人魚姫の伝説、陸の人と海の人、相いれない種族観の異端恋愛話・・みせかけて、実は戒めの説法になっていると気づいた、一緒になると和は水の阿波になるお話
一緒になると水の泡=人魚説法か!
水の泡として消える…だと?
前回、私の中から『八百万の神』という思い込みが消えた
自ら然るべき体現をした=『自然体』
思い込みの己の心=『忌』がひとつ消えた時
触れたら弾けて消える『水の泡』
底から水面に上がり『空気』に触れたら消える
空気になる、『環境に和する』とは『形はお釈迦にお陀仏(崩れ去る)』という事なのか…と感じた時
水の泡と言えば『人魚姫』
海から陸に上がって『魚が人』になる
魚人のウオンチュの want you=「あなたが欲しい」
…という『夢物語は水の泡』になって消えるお話
もあれば、その陸に上がった『人魚の肉』を食らって『永遠の命=不老不死伝説』…っていうのも…なんか『八百万の神アルゴリズム=何でも有りの八百長』と似ている
無いものを有るにする説法
つまりは「有るかもしれないよ?」の信じるか信じないかはあなた次第です!という、『寺男(長老の俗称)』のTERRORな話
『水を得た魚』という環境が活かすのが『陸を得た魚』は…陸に打ち上げられた魚のように
『まな板の鯉』は「さぁ、煮るなり焼くなり、貴方の好きに料理してちょうだい!」
でも『袋叩き(粉々のすり身)』はやめて(´;ω;`) Σ(゚д゚;)タンノ君?
人魚なんていたらそりゃ『化け物』だが
その化け物の『姫(可愛さ)』が着いてたら?
この辺から私は疑う
昔話は 『太郎』がつく傾向が有る
桃+太郎 浦島+太郎 金+太郎
太郎という漢字は
『太極につとめる者』という意味でもあり
それぞれ『何かを言い伝える継承物語』
その太郎と『対』をなすように
『姫』という『物語が多い』のも意味深い
姫とは『女の臣』であり
主君に仕える者。統治をうける者
この『太郎アルゴリズム』は
太郎は『男の目線』で見る
姫は『女の目線』で見る
そうなると『人魚姫という物語』は
『人と一緒になったら消える』という
『人の世界』と離れ『静かに暮らしている領域』
つまり『争いのない空間を海』とするなら
『人の世は争いの世の陸』であるとする
『和を以て貴しと為す』という『足るを知る環境』にいながら、『争いの原因』である『人の世界に行こうとする夢』を見る
そこは『和のない世界』だから、その『禁忌』をおかせば『泡となって消える』…というのは
『人に恋した人魚が消える』のではなく
『争いを故意に求め和が消える』という意味
『阿波』島が生まれたのだとしたら、それは『争いが生み出された』という意味であり
「いざ!『波(動)』を『凪()静』に起こした事で『和を失った侵略』が始まって行く…
阿南は無い=南無阿弥陀仏
『阿南無き(アヌンナキ)統治』の始まり
慌てふためく
慌てて蓋を捲る
『地獄の蓋』を開けちゃった
人魚は『人』になったら
『魚だった人』は『魚を食う人』をどう思う?
『元魚』だったのに『魚を食う魚』をどう思う?
『人』から見れば対した事は無い『食事』
だが『物語』が伝えたいのはそう言う事じゃない
「同族はどうするんだ?裏切り者よ?」
『人魚姫』が『人になる』とは決して『美談』ではない
『陸』に上がったら『魚と縁切り』
『海』に戻ったら『人と縁切り』
元々は知らなければそんな『欲望』も抱かなくてよかった『足るを知る状態=知らぬが仏』だったのに
『和』を乱す『分離』、『自分』として『我が生まれる』という事は、その『業を納悳』して『自ら然るべき形』で執着を手放して、「もう二度とそれは求めない」という『けじめをつける』まで
『元には戻れない追放』でありそれは『形有る関係性の消滅』を意味する
『水の泡』になって消えたのは『和心』
『人の世の争い』に巻き込まれて『和』を失った
人の世の争い=『攪拌、かき混ぜ』
『凪の穏やかさ』に『波』が生まれて『泡・阿波』だった
『あわだった』…この音の響きは『八大龍王の名』にありそうだ
阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)はユタ?
* 難陀龍王(なんだりゅうおう)
* 跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)
* 娑伽羅龍王(しゃがらりゅうおう)
* 和修吉龍王(わしゅきつりゅうおう)
* 徳叉迦龍王(とくしゃかりゅうおう)
* 阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)
* 摩那斯龍王(まなしりゅうおう)
* 優鉢羅龍王(うはつらりゅうおう)
ふむ( ・・ )こいつか?
阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)
阿 始まり・紛争を示す
那 琉球王国?
婆 波の女達
多 波羅蜜多
これは『尼の集団』か?『尼かける龍の閃き』か?
