好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

独自体感論 痛みは意識シフトのマーキング

痛みに囚われるのではなく、痛みと向き合う事で、痛みを克服した先に観る現実は変わる。デジャヴは意識シフトのチャンスという話に、まさか『キリストやパウロ』と『贖罪と赦し』、『多次元の多幸感』が絡んでくるとは・・誰も思わないだろう深いお話

デジャヴを忘れるな

今朝久しぶりに、意識シフトの痛みのdeja vu=既視感を感じた

初めてのことを以前起こったように感じる経験

既に視た感覚=『過去』
しかしなぜ、見た・観たではなく『視た』なのか?

『視るとは客観的』であり、デジャブは『記憶(因)にない』のに『記録(果)がある』という違和感

つまり『今の私の意識』は『見てない』が『いつかのどこかの私の意識』は『観た・視た記録』

つまりは『意識が追いつく』=後追い
『元きた道へ戻ってきた』とも言える

…しかし、今回私が感じたのは既視感ではなく『既体感』

意味を調べると全部『まとめてデジャブ』にされているが、日本語ではもっと『細かく捉えられている言葉』がある事に気づいた

既視感 既にあったものを視る
既聴感 既に聴いたものを聴く
既体感 既に感じたものを感じる

そりゃそうだ、だから音楽には『ノスタルジー(どこかで聴いた懐かしさ)』がある

しかし、今回の私のデジャブは『痛み』だった

痛みが意識を繋ぎ止めた

寝る前に解したはずのふくらはぎの痺れの『痛み』を感じながら『痛みが引く』まで押したツボ

起きたら『押してない事』になっていたので、あれ?(´・ω・`)と思いながら『また押す』

『既に押した痛みの感覚』を覚えているから、そうそう『この感じ』よ(´・ω・`)と『ほぐれて行く感覚』を感じながら

起きたら『押してない事』になっていたので、あれσ( ̄^ ̄)?と思いながら『また押す』

(けどなんか前にもやってた…よな?夢をループしてるのか?)とまた『痛みが消えるまで押す』と

起きたら『押してない事』になっていたので、おや?(´-ω-)と思いながら『また押しつつ』

確実に『デジャブを繰り返してる』と気づいている

そこで、ふと『足の痛みに意識が向く状態』から『周囲に意識』を向けてみた

すると隣の家から『朝の番組の音』が聞こえ、『意識が足の痛み』から離れて、『デジャブのループ』は止まった

なるほど(´・ω・`)『痛みを観る意識』とは面白い

人は痛みで意識をシフトする

例えば周囲の世界はありのままなのにあなたは突然、『歯の神経が痛くなった』としよう

その瞬間、『あなたの意識が観測する世界』は、自分の中の『口の中の歯の神経』と向き合い

『周りの世界を観測する意識が散漫』になり、世界を観測する所ではなくなり、強制的に『意識が自分』に戻ってくる

『あなただけにしか起きてない痛みを意識』した瞬間、『あなたの主観だけの世界』となり、あなたが『客観』だと思っていた『世界の存在状態は曖昧な量子空間』になる

『他者の監視・観測』がある組織的な環境ではそうはならない

あなたが『主観の痛みを意識する世界』に入り『状況を変えよう』とする事を

『正=安定』とするなら

『妨害』として関わり、『情報』を与えて『気を引いて不安定とする周囲の世界』は

『邪』である

主観 歯が痛い→『痛みの根本原因』と向き合う世界
客観 「歯医者行け」「あの薬がいい」「この方法がいい」「甘えるな!」と『他世界解釈』

『痛みから逃げたい』という『自身・自信が無い気持ち』が『自分以外』だったら?と他力本願に『想念を分離』する

それらの『邪な情報を伝える客観的な別世界を想像して構築』するが、結局は『痛みがなぜ起きた?』という『根本原因と向き合う事』から『現実逃避』している

何故、突然?このタイミングで起きたか?

目に見える『物理的な自業自得の意味』だけでなく
目に観えない『精神的な因果応報の観点』を持つ事が重要

その『痛みと向き合っている時』は『周りに世界は存在しない』という事
『瞬間、瞬間』に『断続的』に『連続した世界が崩壊』している

これは『神経のデッドゾーン』を伸ばす『痛みを克服する呼吸』の時に使ってて気づいた事

独自体感論 神経回路を開いて限界突破の先にある間外の扉

そこで、今回『痛みをきっかけ』に、『断続的に途切れた後に繋がった世界=意識がシフト』したと感じたので、痛みとは何か?をアナグラムで深堀してみる

痛みを表す英語

痛い
it hurts
painful
sore

こちらの表現も、「pain」と並んで使われる表現の1つです。 ですが、「hurt」は他動詞・自動詞として使われることが多く、その点では「pain」と異なります。 また「pain」がどんな痛みにも使える一方で、「hurt」はケガや病気で体を痛めたとき、そして心に傷を負ったときなどに使わる表現です

