚悟』を持てば『意識して観測する対象』を選ぶ

『下手』に関わらない方がいい

触らぬ『加味』に祟なし
君子『危うき』に近寄らず

どうしても観測したい時は

石橋を叩いて渡る(観察と確認)
虎穴に入らずんば虎子を得ず(覚悟を決める)
渦中の繰りを拾う(渦に巻き込まれないように自律制御する)

『精神免疫』を忘れない事

これがあれば『我』を見失っても
『心』と向き合えば『吾』を取り戻す=『悟』

じゃ!遊び(加味)に行くか!(∩´∀`)∩Σ(゚д゚;)

加味を『和足し』に来るのか?
ほっとけ無い!と『成って無い仏を救い』に来るのか?

『神仏』は『人物』として現れるがそれは『皆=白に比べる人』ではない

個=『人』として『固まった中』の
『口封じ』された『古い十口』を解放する
十口=『十人十色…自由な口・加味』の発言

人の内の本質=『肉体』に囚われた
個性=『精神と意識』を解放する事

土足厳禁と足を洗って出直せとあしらわれて足切りと足抜けな足るを知るお話

『個性が消滅』しそうな時
『加味』は反応し『和足し』に来る
『ほっとけ無い』と『救い出し』に来る

…というのは『意識と精神』の話
それは一人一人の『内面』で起きてる事

だから『内観』して『肉体の中』で起きてる事
観念して『今の心の中を観て』、『諦める物事』に気締めをつける

=言う『帝』に従う

帝は『孤高の存在』であり
何でもできる『権力』を持つ反面
何を『選択』しても何かを『傷つける』

だから『諦める』とは
帝の『地位や立場を捨てる覚悟』
と同時に『傷つけ支配する力』に頼らない選択

帝(みかど)を明らめ諦める自由意志

その『責任から解放された帝=自由な発想』を想像したらいい
『重荷の重圧』が消えてめっちくちゃ『心が軽い』だろう?

それが『諦める』という事
転じて、人の肉体に囚われた
『精神と意識が自由』になる事

『永遠の肉体と堕落の輪廻』から『一瞬で解放』される

…でその『後』はどうなのか?って

これがこの世の面白い理由

『人として生まれる学び』はたくさんある
他人を傷つける争いや奪い合いという『堕落の世界』に関わらなくなるだけで

それらが『元々無い人の世界にステージが変わるだけ』の話であり、私の『分身』はもうそこに『存在』している

六角形

ラグランジュポイントとピースマークとBlack cubeとフラワーオブライフ 魂の成長の真理の道程

もうそこへ『行った意識』がある=『自分自身』があるから、安心して、『それ以外の事』に『観測の意識』が向き合える

結局の所、これに尽きる

「それが一番『今の心=念』を入れてやりたい事なのかい?」
「それをすれば『動かす力=気』が納まるのかい?」

=念動力=『明晰夢』で使える『想像を創造にする発想力』

そう考えた時

『金』があっても『使い道』がわからない
金を増やしても『金目当ての人間』しか集まらない

金は『金の力』で『人も物も集める』が、『金の魅力で集まった人も物』も
自分の発信する『振動エネルギー』に惹かれた訳では無い

故に『金に染まった』時点で周りの人は『金を集めた人の才能』ではなく、『集まった金の行方に興味』があり、『おこぼれを奪う為』に集まる

『金持ってない奴』に『ビジネス』は近づかない(笑)

金が『寄り大きな金の奪い合い』を生み、その中では『何の対策も免疫も耐性』もなければ、あっという間に『呑まれ澱んだ停滞のホルダー』の一部になる

『持ってるだけの人』になる

それが『金の終焉』、溺れる者が掴まされる『沈む藁』とは?
最後は『金で人を支配』するだけ

『人を支配する金の社会=堕落』を構築する

転じて

堕落>肉体>精神>意識 の『環境』が出来上がる

故に、その世界での『パワーバランス』が崩れる
という事を『意識が観測』して『免疫耐性』をつければ?

その世界は『観測対象から外れる』
『興味』が無くなれば『手放せる=捨てる』

『捨てる加味』あれば『拾う人の為の神=偽神』あり、こうして神(観測)無き世界に『ウイルス(停滞精神汚染)が蔓延』する

さて、永遠に抜け出せない『浮かばれない重い輪廻』
気づけば『永遠は一瞬の事』だったと解脱

さて?これ凄くアレに似てない?

『ブラックホールの原理』に(笑)

ブラックホールは『光』すらも抜け出せない

重い重力で『三次元情報』が『二次元に変換』されて、『永遠(比喩)に等しく時間が引き伸ばされる』と科学は言ってるけど

たまにブラックホールって『ジェット噴射』のように『何かを放出する現象も確認』されてるとか

一度捕まったら永遠に出られないような『超重力』から、物凄い勢いで『一点突破する逆噴射』って

まさに『閃』による『悟の解脱』
『もう二度と戻らない』という『振り返らない覚悟の力』の推進力

…という『宇宙(見た事ない知識)で起きてる観測現象』を何故、『内観で観る心の景色』と『相似』で捉えられるのか?

ここが『精神』を『意識して観測して見る夢世界』とは『目先の構造の中の現実』では『見えない領域を見ている事』になる

ま、そもそも
意識・精神>堕落・肉体だから

仮に
堕落・肉体>意識・精神だとしても

内観=『意識→精神』に向けば、精神世界に『漠然』とあるかつて意識と精神が『共に積んできた魂の経験値を観る事』になり

「こっちのがオモロー!」と『意識して観測』する『好奇心の対象』が変わって意識が『堕落した肉体に興味を失う事』で

肉体も『堕落から解放』され
精神の『守護の元、健康』になり

『心身共に健全』になった肉体はそのままそこにほっとく(仏)
『意識と精神』は『別の世界』へと離れる

莫迦のひとつ覚え──夢と意識が世界を生む場所

これが『救い』に来る、『加味』を和足す
『神仏が一時宿る事』によって起きる救済

救済って『救い済み』って事は、『気づいた』時点でもう
来る前に『心の揺れ(安心)』は救われてる(済)

これでいいのだ=『納悳=心に素直』になる

『卵』が先か?『鶏』が先か?(物理)
でも卵の時点で『後の鶏の設計(構造)』がある

『創造主』とは、それを『想像』して『加味』したのである

・・あれ?最後でよくわからんくなった(笑)

でも、その『加味された設計』がどうなるか?
見て感じて心が動く『感動を確かめる為に肉体がある』のだとしたら

やはり、意識して観測は・・いつまで続けるか?『終わりを自分で決める事』が『世界の終わるまで離れる事は無い』なんだろうね

・・あれ?世界が終わるまではの『説法』になってしまった(笑)

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