好奇心

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弥勒の気づき 信長と弥助の歴史は存在しない法華経(隠喩)と気づく亜空間認識

真言念仏・老子・因果・信長・弥助・明智光秀・南光坊天界・徳川家康、これらの言葉、『一字が万事』であるという事を証明する法華経で読み解く『六大天魔王 信長の野望』。真理の探究者なら読んで納悳するだろう(頭の固い歴史家はほっとけ)な亜空間(あくま)の証明

信長と弥助(誰?)

今日の話はあくまでも空間な悪魔の『亜空間認識』で、急にでできた発想ですので、歴史は歴史として、これはこれとして、きっちり区別しないと、『間』違いますから(亜空間)

さて、『弥助』という言葉が独り歩きし始めた時、結びつく『時代背景』は『信長と黒人奴隷解放』

世間の興味はそんな『歴史観の都合のいい捏造』や『解釈の違いなどが争点』になっているが、『仕掛けている側』がやりたいのは、「かつて日本にも奴隷文化がありましたけど?」という

「日本も奴隷やってたやん?きれいごとをいうな!」とそういう『認識を持たせる=多様性の思想』を植え付ける工作であり、『日本人が騒いでいる歴史観』という物は、ぶっちゃけ『海外はどうでもいい』し

なんなら、日本国内でも『明智光秀』という、『歴史の解釈が変わるブラックボックスには触れない』のだから・・『日本に広められた歴史が正しいともいえない』

だから、その『隙』をついて『悪魔=亜空間』が入り込む、亜空間から『感情がこみあげてくる』から、すぐに『敵対の怒り』になり、その『亜空間に意識の観測をもっていかれて食い物にされている人達(その程度の餓鬼に・・)』は放っておいて・・

さて、私は今回、『弥助』という文字が『弥勒』にあまりにも似ている事に気づいた

弥助
弥勒

これをまず『ひとつの素材』としてみる

次に『ベースの土台』として、弥勒がでてきたら、弥勒は『釈迦の現れた痕跡を追う流れ』

釈迦とは

釈=問題を解決する
迦=巡り合う

これを『ひとつのパターン』として考えた時
実は『弥勒』とは

弥=ひろくゆきわたる。あまねく
勒=おさえる、ひかえる、制御する、ととのえる、おさめる、彫りつける、刻みつける、書き留める、録する、詩を作る時、あらかじめ韻字を定める

『問題に巡り合い解決した痕跡(釈迦)』『歌や韻字を定め、整えて、彫って刻んで書留て記録する(弥勒)』

はい、これです!これが『法華経(メタファー)』なんですよ(笑)

『人物』ではないんです
『行動』を示した『エネルギーの流れ(龍)』なんです

だから、『私=弥勒を追う者』は、『独自に訳詞する流れ・龍に乗っている』と言えます

自ら(水)龍(流)になる瀧

さぁ、それでは例題です

信長とは、人に言う長く
弥助とは 広く行き渡りあまねく助ける

『言葉を継承させる』という組み合わせであり、それは失われた『縄文=継承文化』です

縄文ではなく繩文 隠された黽(ツチノコ)の継承文化

だから、とんでもない話をするならば

『信長も弥助』も『人物』ではなく、『物語のメタファー』が語り継がれた、無いのに有るを『文字・空間』として『歴史を現実に映し出しただけ』

これは『聖書』でもそうです

私は、『創世記は医学』だと思ってます。それはカインと『カインの刻印(炎症反応)を持つ者』は関わらずにでていけというのが、異物に対しての『免疫(抵抗)と抗体(抱えて追放)』の仕組みと同じだから

創世記は医学 人体の神秘のお話と思う理由

それは『人体の仕組みを伝えた教科書』を元にしたメタファーを『聖書として利用した元の人の思想』があったというだけ

それに『騙されている』というか、それを・・『バイブル(鉢=金の本)にしている法螺(嘘)吹き』によって人が滅びる訳で

聖書を清書 天使の喇叭(ラッパ)と7つの鉢(金と本)

『信じて長く』受け入れて、『あまねく広く助け』とする・・と書いて?
『信長と弥助』という『言葉に集束』する訳です

私達が信じている物語、歴史というのは、『目の前』に無い、『現実で起きていない事』というのは、別の空間=『亜空間から持ち込まれた知恵の流用』なんですね

『亜空間』については、簡単に定義した話を用意しているのでまた別記事をお楽しみに!

