好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

蜘蛛の糸が伝えたかった意図

芥川龍之介の蜘蛛の糸が気になって読み返すと、そこにはお釈迦様の話=説法があったので、これはメタファー=隠喩として真を法華経で訳詞如来してみると・・

蜘蛛の糸

なぜか、突然、芥川龍之介の蜘蛛の糸が気になった

蜘蛛の糸

ある日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。はるか下には地獄があり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。

犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。しかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったのだ。

そのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。

血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼった。

地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀多は糸の途中にぶらさがって休憩していた。しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。

すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていった。

この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去った。

ここまでで、芥川龍之介の伝えたい糸=意図は以下のキーワード

釈迦
犍陀多
血の池
蜘蛛の糸

罪人
悲しい

まず釈迦とは、それ自体が

釈=問題を解決する
迦=巡り合う

犍陀多の犍は、去勢した牛
この感じは犍稚=仏教寺院で、時刻を知らせ、また集会の合図として打ち鳴らす器具にも使われる
稚は年若い、成長していないという意味で捉えると

子種を断たれた牛若丸?
牛に乗ってきた少年?

そうなると、東北は牛頭天皇、というネガティブイメージから一転して
陀とは、悟った人、多は悟り多い人となり
牛に乗って農耕の術を伝えた若者が、牛を建てる悟り多き人=かつての釈迦

血の池とは、釈迦の場合、血筋、血脈の争いという可能性もある
サカ族という伝道者の一族でも優劣や競争があったと考えれば

若き時はまだ血の争いに囚われていたとも取れる
蜘蛛の糸、ここが鍵となる

蜘蛛はそれぞれ一語でどちらもくも
虫編は忌み嫌われるレッテルで置き換えられている傾向があるため
虫を無視して読み解けば、知る朱となり
朱を辿れば、自然の法則を伝える老荘思想に辿り着く

つまり蜘蛛の糸=辿る道=意図であり、芥川龍之介もまた、この意図を辿ってほしいと導線を導いている

ここで牛頭天皇、牛に乗ってやってきた青年に繋がるキーワードが
その蜘蛛の糸=自然の法則の糸は銀色である事

銀とは金と艮(うしとら)と書く
丑寅の金神=鬼と金棒

そして、その彼の後を追う=慕ってついてくる罪人とは、頭目亡き後も頭目の意志を継承して血の争いを行い続けた屍の山を罪人と呼ぶ
リーダーが最初に始めた罪を延々と続けていくのだから向かう方についてくるのは至極当然

罪人であり、『監視の目の下』の『非人』(人にあらず)
その非人を見ている目が蓮池のほとりを歩く『釈迦』

人に戻してやろうと「自然の意図を辿りなさい」と差し伸べた時
天への繋がりを独占・一人=大・占め=『奌(けがれ)』

非の心=人でなし
意図の線は『天』と『奌』に分かれた

これは『釈迦の心象風景』と言える
釈迦=『以前は犍陀多=牛に乗って知恵を授けにきた悟り多き者』

これだけで、『地域が絞れる』のが面白い
環境こそ地獄や極楽という『景色』にしてはいるものの
大事な『説法の要点』は、『接点のない二人』の『何気ないシンクロ』

そのことを『思い出した』お釈迦さまという言い回し

その『地獄の罪人』を観て、気にかけて『知らべた』や、彼の様子を『聞いた』などの情報はなく、『お釈迦様の中で思い出した』という観点

これはなぁなぁの盲信仏教門下生の教義の中では、お釈迦様という存在はなんでも丸っと『三千世界の衆生の事はお見通しのスーパーマン』だから、できない事はないのだ!という『思い込み』でいいんだけど・・

門下に入らず教義にも疑問を持つような『リアリストな文学者』だったら、なおさら『思い出した』という表現が『重要なターニングポイント』

思い出した=経験=『自分』
『自分の行い』を思い出し、『あの時の自分』に『救いの手』を伸ばす

それを『思考シミュレーション』してみたら

「あ、やっぱあの頃の自分には今の自分のような観点なんてなかったんだ・・」

『他人(過去の自分)の意識』は変えられない
変えられるのは、それに気づいた『今』だけなんだと

蜘蛛の意図=『朱を知る=自然法則』を『自らの経験を例え』に伝える釈迦の説法

こういうのが、( ゚ ρ ゚ )ボーっと放心しているとたまにポーンと浮かんでくる

放心という方針が正邪の更新を見抜く観念と相似

では、『自分』がもしこの『犍陀多だった』としたら・・どうすれば『釈迦が求める最適解』だったか?それを思考シミュレーションしてみたら・・

先世見して糸を譲る

『助かる糸』に見せかけた『本性暴くトロッコ問題』
『貴方一人が助かる』か、『皆で地獄に落ちる』か

先にも洞察で述べたけど、『始まりの一人=教義の開祖』になるという事は、『自分の死後』もずっと『その教えの道を追ってくる信奉者達』が後を絶たない

『ファン』は『不安』だから『安心』したい為に『発言や行動』を見て『真似』する流れは『何処までも止まらない繰り返し』を産む

『大いなる力』には、『大いなる責任』が宿る

『1人で助かる道』を選んだ先は『皆も同じ事』をして『糸が途切れる罠』
その『結末・事の顛末(一巻のおわり)』を知ってたら、次は誰かに『蜘蛛の糸を譲る』だろう

「一人ずつなら登れそうだから、落ち着いていけよ!」と『下』から見送る
そうすると、その『救われた者』が『感謝の念』で『助け出してくれた人を救いたい』と『糸を垂らす』だろう

そしたらまたそれを誰かに譲って『見送る』を繰り返すと、どんどん『天から蜘蛛の糸』が増えてきて、そして、もう地獄に『自分以外』誰も居なくなったら、その空間は『一人』

その『行い』こそが『仏』

『地獄』と呼ばれた空間に『仏一人』の『地獄に仏』
『救い上げる』とは、仏自らが地獄に降りて『下から上へ』と押し上げる『縁の下の力持ち』

慮る 重ん場軽 幽閉の向こうで…

『仏』のままじゃ『穢れ』の中には降りられないから、極楽から地獄を『憂う人=優しさ』に秀でる『優秀』な人は『衆生』を救いたいと、また『自ら地獄に生まれる事』を望む(一人一)

他人(過去・未来の自分)は変えられない

これは・・凄く『単純な説法』なんだけど、『それができるか?』と言えば、難しいかもね

喩えるなら、資本家たちが、古くなった豪華客船をわざと沈めて、『保険金で新しい豪華客船を買い替える』為の、『人為的な理由』で『沈没していく事を知らないタイタニック号』に乗ってたとして

救命ボートに大量の人が乗っている中、自分が『安全圏を確保』していた状態で、誰かに『その位置を譲って自分が残る事』ができるか?

と、同じ事

綺麗事は云えるが、『切羽』詰まった時に『それができるか?』が試されているようなもので、その時が来たら『誤魔化しができない心の本性』が現れる

心に素直に向き合った時、『邪』が出るか『鬼』がでるか・・はたまた『仏』がでるか?
釈迦=問題に巡り合い解決する力は試している

虫は殺さない犍陀多=『自然は好き』でも『人は嫌い』という『線引き』をしてしまった
『差別がある=『差取り』が無い』から、まだ『人に非ず』と目を付けられる=『罪人』
             
『非ずに心』を向けなさい=『忌・レッテル・罵倒の対象』、それは『貴方に成長と気づきをもたらす試練』です・・と悲しい顔になったとさ

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top