無意識とは『無の為』の意を識別する無為自然と気づいたら、常識とは『常の為』の意を識別する観測と気づいたら…それは『間違えない』限り続く持続可能な『SDGS』だと理解するお話
常識とは?
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別
これが言わゆる 『普通』
普通とは?
いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま
これに対してアインシュタインは
常識とは18歳までに身につけた先入観のコレクションである。 単に好奇心が旺盛だっただけなのだ。 失敗したことがない人は、新しいことをしたことがない。 すべてのものは、私たちが制御できない力によって決定される。
カテゴリ | 常識 | 無意識 |
---|---|---|
意識対象 | 他者や社会の期待 | 自然と心の声 |
判断基準 | 多数派・安全策 | 直感・自由な意志 |
目的 | 同調と秩序の維持 | 真の自己表現 |
感覚 | 安心・保守 | 冒険・探究 |
はい、そゆこと(´∀`)Σ(゚д゚;)どゆこと
前回、無我夢中の独自解釈において、無意識とは『無』という『概念の為』の『意を識別』した状態=『無為自然の俯瞰の空感』と理解した
これは『ひとつの現実』に囚われない
=ひとつの『常識』に囚われない
=常識の『口封じの人』にならない
そういう口封じされた囲われた概念を
『井の中の蛙大海を知らず』…と外から『観測目線』
さりとてその囲いの『柵(しがらみ)』を壊したとて、逃げ出しても『行き場もわからない迷える子羊』になるなら…『柵の囲いの中の方が幸せ』だろうから
『ほっとけ=仏の顔』で暖かく見守る
迷ったらお釈迦様の掌で転がして救ってまた『囲いに戻すのも優しさ』
柵越え=しがらみ越えをする頭角を現す『山羊』
その無意識の目に映る景色は『自然』
だから『無為自然』となっていく
しかし、柵の囲いの中で生きる羊達は、迷える子羊にならないように『群れ』を見て『群れについて行きはぐれないように』する
『常』に『群れ』を『意識』している
『多数派』こそ『間違い』ない
それが『常識』
それは『多数派の世を生きるというマジョリティ』であり、実は水増しや扇動という『数の幻影』に囚われているのと変わらない
やはりわかりやすいのは現代故事成語の『コロナ騒動』
『誰もやっていない状態』から「総理も医者も警察も消防も打ちました。だからやりなさい」(羊飼いの任意の柵)
やってない、自分達はやる必要がないと決めた『政治家が薦めてきたワクチン』
周りに誰もかかってない、かかっても『ただの風邪と変わらない症状』しか出ていないのに
「全国でこんなに!死亡者が!」と煽るマスコミの『偏向報道や捏造グラフ』を見せつけて
「皆が!皆やってますよ!やらないと!思いやりはないんですか?」と任意なのに『強制まがいの同調圧力』をかけた結果
「『思いやり』という善意に乗っかれば多数派になれる!」と思い込んだ『正義マン』が、『正義の名』のもとに『悪行を行い賞賛を受ける事』を広め
『さらに間違った多数派の正義マンを増幅』させる事を『常識』としていく
そんな家から出ない、人に合わないで、ネットの情報だけで隔離洗脳されていく中で
『皆』は『常』に『意』を『識別』していた
『何がマジョリティ』で、『何』に合わせれば『今の常識』から外れないか?
