好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

霊迎雀宿 第六夜 敵を間違えるな

武士道は争う二限の戦の中に入って止める心。拮抗した確定の三極の安定となる。その後に思考・至高が起きて最後に向き合う…一切皆苦を抜け出した精神の格言とは?敵を間違えるな!?ライオンズゲート第六夜

『敵』とはなんぞ?

恨みのある相手
競り合う相手
敵意・敵視・天敵

敵、そう『認知』したものは、攻撃あるいは防御など『何かしらの対策』を考えるのが二限の『罠=wana=望み』

言葉の『意味』に振り回されて、『真の敵の忌み』と向き合っていない

てき・かたき・Enemy

『恨』みとは『心の艮』を見る
丑寅=鬼=失われたトーラ、心から失われた原典

一切皆苦の世界は1切皆9
元々十分に満たされた愛=私・和多志

自分がそこから『分離した視点の1』ならば
周りの『皆9』は元々『心から失われた原点』

それを踏まえて、かたきという言葉に『形忌』と割り当てれば

他人とは『形を持った己の心=役割』とも読める

それぞれに『役割がある自分達』が向き合う
それが『敵意や敵視』と考えるなら

そもそもなんで『嫌いな人の事ほど気になる』のか?嫌いだと思っていた人ほど『仲良くなると心が嬉しい』のか?

と置き換えて見れば『自己分析』できるだろう

てきをカタカムナの言霊で読むと
循環放射するエネルギー=『巡る縁』

かたきだと
力が分かれたエネルギー=『役割』

まさに自分の心から失われた原点が『形を持った己の心』として周りに『形忌』という『役割として投影』されている

だから、様々なことわざがある

人の振り見て我が振り直せ

これはいつの時代に生まれた言葉かは分からないが、現代科学で解明したのは、『メトロノーム振動子実験』で

特定の固有振動数に『共鳴?して振り子のリズムが『一律に整っていく現象』がそのまま当てはまる

無理やりみんなを前ならへ!全体行進!と『指揮して統率』しなくても、自然に周りに迷惑をかけないようにしながら『自分でペースを掴んでいく』と

結果、『誰の邪魔』もしないで『全員が一体化したリズム』に整う現象

つまりそこに『争う相手』など元々いない
『阿羅添い』『現想(あらそう)』に過ぎない

阿羅漢

サンスクリット語のアルハトarhatの主格形アルハンarhanにあたる音写語で、「尊敬を受けるに値する者」の意。 漢訳仏典では「応供(おうぐ)」あるいは「応」と訳す。 仏教において、究極の悟りを得て、尊敬し供養される人

多くの仏道修行者の目指す境地は阿羅漢であり、これは修行によって煩悩を断ち切ることで到達する境地であるが、仏とは異なるものである。 仏は煩悩を断ち切ることに加えて、大悲などの利他心を具えており、部派仏教において菩薩から仏になる道を歩む者は、極めて特別な存在である