さて、『独自のアナグラム』を開始しよう( ̄ー ̄)ニヤリ いままでアナグラムで様々な裏ロジックを解読してきたからね

ちなみに直近のはこんな感じ

bubbleのアナグラム 真空のバブル(666)の崩壊

elizaとeriza エリーゼの為のアナグラム

governmentのアナグラムに隠れた5人の存在

今回気になった痛みを表す英語には何があるのか・・

it hurts → ruts hit

ruts=発情・敵
hit=打つ・当たり・命中

痛いとは敵に当たる=『敵に命中』

painful→ pain ful
傷痕の性質を有する、傷で満ちた

paul inf
ポール、パウロ、小さい、無限

パウロだと『聖パウロ』
無限に『傷痕に満ちた痛み』

パウロ(希: Παῦλος[注 1]、? – 60年頃[5])は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。ユダヤ名でサウロ(希:Σαῦλος,ヘブライ語: שָׁאוּל‎、Šāʼûl)[6]とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人[7]。

それは磔にしたキリストの『茨の冠』か?

漢字で『痛』を読みといた時に『キリスト』にたどり着いた事があった

アイコン

一度聞いたら『痛み』を忘れない漢字の覚え方

『マ』が『月』を『刺』して『用』いた=『痛』=キリストを裏切った『パウロから改修されたキリスト教は始まった』事から、『裏切りの罪は無限に痛み』として感じる=罪を償う?

sore→ re so

だから、それで、再び、再生
痛みで再生する=『思い出す罪』

パウロは復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った

or es

もしくは『潜在意識』
痛みによって『内面の自己』と向き合う

なるほど(´・ω・`)『自虐や自己を正当化する言葉』の多くは、キリストを裏切った『贖罪・誤魔化しの始まり』っぽいな

パウロは『痛み』によって『キリスト』を思い出す
『痛み』によって思いださせる隣人を愛せ=in hurts=敵を打つ=(異教徒弾圧)で『苦痛』を与える

『痛みこそ正義』だと『宗教思想洗脳』を始める

soreな( ´-ω-)σ=That’s it→stat hit=命中状態

Re so → 『それで再び…キリストに』という『理想』
or es → もしくは『内在するキリスト意識に近づく痛みを』という『贖罪』

そんな訳で

『漢字の痛み』を追えば『茨で磔のキリスト=被害者』が観え
『英語の痛み』を追えば『キリストを裏切ったパウロ=加害者』が視えてくる不思議

で、そんな『キリストとパウロに意識が向く』ように私は『足の痺れという痛み』に『意識』を全て持って行かれ、周りは全て『色即是空』

この『新たな解釈を生み出す世界』から『意識』が戻ったら…なんと(@_@;)

足の痺れ所か痛みも『最初からなかったように消えていた』(俺の勘違いレベル?)

あれだけ『痛みのデジャブのループ』をしてきたのに、その『ループの原因の痛み』と向き合い

「この痛みはどこから来たのだ?」と『痛みの感覚』だけでなく、『存在意義の文字や認知』に至るまでを『アナグラムして深堀』したら

『キリストという存在』を『永遠の苦しみに追いやった弟子パウロの贖罪』を『信者に広める宣教』

信仰を広めるpain=『根源の傷痕』
その傷に満ちている『painful』が=『無限のパウロ』

痛みから『逃げず』
痛みと『向き合う』時

理想(re so)の『〜だからそれで復活』の『実現』
もしくは『潜在的な赦しを求めるキリスト』(or es)

