あっけらかん、悪鬼羅漢、明観。『真実だと思い込んでいた偽』と向き合い、そして『真実は偽物』だったと納悳して『解脱』するときに感じる達観の感覚のお話。
あっけらかんとは?
意外な事、意外な成り行きにあきれてしまって、(ぽかんと口をあけたまま)何の動作もせずにいるさま。「―と見とれる」少しも気にせず、けろりとしているさま
悪鬼羅漢とは?
極めて恐ろしく、容赦ない存在
明観とは?
明觀(みょうかん、天暦7年(953年) – 治安元年10月8日(1021年11月15日))は平安時代中期の真言宗の僧
ふむ・・実におもしろい( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)
この言葉は、前回、『信長と弥助という歴史』は存在しない『メタファー=隠喩』だったと法華経で読み解いた際に・・
それが自分の中で腑に落ちて、書き終えた~という気持ちの感覚を言葉にしたら
あっけらかん だった
意外な事、意外な成り行きにあきれてしまってについては・・
真言念仏・老子・因果・釈迦・弥勒・信長・弥助・明智光秀・徳川家康
人名や現象として『一字が万事』の『名』になっているものの『体』が実は『文字』だった
『文字が具現化』して『作られた世界物語』だったのだと感じたから、意外で、でも成り行きがそんなもんかと呆れてしまった
そして、あまりにも法華経の『伝導の継承の形象、喩えの構造』が整っていて見とれて、この『理路整然の真言』に比べたら、人が肉付けして『捏造した穴だらけの歴史解釈』を少しも気にしないで、けろりと無かった事にできる
前提として、『与えられた概念の歴史観の思い込みを全部忘れて』から、『信長から家康までの歴史の主要な役目の名』を文字通り、『意味』に置き換えて文章で読んでみ?と
私は『老』、これを形象として『子』に託す『老子=因果・念仏』の『弥勒(伝道者)』になった
そんな、既存の与えられた概念や常識を『無にする行為』
人が『人の為』に積み上げてきたもの『偽』を『破壊』する破戒僧
それは、極めて恐ろしく、容赦ない存在の『悪鬼羅漢』と言えるだろうね?
でもこれもまた、その『鬼の目線』から言えば
人が人の為に『偽の捏造』を繰り返した『小さな石(意地の維持)』を歪に積み上げられた『嘘の山』。それは、そうしないと『親不幸者=前の人がやってきた事が無駄』になると思い込んでいる
六道輪廻の概念に囚われた『賽の河原の子供たち』
『都合のいい与えられた概念』を延々と『持続可能なSDGs』に囚われている状況から、『素直で可哀想な子供の魂を解法』するために、『明かにする観点』を伝える
これが
あっけらかん=悪鬼羅漢=明観が同一のエネルギーである証明
あっけらかんは『現実の態度』
悪鬼羅漢は『精神での行動』
明観は『真の部分での宿業』
あきらかん の言霊は
命のエネルギーの場の強い力
あっけらかんとした現実の気持ちから生まれる言葉は
「な~んだ!そういう事だったのか」という納悳と安心
『安心』とは『精神領域で敵なし無敵状態』である
それは『幽霊の正体見たり枯れ尾花』
人は『良く分からない何か』を恐れて『畏怖とif(もしも)』に不安になるが、正体が『明らか』になれば『感情』は動かない
「お前のやろうとしている事は全て丸っとお見通しだ!」
私は前回、信長と弥助から、『法華経のメタファー』に気づき、向き合っているのは『歴史』ではなく、法華経の『真を問う』、『信じる・帰依する=他力本願』に成りすまして
真理の探究を止めさせてやろうと『騙す役目の天邪鬼』を感じた
これが『六大天魔王 信長』という『説法講和』だと
六
大=一人
天=二人
魔=麻鬼
王=自由意志
信=人が言う/人に言う(他力)
長=長く・続く
『六道輪廻は続く』というこのサイクルから『解脱』するには、それは『本物語』であり、『現実』ではない『偽=人の為』である
人の為の『亜空間=悪魔=天邪鬼』である
『真実だと思い込んでいた偽』と向き合う
そして、『真実は偽物』だったと『納悳して解脱』する
事実は小説(読み物)よりも奇(あやしい)・・ではなく
事実は『小節(途中)』よりも『記(全体)』
そもそもが『事実』が『読み書きされた物』を『語っている』のだから、『書いてるものが計画そのもの』と『左記読みの先世見』すればいい
『物語の最後』まで『本』を読まないといけない
読み切らない『途中』では『結末は解釈』できない
その『結果と過程』がここに繋がる
あっけらかんは『現実の態度』
悪鬼羅漢は『精神での行動』
明観は『真の部分での宿業』
そして、意外な事、意外な成り行きにあきれてぽかんと口をあけたまま・・
( ゚ ρ ゚ )ボーと『無』一文になり・・
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