アッラー

アッラーは唯一無二、永遠の絶対者で、全知全能の創造主です。 99の名前(属性)を持つとされます。

阿羅漢は『仏では無い』が『応供(おうぐ)=応じる為に供える』=役割
アッラーは『99の名前=役割』を持つ

『1』足りない『皆苦の役割』の『現神=あらがみ=荒神』
『1』という『仏を目指す者』の望む=『wana=罠』に『応じて供える現添い』

だから仏教を初めとしたあらゆる宗教も最後は『1』が悟=差取り足りない和を足すと『皆苦=役目』を失い自由(十分)になる

Enemy、これも面白いアナグラム
=my ene=私の『北東と東の中間』の羅針盤方位。

eneは方角で『丑寅』=を指す
失われたトーラ=鬼がいる方向=『敵』

よく出来ていると同時に、『誰』が『敵視を向けている』かもよくわかる

エネミーの言霊は
投影が充ちた光が短く

元々が『十分』だった頃の『自分の欠片』を見つける
心から失われた『原点を発見・遭遇』する

ここで孫子の一言

『敵』を知り『己』を知らば『百戦』危うからず

まるで意味が変わってくるよね

自分という『1の立場』における『己の心や今の心』
『念の忌み』をはっきりと把握すると

自分には無い周り=『想定外』のあらゆる『9=苦の立場』に立って『物事を想定』すれば『百戦』危うからず

この『百戦』というのがポイントで
『戦』というのは『総大将の首を取る』と終わる

霊迎雀宿 第五夜 百聞は罠

百とは『一白』、実質総大将との『一騎』打ち
だから『一白戦』への『武(戦の中に入って止める)の精神』は

『総大将』を仕留め『烏合の衆の残党を分離』させる事

これが『一刀両断』
『首(総大将)』と『体(勢力)』を切り離す

好敵手=ライバルにアライバル(到着)
Enemyは『私の失われた原点(心の艮=恨み)』の発見

つまりは『学びを与えてくれる存在』であり『失われた自分の欠片』が『形と忌みを持った形忌』として現れてくれる

仏(1)に阿羅漢・アッラー(99)として、現添い、現想の役割として応じて供えて『100』に至る

ここであったが!百念目=『一白』を『今の心』で『見る』=宿敵
三つ子の魂百まで

この『仏について阿羅添いの世界』は『百』まで
三つ子=三歳=『三昧』

あるいは密後=『二限+拮抗中立の三極』
仏の顔も三度まで=悪→善→中立

それ以外は『蛇足の邪』だから、足るを知れ莫迦(一つ覚え)と、三度目以降は無い

そのサイクルをひとつの世界・『一の位置』としたら
千・万・億・兆・景……『無量対数(無限)』

そんな学びは『果てしなく続く』…と思わされるのも、『現想に囚われている影響』でもある

分かりやすく言えば『2枚の鏡』があれば『無限鏡』の完成
どこまでも続くと『思わせる事』はできる

それは『1』足りてない『皆苦の9から生まれた現像の現想』なのだから、1の位置は『それ以外=常識外れ』という事

皆苦の9の方からみても『1の仏』は『想定外のイレギュラー』
まさに『私の失われた形忌』と言える

『知りたい』から気になる
『合わない』から反発する

だから繋がりは『知り合い』程度でいい(´∀`)
1と9はそれぞれ『リスペクト=尊重』すればいい

それがワンフォーオール・オールフォアワン
全は一、一は全

そういう意味で二限の終わらない『阿羅・アッラー添い』を止めるのが『武士道精神』

戦の中に入って止める=『武』
刃の交戦を抑える=『文』
『文武両道』

これを三つ子=『三極点の拮抗』とするなら
これで『100→百』だが同時に『一白』が生まれる

この白は『4つめの視点』
その『三極の面』には無い『俯瞰の立体の空間』の目

『拮抗=00』になり、そこから『離れた一白』が思考の試行の『百鬼夜行のデーモンストレーション』のシミュレーション空間の中で『あらゆる事』を『お試しのデモ』をする

この時『世界想像・創造』が始まるが、なぜ武士道が『死ぬ事と見つけたり』となっているのか?仮に誰かが『創った言葉』だとしても『魂がこもっている』のか?

『現実の争い』を『思考の中』に持ち込んだ時、それは『潜像(まだ生まれてない世界)』で『戦争が起きている』から

思考シミュレーションで『戦争を企てる』と、それが『現象として面に投影』されてしまう

例えるならば『映写機から映し出される映画』がハートフルコメディから『ホラーSF』等に変えられたら『スクリーンに映るもの』が変わる

武士はその『潜像での戦』を止める為に死ぬ事=『肉体からの解脱』を見つける。つまりは百までの『百』を超え、『00の存在なき存在の不死』になる

『潜像』であれ『現象に投影された戦争』であれ、『変幻自在』に『現想に抗う1の位置』に宿る魂。『肉体は器』に過ぎないが『戦の止め方を伝える抑止力』となる『精神的抗体』

『万有・蛮勇』を好む『英霊=侵略』とは違う
まわりにいて防ぎまもる。守備する『衛霊=門番』

『力にこだわるもの』は『肉体を鍛錬』する=武
『言葉にこだわるもの』は『精神を鍛錬』する=文

千鍛万練(せんたんばんれん)

五輪の書の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする」を四字熟語にしました。 日々の稽古を怠ることのないように、自分への戒めを込めて。

それ以外『人生の役目』は無い( ♡´³`)σガーΣ(`・ω・Ⅲ)ーン

『白羽の矢』が刺さったら?『当たり前』じゃいられないってな?( ♡´³`)σガーΣ(`・ω・Ⅲ)ーン

まぁそれは『生まれる前から覚悟』してる
ただそれをその『自忌』が来るまで忘れてるだけさ

時期っていうものはタイミングでは無い
時間は無意味なcountの cut on
〜に沿って切る

『時は刻む』っていうだろ?ただの『言葉遊び』だぜ?

