好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

少林寺の看板から気づく古き日本との共通点

現在左から書いて左から読むのが当たり前の中、かつては右から書いて右から読んでいた(昔の日本)。それと同じように右から書いて右から読むのが・・『少林寺』?!と気づいて、かつての日本人の精神性と身体能力がずば抜けて高かった理由がなんとなく気づいてしまった話

少林寺は『右』から読む・・

最近、私のyoutubeのおすすめには古武術や武道の達人系の動画がたくさん出てきて、ちょこちょこ体を動かして実践すると・・なるほど!そういう事だったのか!!と役立つ気づきを得られる中・・

この少林寺の動画を何気なく見ていて気付いたのが、元祖少林寺の道場の看板は『右』から書いて『右』から読んでいる

そこで、右から書いて、右から読むというのは、戦前の日本の名残でもある、現代の左から書いて左から読むというのは、明治以降、西洋文化が入ってきてから

という事は、戦前の日本、西洋が入ってくる前の日本は少林寺と関係が?とおもって深堀考察を始めると・・

おもしろい観点にたどりつきました

少林寺は日本発祥!?

Q:少林寺拳法は日本が発祥の地ですよね?中国の少林寺とは関係ないんですよね?あと創始者が亡くなった時に、極真みたいに何故分裂が起こらなかったのですか?

A:少林寺拳法は日本が発祥で間違いないです。ただ、『少林寺拳法の開祖である宗道臣』が中国にいたころ『義和門拳』を学び、『北少林義和門拳二十代師父』の『文太宗に師事』し、のちに『二十一代を継承』したと言われています。

なので『義和門拳のエッセンス』が入っている為、全くの無関係かと言われるとそれもちょっと違うのですけど…。「生まれてから数度しか会ったことが無い遠い親戚」みたいなものだと思ってください。血を分けた兄弟、というほど強いものではないです。

『二代目の座が開祖の娘』に継がれたときに分裂しなかった原因としては、当時の上層部の「開祖への義理」というのが一番の理由だったのではないかと思います。逆言えば、それだけ『開祖が慕われていた』ということなのだと思います。

それが良くも悪くも『少林寺拳法という団体』を大きくさせ、また『武道としての矛盾』を生じてくることになるんですけど…ここでは割愛します。

ただ先の方も仰っているように、決して一枚岩というわけではありません。あくまで『二代目継承の時に分裂しなかった』というだけで、いままでに多くの方が少林寺拳法を離れています。それは国内だけに限らず、最近では『英国連盟の脱退』など大きな揺らぎも出ています。

また『拳士の減少』も目立っており、少林寺拳法が抱える課題は決して少ないと思います。組織が大きくなれば問題も出てくる、ということなのでしょうね。

なるほど『義和門拳』という名称の武術という事は『義和団の乱』として各地で起きた、神を体に降臨させて戦う『神憑り戦闘集団』からの派生であり、その北少林義和門拳二十代師父に師事を受けて北少林義和門拳二十一代師父として日本に渡り、少林寺を開いたという事であれば・・

少林寺拳法は、『義和団の乱の前』ではなく、『その後の流派の派生』で生まれているという事は・・『義和門拳』が先であり、その中にも『和』の文字が含まれている事

そしてこれに『右から読む』という観点で捉えると『和義』

適切である。正しい。人としての正しい道筋。かりの。実物の代わりとなるもの。血縁でないものが結ぶ血縁同様の関係

なんか『国』を超えた『熱いアジア奴隷解放同盟』のような『響き』を感じないでしょうか?それが歴史では「義和団っていう神の名を騙るカルトがいてな?w」と嘲笑するかのような『勝者(商社)の歴史』では『死人に口なし』なんですが・・

