神社から宿した言葉『神妙な面持ち』、薬師如来像から宿した言葉『拠り所を失ったら』、空間と調和する域を引き取る呼吸で繋がる内氣と外氣の調和のお話
域を引き取る呼吸=調和
雨の中、いつもの神社に参拝(一人一)
色んな報告と今後の方向性の兆しを受け取り(感覚的に宿す)、神社の外の薬師如来像にも参拝(一人一)
不思議な事に、あれを報告しようとか、これを聞こうとか頭で考えていた事は
アチマリカムを『三回心で唱える』過程で忘れてしまう
アチマリカムはカタカムナで読むと
命の凝縮した受容から離れ力が広がる
私はアチマリカムとそのまま31回呪文を繰り返す事はせず、カタカムナで、呼吸と動作の流れを自然に合わせる
三回唱える独自の理由は
1度目は念を波動として空間に放つ『送信』
2度目は周りからの反響の『受信』
3度目は空間との『調和の確認』
これは『今の内氣』を放ち『外氣との差』を確認し、それを『体に取り込んで中和』して、内外の氣を同じ波動に『安定』させる事で『空間と調和』し三度目の時は『呼吸が楽』になる
これは私の体感ではこの『領域の息=自らの心』を 引き取り、その『心の意志を波動』で感じ取り、自分の内氣の氣を『揉んで整え調和する事』で『居心地』が良くなる=息を吹き返す=『空間に調和』する
決して『神の声が聞こえる』とかの対話とか会話とか西洋的なチャネリングでは無い
ただその『調和した内氣』から、『兆し』となる『閃が生まれる体験』が多いから、受け止めたら
『果報は寝て待て』
この『果報』も間違いだな
『幸せに反する事』では無い…いや『願うを間違えてる人』は果報なのかも『試練』
私は『果方=果の方=向かう先』、あるいは『可法=可能な方法』
『自らの心意気』を伝え、『領域が応えて』その自らの『心の向かう果て・それが可能な方法』を寝ている『夢』で見る。しかし、『自分勝手な願い』を『一方的』に『その領域の息を無視』して『吐き散らかして帰る自己中な人』には
果報=果ては『幸せに反するが報い』となって巡る自業自得の因果応報だろう。だから下手に神社や寺に近づくなというのも、『行く理由』が無いなら行くなという事
パワースポットだの情報操作や形だけの礼儀作法という『騒音』を出すパーン!Σ(゚д゚;)という『空間の調和を乱す動作』など間違いだらけ
『静かな調和の領域』の『穏やかな旋律』に
『柏手』という『破裂音の戦慄』はいらない
今日はそんな話がしたい訳ではなく、そのスッキリさっぱり神社の産道から戻る過程で
『神妙な面持ち』という言葉が頭に浮かんだ
今の自分の顔は見えないのに、面持ち?神妙な?
通常とは違う何事かを事情として抱えていそうな様子. 神妙な面持ちで~; 意味ありげな様子で~
うーん(´・ω・`)なんか違う〜Σ(゚д゚;)
神妙は「けなげで感心なこと」「すなおで、おとなしいこと」(明鏡3版)。 「神妙な心がけ」「神妙にかしこまる」などのように使われます
うーん(´・ω・`)全然違う〜 Σ(゚д゚;)
そもそも『神=概念』って捉える所から間違ってるんだよね
神とは昔は『示申』って書いてて、何を示し申すかと言えば『心の内』なんだよね
で、ほとんどの意味が『〜のような』、とか『〜ありげで』とか、『客観』の意味ばかりで『主観で語られていない』から間違うんだよ
神妙な面持ちという言葉が浮かんだ時の私の心の内は、『心が妙』だったんだよ(笑)
妙とは
不可思議なほどすぐれている。巧みである。きわめて美しい。善美の極。たえ、若く美しい
しとしと降る雨の中、周りは静かで人も居ないから『人目も気兼ねも何も無い』
『その空間と私一人で調和』してスッキリした
『天気は優れてない』が『心は晴れ晴れ』した
だから何だこの『妙』な気持ち?が面持ちに現れた?いや面は見えないから『おももち』も違うな?(´-`)oO
思持ち?重持ち?千里をかける
神妙な心、『気持ち』を持っているから『思い持ち』でも間違いでは無いが、『重持ち』でも間違いでもない理由も浮かんだ
重=千里
虎は千里をかける
あらゆる方向に気配り、慮るという気持ち
虍は上が与えた七つの自然エネルギー
日月火水木土風
千里をかける思いを持つ心
=心妙な千里をかける気持ち
私は先日の『不自然な地震』もまた『気づきを促す波動』だったのではないか?と『白龍龍神』に問いかけた(一人一)
今まで親の代から『起きた事が無い所に地震』
その場所は使用済み核燃料を再処理するという『原子力に関わる重要な場所の目と鼻の先』