来るのは『自忌=自らと向き合った己の心』
並行次元の一の位置とは『可能性の自分達』

一切皆苦が1と9に分かれ『横に広がった世界』なら
1を縦に役割を分けた『縦に広がった世界』がある

数列

カタカムナ46首 1から学ぶには9次元思考?!

それは『元々分離の自我の1』をさらに『1と9』に分けた『皆孤独の戦い』だが、その1に分かれた世界の役割の自分が『差取りの和』となり『十分』に戻った時

その『1』は『還って』来る
お帰り(・∀・)人(・∀・)冥土の土産

実質その時点で『1対9の構図』だが現象には現れない『1(+1):9』という、精神の中で『経験値を融合』して『自身・自信』がついている

その自身がまた、『別の次元の攻略の糸口』として『並行次元の自分達にサポート』に行く『ハイヤーセルフ(高次元意識)』になる

…(´-`).。o(ちょっと違うな)

次元をまたぐ、『交差』する意識・・あ、そうかだから『交通自己』に会うだな( ´∀`)σ( ⊙ω⊙ )どっかで聞いた!(あの時もライオンズゲートだった)

飲食店の店主に嫌われる夢

いずれにせよ、そうやって『夢という空間』を通して『トラウマを解消』したり、誰か『囚われてる意識を解放』したりすると

一切皆苦の1:9という『圧倒的劣勢』に見えて、実際は『1(+精神8):9=9:9』だから

結果は1:1
それは『失われた原点』
『敵』とはなんぞ?

( ´-ω-)σ(´∀`)納悳

そうか…雀の宿に来る先人とは、『別次元の役割を終えた元々私だったもの達』が『精神として還ってきて宿る魂』だった

そう考えると『思考シミュレーション』とは、『今の心』を『愛』として、そこから『役割を持った1:9』に『自他に分かれる』ように『世界を創造(条件付け)』する

その『1』が永遠に同じように思考シミュレーションを繰り返したら・・1:9…1:9…1:9…一切皆苦…と『問題を細分化』しすぎて

「宿命ってなんだっけ?」( ゚ ρ ゚ )ボー Σ(゚д゚;)完全に忘れやがった

つまり『核分裂』を起こしていたから、どこかの次元の私が『集合の役割と位置』になって、『核融合の号令』を出した

(*」´□`)」集まれCome (´∀`)(*゚∀゚*)(´∀`)