『義和団』についてや『開祖への義理立て』の話も含めて、ワンピースの革命家フィッシャータイガー、義理立てのジンベエと『太陽の海賊団が引き継がれる』のに似ている訳で

ワンピース魚人編で気づく『明』の意志

『右から書いて右から読む』というのも、和義は『大陸の東』からやってきた『血縁でないが血縁同様』義兄弟の関係が『助太刀に来た』という『名残』だとしたら、義和門拳の『和義』は『少林寺』になっても『決して忘れない』?という意図なのか・・

少林寺

だとしたら、現代の二代目以降の左書き読みの『西洋式の看板(動画の中でも少林寺の広がりの所で見れます)』は・・『理屈優先の体術』になってしまった少林寺・・どこか重みがない・・

少林寺

おそらく『右から読む』という事に強い『祖の意志』があったと過程するならば、左から書いて左読みになる『学問スタイル(洗脳教育)による弊害と目的』が直観的にわかった

左から読むのは左脳解釈が強く右脳を黙らせる

これは私が脳および三半規管が狂って、分析や解釈、『記憶の参照ができなくなった時』に内観して気づいた『体感論』だが・・

独自体感論 音ズレは脳の知覚を狂わせツボが効く

人間の脳と身体はなぜか『螺旋のようにクロスして連携動作』するが、『脳と目は一体』であり、『目』でみた方に『身体能力は影響』を受ける

右目を軸に物事や問題に取り組む時、受け身ではなく前のめりで『前進、肯定、挑戦、好奇心、意欲、熱血』、「やってやろうじゃないか!」という『強気に構える』が

左目を軸に物事や問題に取り組む時、後ろに引いて受け身となり『後退、否定、逃避、無気力、諦め、冷める』、「別にいいや・・」という『弱気に構える』傾向がわかった

これは『意識』してどうにかなる訳ではなく、要は最初に『視認』した時に『動く脳に左右』される

独自体感論 左右の書き順と脳の不思議

その観点からいえば『左から書き、左から読む』というのは、『無意識に受け身』になり、小癪な『分析』が働き、『鵜呑み』、あるいは『反発』し、納得いかないまま、『ストレス』を抱え、まぁいいや、そんなもんだろうとなぁなぁの『思考停止』になる

「右も同じだろ?」と考えるのが、『左脳の愚か』な所で、右脳と左脳はまったく『役割が違う』のだから『発生する効果』は左脳には理解できない

同じ文字なのに『右から読む』のと『左から読む』のでは違う意味になるだけじゃない、直観的な『感覚で文字を読む』と『与えられた意味』だけに囚われない

右脳の直観的な『肯定して受け入れる』、凄いものには『凄い』と!『素直に反応』して『取り入れ』、納得いかないものは『納得いくまで』とことん向き合う『意欲』が生まれ、とにかく『前へと前進する』ためのを『問題を解決』するための行動を『努力』とも感じない

その『感覚』を呼び覚ますのが『右から読む』という『文化が定着』していた事に関係する。だから『今』でいう『文武両道』は『左書き左読み』によって『左脳優先で弱体化の一途』をたどる

ブログの書き方にも『Z』の法則という人の『目線の移動』をよんだ『広告設置テクニック』というのがあったように、左書き左読みか当たりまえに定着してしまった今、『無意識に使うのは左脳』になってしまい、また『行動』もそれを『定着させた側』にとっては『先読みしやすい』という訳だ

つまり『支配者にとっては洗脳しやすい』

別にそれが良い悪いでもなければ、ただの『消された文明の歴史の痕跡』であったと気付くだけの話で、どうして『今は当たりまえ』と言われている事が『当たり前』に変わったのか?

そういう『古き文化』はなぜ『今と違った』のか?それを知らないまま『左から書かせて左から読ませる』を定着させた『西寄りの支配者のやり方』に納得できない私は・・

もう1年くらい前から『ローマ字打ち』をやめて「かな文字打ち」に変えている

日本語は『50音』、なのに『1文字打つのに2~3回の無駄なタイピング』が求められているが、『かな文字』打ちなら『1打1文字』で終わる

uywteqt0t.?