「放射能が漏れました!」と国をあげて『国家戦略特区の地上げ』を初め、『強制退去の帰宅困難者が生まれる3.11』のような、『福島地上げと同じ事』ができる環境が下北にできてしまった(とりあえず50年)
外国で作られた使用済み核燃料という『自然破壊のゴミ』を押し付けられ『汚される場所』になる
『その果てに待つ世界』は望むものでは無い
という事を『この地に生まれた者』が、『違和感や気の所為』で終わらせないで、『向こう数百年から数万年の業』を背負わされる『子孫達への重い思い』に気づけ!…と
『促す気持ちが生まれた事』が、私のこれから創造する『この世界ではない別の世界』には『決して創造される事は無い戒めの鬼』として『宿った』という事
『不自然な地震一発』で『心に戒め』が生まれた
『愚弄場リズム』は『人を虚仮=魂抜き』にすると『相似』した
国歌『君が代』が伝えていた コケとは苔ではなく『虚仮』だった
人を虚仮にする『愚弄場リズム』が途切れるまで『巌』となって細石を『流れから護る精神的な役目』
『相似』したらもう『掃除』完了(*`・ω・)ゞ
気づきを有難う(一人一)と
これが神社を出る時の心妙な重い思い持ち
=『千里をかける慮る(おもんばかる)気持ち』
心にしみじみ『雨が染み込む』ように私は心地よく感じ『涙』がうっすら浮かんでいたが…そのまま薬師如来像にアチマリカムで調和した後に、浮かんだ言葉は
拠り所を失ったら…?
寄り所?(´-`)oO私は毎週生活用品を買いに出る時に夕方に参拝に行く程度なので、その『寄り所』である薬師如来像が撤去されたりすれば私は『どこに寄る』のだろうか(´-`)oOと一瞬思った
拠り所の場合
頼りとするところ、支えとするところ
ある物事が成り立つもとになるもの
根拠となる事柄
薬師如来、仏教的な概念で言えば、『立場、役職・役割』だが、『生き様』的に見るならば『薬師』
『自らの身体』を元に『様々な毒を体験』して試し、その『毒への対処法』を『自然の生薬』から見出し調合したりして、人々を『痛みや苦しみ』から『癒して来た知恵』の存在
『教えは知識』だが、その『事の発端』の、『自ら毒を体に取り入れて見ないとわからない』という『好奇心と探究心の怖いもの見たさの挑戦者』であり『問題を知り克服するという達成者』であり
『達成した』からこそ、それを『知識として伝道できる』という役になった、『誰もやらない事をやる愚者』から、『誰もわからない体験を語り伝える賢者』になった存在
『体験した事』を『自分の中で変換』して『訳して伝える』
妙見狸ᐢ⓿ᴥ⓿ᐢはそこから宿し生まれた意識
それが現代は『心の病の原因は情報』であり、『病は情報・噂を気にする所から入り込む』。その情報に『心を蝕まれない』ように、『心を強く持つ』為には『精神に鬼(抵抗・門番)』を宿す
仏の顔は『三度』まで
善悪中立の『正三角形の安定』
その『中立から邪』が現れたら『四角の世』
『角が立つ世界』は『鬼が中立の心』を失わないように『邪を抑えなければ』行けない
その『仏=釈迦』というのは
釈=問題を解決する
迦=巡り会う
存在ではなく『意味』であり、『忌み』にすることで『使命』だった
鬼は『その教え』を云う『魂』となる
だが、『邪と向き合う鬼』であると『円・縁』から離れてしまう。善悪も中立も邪もない『角の立場』が無くなった『円の世界』には『鬼の居場所』は無い
『鬼(仮想敵)』や『仏(使命)』という『心の拠り所』
それを失った人は『路頭に迷うロト=囚の伝説を語り継ぐ者』になるかもしれないが
「遊び人よ、遊者よ、アソベの民よ、お前は賢者になるな。お前に取ってここは拠り所(依存)ではなく『寄り所(通過点)』。立場が無くなったら、『寄り道の終わり』。もうここによる必要も無い。『学び』を終えたら『卒業』して進みたい『兆し』を追って進め
『重力=千里力』から『釈迦力』で『逃』げる事に『挑』め(๑•̀ㅂ•́)و✧
逃げるとは『兆しの方へ進む』
『手探り』で兆しを探す『兆点』だ
…という気づきと閃が
神社の産道を戻る道で『神妙な面持ち』で…
薬師如来から離れる時『拠り所を失ったら』で…
この『感覚』が『心に宿った』訳で
『意味』で捉えると『ネガティブ』だが『忌=己の心』で捉えるとポジション(立場)なきポジティブ=『未だ来ない存在空間の意見』になる
『意識』して『見る世界』
千里を慮る『釈迦力の創造空間=一念三千世界』
空は曇天の雨なのに
心は晴れ晴れ愉快
やはり『心妙な思い持ち』である(一人一)なんじゃこの感覚
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