自分の中に『自信』がない
『覚悟して選択した経験』という『強い自身』がいない
だから『マイノリティ』にはなれないものは
『常』に『群れの行動の意』を『識別』して合わせる
『応え合わせ』の『他力本願』が好きだから『力(数)の先導者』について行く
「誰にでもついて行く訳じゃない」という人も、『ショックドクトリン』で『常識が崩壊』した後は、『扇動者が先導者』にすり変わっていても気づかない
『常に数が多い方』の『意を識別』している
少数派、所か『一の位置』を選択出来ない
そういう意味では『一切皆苦』とはとても単純に捉えるべきだろう
『一切』れば『皆苦』とは『リーダー』無くして『群れ迷う』
これが『常識』という『常態』
常に意識している『常の態度』として示す
私は『常』という字があまり好きでは無い
それは『吊るされている』から
これも『形象』で見ても『口』が『体』を刺している
これが常とするなら
『常世』という言葉で表現も間違いではないが、なんだかそれも『無理やりマジョリティ』にされてる印象を受ける
夢だろうと現実だろうと『意識の観測をしている世界』が『常世』であり、その世界の『ルールが常識』
世界と『一言』で言っても『密度(階層)』があってその『階層ごとに常識』が異なる
重く重く積み重なる『間違いの歴史』で『常識』は変わっていき、その常識に応え合わせて『人の意識』は変えられていく
それがいいか悪いか『都合』が決める
…という『ご都合主義』そのものが『普通という常識』になっている時点で
常識に囚われた世界には
『正解』という『正しく解く』が無い
正解が『無い事が有る』と理解すると
全ては色即是空、空即是色
『そう思えば、そうなる』という『幻想』
諸行無常、万物流転とは
人の生み出した『常識という概念』であり
それは『無(概念)の中』で生まれた『有(可能性)』を無の為の自然=『無為自然が許容している』だけ
何でも有りの『有難い遊び場=夢』を与えている
ただ、それを『都合よく独占』されている事に気づけば『人生の脇役』から降りる
なう(2025/04/19 09:36:36)
19→行く、逝く、居ない
90→ 救霊、内応
09→霊級、王級、応急
93→組、空海、急増、苦産
36→弥勒、山麓、未無、残務
63→無身、無実、録見、鹿山
36→弥勒、山麓、未無、残務
ふむ( ・・ )
居ないから行く/逝く
内に応える救いの霊
王級の霊級が応急で
空海組が急増して苦しみ産む
未だ無い山麓を弥勒する残務
無身になって無実を記録して見る鹿山
山麓を弥勒する未だ無い残務
なるほど
空海組が急増して苦しみを産む
無身になって無実を記録して見る鹿山
これは『塵も積もれば山』となる
その塵と書いて『ゴミ、チリ』と読むが
それは『鹿土』でできた『鹿山』
鹿は『角』の象徴であり『鬼』を示す
無身になって無実を示す『鬼の屍の山』
鹿王は『かつての釈迦』である
つまり、空海組が急増して無実を証明して苦しみを産むとは
即身成仏で『仏を宿した弥勒達』が、『常識』として都合よく埋もれさせてきた『無実の罪』を『無身=身体を持たず』して『意』だけ伝え『真実を暴き始める』という事かもしれない
そのひとつが、常識とは『一の選択=自由意志』ができ無い、『群れ』が無ければ『道』に迷う『迷える子羊の為にある措置』であり、その界隈ではそれが普通という事
この常識や普通という『界隈のルールに違和感』を持ったらもう、『常識外れ』
それは迷える子羊界隈では『異端』だが、その外から観れば、どんな『自由意志』を掲げて『一の独立した意識』を持ったのか?
ファーストコンタクトは『未知との遭遇』の楽しみである
というのも
常識や普通の中に『全て』が有る
それを『無』という概念で括った時
それは自然からすれば『存在を許されている余白』のようなもの
『全てが有る=満たされている』はずなのに…そこから出てくる=『中には無い何か(想像)』を求めて生まれる『新たな有(創造)』でもある
常識外れは『浮世離れ』とも言うから浮いて世から離れていく
それは生きてる『場合』の話
魂が天に還るとも言う
それは死んだ後の『場合』の話
場合=場に合わせる
それがもう既に『普通の常識』になっている
こんな風に、『違和感』を『常』にマーキングして免疫として持っていないと
簡単に『常』に『意識』が飲み込まれてしまう
そうすると『場に合わせる間』から『違う事』は出来ない
これがタイトルの
『常識』に囚われると『間』違えない理由
間違えるとは『正しくない』という事ではなく『選択を変える事』
『皆がこっちに行く』という『群れの常識』的には『正解の間』
しかし『そっちには行かない』という『間』を『違える選択』をするから『結果』が違う
成功か?失敗か?の二限でもない
『求める答え』が違うだけ
『失敗の経験が欲しい』ものはあえて『成功した体験』を選ばない
それは『間違いを選ぶ事』こそが『自分の正解』だから
『群れ』について行けば
『群れの正解』から外れない
でも群れの中には『しがらみ(柵)』が有る
似たり寄ったり『類は友を呼ぶ腐れ縁』
いつまでも、『立場』も『考え』も変わらないで、『同じ面付き合わせてストレス』抱えて病んでは、そんな『病んだ者』を『スケープゴートの生贄』にして『新しい柵』を作って『群れを囲い込む』
それが『常識を盲信』して『思考停止な無知蒙昧の信者』が『儲』にされる『囲い込みの普通』の常態
『皆が苦しんでる』から『自分も苦しくて』当たり前
それは『常識』だろうか?