↑ なんて書いたかわかる?とかな文字で打った

これも『右脳で直観で感じる人』なら、即座に『指の位置』からビジョンが浮かぶだろう。日本人はかな文字打ちするだけで『最強のタイピング速度と暗号セキュリティ』を持っているようなもの

合理的かつ効率化の目線でいえば、それが当たり前なのだが・・それに今更変更できないといって無理を通して道理を引っ込ませる『ローマのバビロンシステムの奴隷』を受け入れている

当然、『左脳が体コントロールする権利を得る』のだから『与えられた情報』から『分析』して『判断』して『できる、できない』という『小癪な解釈』でミスリードされた結果の先で、『最悪を避ける選択肢』を探し出そうと『後』を向く

やってみねぇとわかんねーよ!
やってみたら以外とできた!
これができるならあれもできっかもしんねー!

こういう『量子的可能性』を見出すのは『右脳と右目が体をコントロール』し、無意識に最大限の『肉体と心の力』を引き出す時

私の『閃き』は『右脳』が働き、『右目を軸』にして物事を捉えた時に起きるケースが多い(体感論)。だけど、右目ばっかりだと『空間把握のパース』が狂って『現実にピント』が合わなくなってしまうので、そこは『バランス』(゚∀゚)アヒャΣ(゚Д゚)

『ルール』という『社会常識の中で当たり前』になって『無意識に行っている事』ほど、いったん離れて、距離を取って『全体的な影響の及ぼす範囲』まで離れないと『見えてこない事』がある

右書き右読みの活字の本と、左書き左読みの活字の本、『読み比べ』て『脳の疲れ具合』を比較してみればいいかと

おまけ 少林寺にナチスと万字?

少林寺
少林寺の開祖の宗道臣の名がついた書籍の表紙に、万字とナチスのマーク。昔なら単なる目を引くデザインや模様くらいに思っていたが、これが組織を表すシンボリズムだと気付いた時

今の少林寺は、ロゴが変わってなんか四方から囲まれ、中央の白黒の00がお互い繋げられて(でも混ざらなくて・・)いる感じ

少林寺 ロゴ

これもワンピースで例えるならば、少林寺が二代目(ジンベエ)以降、拳法家(アーロン)も離れていって気が付いたら、魚人海賊団がホーディになってたみたいなそんな表現ともとれるけど

まさかこの本を読んだ人のレビューにも『ワンピース』を感じ取る人がいたとは(゚∀゚) Σ(゚Д゚)(導かれている人たちはこうやって人繋ぎのワンピースになっていくのか)

ワンピース

開祖である宗道臣が万字とハーケンクロイツを重ねたのは『武の根幹』には何があるか?という事を伝えるために書いたのだとするならば

おそらくはその少林拳の『開祖』しか語れない『北少林義和門拳』そしてそのルーツとなった『義和団』がなぜ戦う事になったのか?そこに『万字』と『ハーケンクロイツ』の対極の構図があるのか、はたまた『表裏一体』という事を伝えたいのか

いずれにせよ、少林拳が日本で発症したのはその『第二次世界大戦後』であり、その時『日本とドイツ(ナチス)』だけが『世界の敵』として戦う事になった

何か・・何か『歴史の歯車』がおかしい。どこか『かみ合っていない』か、そもそも『与えられた歴史の歯車』が歪すぎて『違う』のではないか?

なぜ『世界から共通の敵』として葬られた地である日本に戦後に『少林拳』という『精神と体術』を強くするための『武術を継承』したのか?それは義和団の『和義』の『義理』を果たすためではないのか?

『武』とは『戦』を『止』めるための『力』ではないのか?

カタカムナ45首 武士道

右から書かれている文字の『古き少林寺の看板』・・それが『語られない』けど、右脳直観の人が気づく『歴史の違和感の証拠』なのではないか?

右目(真実)と右脳(直観)を使って体を動かしてみよう

Don’t think Feel
「ごちゃごちゃ考えていないで、感じ取れ!」

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