『琉球』には『女性しか入れない神域』がある
ここが通称、『女人島の人魚姫=預言者(ユタ)の里』なら
ここから『足抜け=男と逃げる』みたいな、『尼』としてひっそり暮らす『和を乱す事』によって『尼目当てで男が集まる穴場』に起きた悲劇
と、言えなくもないのが沖縄にはこんな島がある
「アダマとイブ伝説」が残る古宇利島(こうりじま)が有名です。この伝説は、沖縄版のアダムとイブにあたる男女がいたとされる場所として、生命の誕生や恋の島として語り継がれています
私は以前、この南の地方の女性絡みの夢を見た事がある。どちらも水の龍・女性絡みだった
伊那島の女=『イナンナ』と言う取り方もでき、基本的にそれぞれ『和』があったと思うが
『二つがひとつ』になろうと『どちらかの形や色』を変えてしまう事によって『元々の和は消滅』する
『消滅した先』に『別の和は生まれる』かもしれないが、『今までの和は消えて別物』になるから
『求め続ける』限り『永遠に足るを知る事が出来ず』に、『和を見出し乱し続ける水の泡』の繰り返し
さて、ここで物語から外れて
普通に哲学的に『人の縁』というものを考えよう
『結婚』とか『一緒になりたい』という相手
もしそれが『最初から家族』だったら?
『遠い昔の繋がり』があって『今は形が違う』けど『一緒』にいる
それが『縁の距離感』なんだと思う
でもそれが、『求める和ではない』と『満足しない』から、変化、満たされる何かを探して『異性=異なる性質を取り込もう』とする
これは先日、床屋に行った時に店長が話していた面白い話
人は『自分に合う髪型を選ぶ時』もあれば「似合わないけどやってみたい!」という髪型もあるらしく
それが『ドレッドヘアー』で最低でも20万するらしい
ドレッドヘアーにしたら毎日髪を洗ったりせず2日に1回にしないと髪が膨張して『アフロ』になってしまうらしい
忠告しても『習慣でそれをしてしまう』という日本人は一度ドレッドヘアーにしたら『もう二度としない』との事
黒人がドレッドにするのは元々の長時間太陽に当たる髪質、雨が降らない地域、そこで生まれた『編み込みの文化』だから
『真似』した所で『土台のベース』が違う
故に黒人が日本にきて『梅雨の気候』では髪が異常に膨張してアフロになるし、日本人がアフリカとか行って長時間頭皮を晒していれば『髪への乾燥ダメージは半端ない』ように
お互いにその『先祖代々で受け継がれてきた環境適応能力』が『生理的に無理』と判断し、結局は『元に戻る』為に、『異性と一度試してみたい』という衝動は
『欲望を満たす過程では必然』だが…それは結果的に『和にならない』という『足るを知る状態』に落ち着く
『婆羅蜜多=波の女達多=琉球のユタ』、ここが釈迦の教えに感銘を受けた八大龍王のひとつ
『阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)』の『統治した場所』だったのではないか?
故に『廃仏毀釈』で『琉球王国は滅ぼされた』のか?
まぁ、『形』ある物は『お釈迦様にお陀仏』で知る由もなく
だが…それを海を越えて『落ち延びた姫』
『尼が伝える波女の物語』とするなら、各地の水場、大和の降り地=『八岐大蛇』として、『水と蛇が合体してナーガ』という『尾ひれ背びれが着いた化け物』にされて行くのだろう
『人魚の肉』を食ったら『永遠の命』?
私はこれも『説法のひとつ』なんじゃないかなと
そう、釈迦に出逢った八大龍王が守護龍になるとは、『未来永劫その意志を語り継ぐ流れ』になるという事だから、『形』は無くても『釈迦は永遠に人の説法の中』に生き続け
その釈迦の生き様を、莫迦のひとつ覚えの耳学問ではなく、実践して取り入れる者に『意識が宿る人器』が生まれる
そこには『性別』は無い
『性質』があるだけ
『釈尊』だろうと『釈迦牟尼』だろうと
『語り伝え生み育てる』のは同じ事
ただその人の語る釈迦が
胎蔵界=自己を労る=『和を以て貴しと為す』か?
金剛界=競争、争い、『騙し合いを勝ち抜く悪知恵』か?
大日・釈迦/『金輪際の見極め』が無いと
和を以て貴しと為す為に
争いや競争を避ける事が出来ない
『相手の土俵』に乗ったら『八百長相撲』
『八百万の神』=『中身は誰も分からない数』
数より質か?
質より数(八百)?
『質』を知ったら『足るを知る』が
『数』を知ったら『有象無象の嘘八百』だ
『こだわりの質』の中に『適当な数で水増し』したら?
今までの調和が水の泡
混ぜるな危険、元が消えてなくなるよ?
さて、これは何に対するメタファーでしょぅね?
こういうの自己解釈して読み解けるようになると
違う世界の見え方・捉え方ができるようになる
そうやって自力で身につけた観点は水の泡として消えない
人の世界も水の世界もあの世もこの世も見通す目を手に入れる
ま、『見る』だけなんで、行きたいと思ったら・・
形は全てお釈迦でお陀仏して粒子になって手放すしかないかもね
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