つーわけで、まとめますけど、以下をどう思います?

弥勒は釈迦の後を追い、後の釈迦になるとは

『問題に巡り合い解決した痕跡』を『書き留めて記録』し、『彫って歌』にして『韻字を定める』
すると、その韻字や記録の『痕跡』を『問題として見つけて『巡り合い解決する者』が現れる

これが、『釈迦と弥勒(師弟)』という『目に見えないエネルギーの循環の流れ』である

だから

問題とすら思わない物事は『釈迦は気にしない』
釈迦の痕跡が無い所に『弥勒は現れない』

こういう『観えない法則』がある

基本的に、釈迦も弥勒も『役割が違う』だけで、導線上を『自力』で進むから『単独行動』を好む。これが『多宝塔如来』という『仏が上に重なっている=向上心』を積み上げた『先の虚空』に映る『虚空蔵菩薩を観る』という事

さて、そういう意味では

『信長と弥助』というひとつの物語を伝えたのは『法華経のメタファー』だろう。『韻字』を読み取る者は、『一字が万事』であると気づく

文字という漢字に氣が巡り・・一字が万字と気づく

なんで、その『漢字』を使っている?と『阿字観』に気づく
その漢字が伝えようとしている導線は?と『阿羅漢』は気づく

そして物語はまた『言葉に収束』する

信長と明智光秀

人に言う長く
明かな智の光に秀でる

『託す思い』『託された光』
『韻字』の一文字一文字が隠された『真の歴史』を語る

名探偵コナンから繋がる 南光坊天界=明智への導き

明智光秀が南光坊天界へ

人に言う長く(信長・託す思い)
明かな智の光に秀でる(託された光)
南光坊が天界

これはちょっと難しいな・・(-ω-;)ウーン

南光坊というのは、明智光秀は『南蛮寺』に潜んでいた『信長の敵(テンプラー※改革派)を討伐』したが、本能寺で『主君』を失った
その後の行方は歴史では分からない→『出家』したと仮定すると、『坊』になって修業をして『南からきた光秀』

まぁ、天界は『空海』のように、自らを『名乗る役名』だろう。私も『訳詞如来』をするときは、なんとなく『妙見狸』と言うようなもの(素の自分とは違う)

その南光坊天界が『徳川幕府の礎』を築く為に、『家康の裏方に回った』とするならば、『信長の意志』『形』を変えて『家康(後世)に継承された』という事になる

『人物』は変われど、『伝えるべき物語の主軸』は変わらない。当然、その物語は途中から『現実』になる

まるで、『寿命を持たなかったはずの神』が、急に『人間的な寿命を持ち始める神話』のように・・

だから、おもしろいのが、信長も『存在したのか』どうか?今の人は所詮、『残された紙を聖書』にして『都合よく復元した歴史復興』しようとしているに過ぎない

『無い』のに『有る』という『人が言う長く』続く『悪魔の証明』の歴史
『有る』という『思い込み』が『あまねく広がり助け』になる歴史

これを『信長と弥助』という言葉に集束される

言葉が世界を創り出し、『思い込みの言葉』がその世界に『意識を引き込む鍵』というとてもわかりやすい一例

思い込みの言葉=『歴史』
れきし はカタカムナの言霊では

消失したエネルギーの示し

かつては『有った』かもしれないし『無かった』かもしれないし
『有った』としてもその『原型はもう無い』かもしれないし
『一部』かもしれないし、『全部』かもしれないし

いずれにせよ、それは証明できない『悪魔・亜空間の証明』
『亜空間』は日常にあるけど『気づかないだけの空間』

『信長と弥助の歴史』というのは・・ただの『法華経のメタファー』として、『真実の探求者』にはこう見える

問題に巡り合い解決した『痕跡(釈迦)』
歌や韻字を定め、整えて、彫って刻んで書いて『記録する(弥勒)』

その過程で『韻字』として生まれた、『大事な事を継承』する為の『擬人化した形象絵巻』

『六大天魔王 信長の野望』 ってか?(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)

・・六大天魔王?ってよく聞いたけど、意味はんだろう?