と『疑問を持った者』が、常識の中で、『皆を救いたい』と『自分を犠牲にして環境を変えよう』とするが…
その過程で、『群れ根性』、『他力本願』、『他人任せで右往左往する羊』は、『そういう性質から変わらないのだ』とやっと気づいて
『仏=ほっとけ』になる
常識とは『常に群れのリーダーになろう』とする『一部の界隈(帝王学)の常識』が有る『全て=無を意識する多数派』に植え付けられる
『羊飼いシステム』の『グレートリセット』
『策』を入れ替えて『柵(しがらみ)』を変えるショックドクトリン
『無=全てが有る』 の中に住み着いた『無の中での無意識』は『無条件』に命令に従う
だから、その『無の常識=無常』から『出てきた意識』というのは、無の中の『秩序という名のカオス(混沌)への執着』に興味を示さない
自然の中に『無(欲望を叶える空間)』があっても『気にしない』という『無為自然の磨かれた精神』になっている
これは例えるなら
子供の頃に『夢中になったおもちゃ』
思い出は『思い出』として覚えておくが
それを『コレクションして飾る事』もなく
それを『欲してる子供にあげる』ように
この『無条件の無意識の無常の世界』も『自由意志の無為自然』という『常識の外』に気づくと
そういう『精神が幼い子供の為』の『遊び場』
この『遊び場の中』でいくら『達観』しても意味が無い
『欲しがる子供達』が次々と出てくる
欲しがる子供達に『物(遺産)』を与えれば、それを『食いつぶし、「足りない!」と『他の子の物や事を奪おう』とする
『唯物の世界』はいつも『リバーステクノロジー』
『有る物事を解体加工』して『再利用の模倣の二番煎じ』、『素材が無くなる』まで食いつぶし続いた最後は『奪い合いのSDGSなハルマゲドン』
だけど『夢や想像力を遺産』として遺せば、それを『育み』、「足りないなら創ろう!」と『物や事を増やして』行く
唯心の世界は『無いから有る』を生み出す『精神テクノロジー』
根本のエネルギーの流れが
唯物は『空間の中へ中へ』と凝縮
唯心は『空間の外へ外へ』と膨張
そして『無という領域』から出て『無』とは『全て有るが与えられた空間』
項目 | 唯物(物質中心) | 唯心(精神中心) |
---|---|---|
方向性 | 収縮(内向き) | 拡張(外向き) |
エネルギーの使い方 | 既存資源を消費・奪取 | 新たな可能性を創造・育成 |
未来像 | 資源枯渇・闘争 | 共存・共鳴・拡大 |
『無(何でもあり)』の為に『自然が存在を許した仮想空間』
それを生み出したのは『唯心』と気づく
それが『ヤコブの梯子(メタファー)』という空間
ヤコブの梯子」は、旧約聖書に登場するヤコブが夢で見た天から地へと伸びる梯子のこと。 また、「Ascension」とは日本語で「上昇」を意味するが、キリスト教においては「天国に魂が昇る」ことを表しており、階段を登り作品を鑑賞する行為を通じて、答えの出ない「死」について問いかけている。
最初は『降りてきた』のかもしれない
好き放題、『夢を堪能した』かもしれない
しかし『満足』したら、『帰る手段』を求める
『業を回収』して『足るを知る事』で、足りないのは『元(ルーツ)へ戻る方法』だと気づく
最後は『魂』が『自力』で昇る
魂の『霊的精神性の成長』と共に
帰る為の『天へ梯子』を『自力』でかけて離れていく
…と言えばふわふわして掴み所がないように感じるのは『メタファーに合わせて表現』しているから
帰る為の天の梯子とは生まれてきた『宿業=始まり』の達成目的
「ここまでやったらOK」という『無の為の自然の意識』
つまりは『外からのサポート』と繋がる
外とは『無の外』にいる『無の中の自分を導く自』
これも想像しやすく例えると
いくらでも装飾可能で面白い(=^▽^=)
シンプルに言えば
『VR(無)をプレイしている自分』が、『目標をクリア』したから『VRを止めよう』という自分の意思で、『VRの中のキャラクターからログアウト』する(無為自然)
スピリチュアル的に言えば
『現実(無)を生きている自分』を『導くハイヤーセルフ(高次元の自分)』と繋がる事で『過去世の記憶(目標)』を思い出し、「あなたは宇宙から来た…スターシードとして星へ帰る」(無為自然)
私の場合は
『先祖供養=先の祖を人と共に養い』宿して、今まで続いてきた『夢での業の回収(死因・失敗の原因と対策実践)』、現実での『無為自然な行動(夢よりの使者の言う通り)』を振り返り
その『共通意思で世界線が集束』するように『明確なひとつの意識として集合する方向』へと向かう事が、いつの間にか『心から楽しめる』ようになったから
『心に素直に納めて悳』になる『漠然とした自然の無意識』に『身を委ねた結果』=運命の流れを『龍の背に乗る』として楽しんできた
結果、今
その『無と向き合う流れに集束』している
『無』という『入口』であり『出口』の向こう
『無我夢中だった世界』から
無我夢中に『その無意識』からでたら
無は『空間』であり
無の為の『自然(恩恵)』があり
無(わがまま)を許す心=『仏=ほっとけの世界』があった
これが『常識』という『無の中の意識』ではなく
『無』を『外から意識』した『無為自然の観点』
この世界は『仮想空間』であるが、『仮想空間だとわかった』ならば?