アチマリカムの言霊の力=元氣玉

『達観した自分』は『先人の知恵』となり、『まだ至らない自分』にアドバイスして「役目を果たせよ!行け」( ´-ω-)σε≡≡ヘ( ´Д`)ノ行く

里の心を持ち闇へと向かう黒闇の門

黒闇の円環(必然)とエンカウント(偶然)の始まり

『鬼門を通る』とは『ブラックホール』だろう
そしてブラックホールとは『目』だろう

ブラックホール(目)の仕組みに気づいた

独自体感論 夢追い人の薦め 誰でも出来る実践内観法

人の意識は『目を通して現実を認識』する
だから目覚める=『目』から『覚』める

逆に言えば『仮想空間』も『目に映された光(vision)』を覗いている

『覗き』というのも『卑猥な行為のレッテル』になっているが、覗くとは『司って見る』と書く

公の仕事を役目として行う役目。官職。務め

『現象』において『覗く』のは『邪な目』だが、『潜像』において『覗く』のは『邪を見張る目』

これは『精神性に宿る解釈』だから『肉体から解脱』した時にはっきり出る
『自分の魂の成長』は『誤魔化し』も『偽り』もできない

ただひとつ言える確実な事は

『敵という意味』の『敵』は存在しない
『そう思い込まされている』からそう『認知』しているだけ

『都合の悪い』もの、『行く手を阻む』もの
それらを『排除』、『取り除く』為の傲慢な命令

排除、除く=覗く=『見張る役目を消す』

「あいつは敵だ!」

だけどそれは「同士討ちをしろ!」という『邪な意識』が作り出した『現像の阿羅・アッラー添い』が応じた『具現化』

供えると書いて、具えるという漢字もあり、これは具象神という、人についている善悪二元の行いを記録する存在でもあり、唆す役目=『そういうvision』を見せる

中島みゆきの歌『俱に』が気になったので・・

目に映るものは『色即是空=VRコンテンツ』だと割り切ってないと、そりゃ『物質的な脳』が騙される

この世はVR説を考察 今のレベルのVRを体験しておかないとヤバい理由

深淵の向こう側 VRの進化の終着点は人生体験

「身体を護る免疫を敵だ!」と『黙らせるワクチン』をぶち込む愚か者達は、ほんと目に余るほど痛々しく『医者の言うことを盲信した莫迦のひとつ覚え』で「救えないから嫌い!」と思うのは…

それは『かつて何も知らなかった無知蒙昧な自分の成れの果て(そこで終わり)』だった時の『投影の残像』

そんな『過去は変えられない』が『今』は変えられる

『今の心』が生まれ、『過去の自分を他人』として『客観的に見ている=続きがある』という事は『過去は変わった』とも言える

実際その過程で『並行次元の自分』と何度も夢で出逢い『協力』を繰り返してから『可能性』というものは『有無』を産むのがわかる

『自我という空間』の『中の可能性』と
『自我から解脱した先』の『空間の中の可能性』と

それは『法則が全く違う』から、いくら『人の世で悟った』所で、三つ子の魂は『百まで』しか至れない

それよりも遥かに『桁違い』を求めるなら『自我を手放す』しかない

果報は寝て待て
寝半寂静
夢からの使者

ここまで来ると

『自我を手放す』という意味が、単なる『苦行という修業』とは訳が違う事だと感じてきた

『認知』を変える
『思い込みの洗脳を解放』する

まず『生まれる=解脱』 ←ここ重要

『敵』とは『己の心』である…っていうのも『忌み』の捉え方が変わってくる

『形忌』とは『目に見える形』になった『己の心』である
それは『向き合い受け止める』だけでよく『勝つ必要』は無い

いがみ合う=異神合う=教義の対立を変えて
意神合う=意示申合う=意を示し申し合う

全く同じ言葉なのに『争いの和解の握手の後継』が見えてくる

神ではなく、示申と書いた昔の言霊は後世にもわかりやすく、『神=心』とは何かを『伝承』したようなものである

ここに多くの人の精神が至れば、『隣人を愛せ』が為される世界が産まれる
まぁ、その言葉がこの世界で生まれるという事は、このvision世界では、それは無いが

このvision世界から解脱すれば、確実にその世界は有るという事
『1・位置』を生み出す為に『皆の9・苦』があるんだ

ここが皆苦の世界なら、そこから外れた『一の世界』がある

『一の役割』はその『理想世界を創造』する事であり
『9の探究者』はその『位置を求めみつける事』である

その位置に皆苦を導くもの・・さぁてそれは?救世主?=また他人に分離?

鬼門

ここで『決断・判断・選択』を間違うと・・また行ってらっしゃい始まりの門から追放。答えを『現実』で聞いて分かった所で、『実践は潜象の精神世界』

地獄巡りの『hell=経る』を経て体得した『経典の精神』以外、何も役に立たない『人ならざる意識』の世界

『心の強さ=意識の守護神』と捉えれば『哲学』って『自分自身の力を引き寄せる魂の修行』になるんだよ

己の敵は己
だが敵は『敵』ではない

『敵』とはなんぞ?

それは『異神合う』を『意示申合う』に変えて
『意を示し申し合わせて適合する形を持った己の心』だから『隣人を愛せ』

という有難いお話でした(。-人-。)これは滅多にないわ、さすがは『末世=世も末』を実感します

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