第六天魔王は、仏教における強大な魔王で、他化自在天(第六天)の魔王を指します。ヒンドゥー教のシヴァ神が起源。涅槃経では、釈迦の教えを破壊するために、釈迦や比丘(僧侶)や優婆塞、聖者や阿羅漢のふりをして矛盾する教えを説くことが説かれています

ハハハ(≧▽≦)やはり釈迦の『法華経』だったわww

~の振りをして『矛盾』を見せる役目
つまりは、『闇(破壊)』となって『光(創造)』を育てる『ダースペイター』で正解だった

カタカムナ58首 語るシス

聖徳太子コード上巻 備忘録メモ

天邪鬼の回路を恩にして見たら…

こういう、『釈迦(解決した痕跡)』をやっと見つけた!気づいた(;゚∀゚)=3ハァハァという気持ち。それが映画を見終わって「いや~!映画ってほんと素晴らしいですね~!」と感動を遺したいのとまったく同じで

みんなに知ってほしい!こんな面白い世界があるんだ!と『伝導者の役目』となって、

『詩』にして、『石』に刻んで彫って、『書き』留めて、『整えて記録』して、あまねく広がりを『韻字の一字(万事)』にまとめて継承させようとする

これをそのまま漢字にすると『弥勒』になる

『ポンジスキーム』(他力本願の投資詐欺)を見抜く『梵字スキーム(釈迦力・自力)』を持ち込んだ『空海』もまた、現代では『釈迦(痕跡)』として、私(弥勒)は追いかけていたんだ

カタカムナ58首 梵字と空海

梵字で読み解く人種と信仰カンとアンとニーズ

『一文字の韻字』に集束された意味から『エネルギーの役目を観る』というのは、カタカムナの50音『一文字ずつに意味がある』のも同じ事

カタカムナの信者ではなく感者になる

これが頭の中のごちゃごちゃが『素空観(スッカラカン)』『無』一文になり、『阿字観』の閃きで、導かれる感じる漢字(一字が万事)を追い求める『阿羅漢』

阿字観、阿羅漢、素空観(無一文)?

無の一文を問う、無一問から、『有』が生まれる
無になる事で既存の『概念・常識・思い込みが消える』

だから、『信長と弥助』と聞いて、『結びつく情報』が無かった
だから、『ただの文字』として、『漢字から感じとった世界観』を『言葉』にした

そしたら、まったく『違う観点』から、『人の歴史すら誰かが書いた物語』と気づいた

『過去の偉人の歴史』が『誰かが書いたシナリオ』ならば、『今の私達の生きている現実』もまた『書かれたシナリオ』と相似する

一人一人、『無意識』に『役目』が割り振られている

それに気づいたら、『都合』のいいように扱われないように
『私』は『私のやりたい事』を『進言』して『真言を声明らかに声明』して『今の心の念』を伝える

『今までの体験』を『老』として、「同じ過ちを繰り返すなよ」と『刻み彫って韻事』にして『子』に託す

そうすれば、『因・はじまり』の『今の心の念』が真言として『人が言う長く』続けば
それを『あまねく広がりとして助ける者』と『明らかな智慧を持った光に秀でる者』が

『果ては仏』となり『南から光』として『土の方』へ『天の界』を築くだろう
そこは『めぐむ川』によって『家が康らか』に

これがシナリオライターの『愛である=ideal=理想』とした時
それが『聖徳太子コード=未来記・未然記』かもしれない(中身はしらん)

ただ、この『願いを韻字』にしたら?

真言念仏・老子・因果・信長・弥助・明智光秀・南光坊天界・徳川家康

これが、人の為=『偽の歴史』に隠されたメタファー=隠喩の亜空間(悪魔)
『真』に辿り着く一歩手前の『六大天魔王 信長の野望』

なるほどな・・という事は、『弥助騒動』というのも、『真に目覚めさせる大いなる計画』だったんだ!
そもそも、日本人でも信長は知っていても、『弥助は知らん人』のほうか多い

人物としての弥助という生き様は単なる肉付けであり
肉を切らせて骨を断つ、その真は『名が体を現す』

氏名が使命として伝承されていた韻字だったんだ!

と、訳詞如来の妙見狸はまとめる(一人一)

信じられない事に私の中では、あっけらかん?←新しい掘り下げキーワードがきた(笑)
おそらくこれは悪鬼羅漢の事だと思うが・・これも法華経だろうと感じるものがあったので、今度まとめる

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