今までの『遊んだ業を回収』しろよ?という『ツケ(代償)の回収』がある訳です
そう捉えた時、『無の世界の一部の人達の役割』は、『おもちゃ箱の管理者』でもあり、『欲を満たそう』と『求める業』が強い人ほど
『金も地位も名誉も手に入れやすい仕組み』になっているけれど…それは多ければ多いほど、『羊飼いのしがらみ(柵)が多く大事なものから』失っていきます
最初に失うのは『家族』との繋がり
『血の結託』…というのは聞こえがいいけど
単なる『鎖(DNA)』に繋いだ『強制連帯責任』
『心変わりを許さない環境』は『牢獄と変わらない』から、次に失うのは『心』
そして、『それが全て』…だったものは、家族も心も失ってDNA核+ミトコンドリア→無垢なRNAとなり、『放浪の旅』の中で『様々な物事』に触れていき
徐々に『心を取り戻して行く過程』で、自分がかつて『失ったものの大きさ』、そしてかつての『血の結託』を裏切れない『地位や権力で失わせた他者への痛みや消えない傷跡』が
取り戻した『心』と一緒に抜けない『棘』、打ち込まれた『杭』のように、『一歩歩く度に自分を傷つけ苦しむ心』と向き合う事になる
これが『業の回収』
『死生観』を間違えていたら、『無の中の概念』を『無意識に盲信』してるから、その『後悔』を引き継いで、『次の人生という輪廻仮想シミュレーション』を繰り返す
『自らが行った業』によって『自分や周りへの痛みを痛感』する事で『改心』して、『その痛みを生まないようにする』という『戒めを魂に宿した強くてニューゲーム』
これが『無=全て有るの空間』の中に設定された魂が『無から出る事が出来ない集合的無意識』
『無』はやりたい事、欲する事を『具現化して有』にしてくれる『鏡のようなもの』と捉えれば
その無の中は『無意識』
その無の外は『無の為の自意識』
無為自然とはまさに『ありのままの始まりの自意識』
その自分が「見たい!」と求める『業欲』
それが『今』という『無の中の意識の自分』
『唯物』を求めれば、生み出した業の回収は『後世』に引き継がれて、どれほどの『恩恵と被害の功罪』を生むだろうか
『唯心』を求めれば、生み出した心は『自分と自分に共鳴する範囲』だけに影響し、それが『後世に引き継がれた』としても、『自分が望んだ方向性』からブレることは無い
つまり、無為自然の観点から、無という空間を『自然の一部として残している』のは、『無=何でも有るの思考シミュレーションの仮想世界を観測』する為
…なるほどな(´・ω・`)
そりゃ『夢の中で意識の旅』をするし、『寝起き閃ワードが継承』される訳だ…
『真の私』が興味を持って『観たいと探求したもの』を『無(シミュレーション)』として向き合っている
無を向き合っている時、真の私の意識は、無の中の『目的を達成出来る私の意識の中』に宿っている
『やるべき事がストレート』に伝われば簡単なのだが…『私の性格』が『真の私の反映』ならば…
『謎解きが好き』だからな(笑)
『答えが解ってる』時ほど、『例え話のヒント』を出したがる…という意味では『釈迦の説法(メタファー)』と変わらない
「さて、こいつはどう思考して、どう結論付けするか」(・∀・)ニヤニヤと『高みの見物』
『弥勒=表現の方法』を観て楽しんでいる
どちらも『自分』なのだが、『問題を解かせる過程』で、思いもよらぬ『想定外な表現が生まれる』と…
「Σ(゚д゚;)それも有りだな!」と『お釈迦様もびっくり』な観測可能な世界=『可能性』が広がり、『答えはひとつでは無い?!』と
『無の中』から『無為自然に意識』が戻りシミュレーションを終えて『無いを有るにする創造の実行』をする
その時は『そこが現実』になりその時『無の中の意識である私』は
『夢を観る』のかもしれない
これは『常識の話』ではない
『無』を『常に意識』している『無意識の中の人』にはわからない観点の『多次元』のお話
多次元の『無為自然の意識』からすれば『無の中=全ては2次元の投影(VR)』
そうか、これを説明する為に先に『フラットアース』の話が来てたのか(抜け目ないヒント)
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