なんか考え方が小さい(paul)終わり(fin)
やれやれ(´-ω-)soreな=That’s it→stat hit=命中状態

『痛み・苦しみ(painful)』を広げる『宗教思想のパウロ』
その根幹は『裏切りの罪を償いたい・あるいは誤魔化したい』という

小さな1人の『贖罪』と『懺悔』の『告解』

・・でもまあ、それがやっぱり『裏返る』と

贖罪は『在職』となり『ローマ法王』
懺悔は『権化』となり
告解は『開国』として『侵略』を始めたローマ帝国

『一度裏切る』やつは『無限に裏切る天邪鬼』
そう言う『性質を有する=(ful)』

そう言う思想が世界に『信仰=侵攻』して行って、『元来のキリスト意識』にたどり着くと

その『裏』だなぁ『メシア(救世主)』は┐(´д`)┌と宗教(paul)の終わり(fin)に気づく

やはり『始まり』とは『端間理』に至らないと終わらない

始まりとは端間理を知って終わりに至る

『痛みを広げる(宣教)』するのでなく
『痛みは向き合い(観念)』して受け止める

その『神経の痛み』と『観念』して向き合ってる時
人は『己の心と対話』して『悔い改め改心』して『意識』が変わる

『意識』が変われば『発言』が変わり
『発言』が変われば『行動』が変わり
『行動』が変われば『現実』が変わり
『現実』が変われば『世界の見え方』が変わる

これは有名な先人が『マインドセットとして残した格言』であるが、今日、この『言葉を引用』した私の意識は、自分でそれを『体感して納悳』に至る『地獄巡りを経た経験』から生まれた『独自の経典』を持って

誰かが書いた『本質』を『読んでいる』のではなく
自分で体験した『真実』を『詠んでいる』

さて、それを踏まえて

『足の痺れの痛み』に悩まされて、『何度もデジャブをループ』した果てに、その痛みの原因はなんだろう?σ( ̄^ ̄)?を追い求め

『ひとつの納悳する独自解釈』に至った時、『そこに導く痛み』が『消えてなくなっていた』という事は?

私の今の意識は、『足の痺れに悩まされ始めた世界』から、『足の痺れ等最初からなかった世界』へと『シフト』した事になる

当然、『痛み知る前の意識』と『痛みを納悳した後の意識』は『発言が変わる』訳だから、『行動』も『現実に起きる他の痛み』も全て『受け止め方』が変わり、『痛みに苦しむ人達への向き合い方』も変わる

特に私の場合は『訳詞如来の妙見狸』として『言葉の解釈と説法で人の心を軽くする過程』で、「痛みとは何なのか?」を『別次元の見え方で語れる』ようになったわけで

ただこれもまた面白いのが、『今の私』が『この現実で心に納悳したもの』は『別次元の私も使えるシェアの知恵』

それは『世界の果てに種を撒く』ようなもの(そういえばこれもキリスト・・)

世界の果てに知恵の種を分け与える体験

たった1人の『伝えるべき相手』に『伝わればいい』
それが『内面の自己=心』に素直に納める=『悳』

〜経てまとめる=『経典』
〜経る・hell=地獄→自極の『過程』

星の種 神仏の慈愛の業の回収

それが『痛み』

『痛みを知らない』とはまだ『地獄巡り』から『自極に至った経典』を持っていない

『魂が幼い』という事

痛みに敏感
痛みに耐えられない
痛みが怖くて逃げる
↓↓↓
痛みに耐える
痛みと向き合う
痛みを克服する

この後、3つに分かれる

痛みを与える / 痛みを味わう 邪 アンバランスな二限性の役目
不要な痛みはいらない 正・バランス 安定した時のみ

痛みが無い精神と細胞の状態は極楽

事情を内観し自浄する  極楽浄土は『細胞』に

『人』でありながら『ミクロな細胞』の世界?と思うような『別の世界』を生きて、『幸せ』を味わう『同時存在している多次元意識』の『他交換の多幸感』

他交感?と自分で書いてから意味を調べたら

自他等換
誰かを大切にすることに関する視点を交換するという意味

なるほど、『菩提心からくる言霊』という事で『納悳』した・・というより、それが言葉として自然に出てくるという事はもう『使っているから当たり前』なんだろう

心は地球 德・恩・恵(めぐむ)と読む忌み

しかし、『人』はまた自ら『痛み・苦しみ』を求めて『この争いの世界』に『意識』を戻してしまう

『痛みを忘れてしまう』から

『体感』無くして『理解』なし
『今の私の自我が得た経験』を『心に納める』

それは『学びの経典』を『天竺に届ける旅』と何ら変わらないのだから、それが終わる度に、『戻る夢を見る』のも『理』にかなっている

『意識のシフト』とは『世界の在り方』を変える
そのきっかけは『痛み』と向き合う事

自分1人の『体の痛み』もそうだけど、誰かの『心の痛みに向き合う事』でも、それは『観測する世界を変える事』になる

『立場』は人それぞれ違う
『相手の立場・役目』を理解して
『相対性』とは元々『同一(愛)』だったと気づく

人を愛して学ぶ相対性から生まれる太陽同一性理論

…な記事を書き終えてまた意識が飛んで・・

意識シフト

『別の夢』の中で、私はこんな役割を果たしていた

「マジックマッシュルームを捨てたら助けてやる!」とある男に告げる体験の中で、「なんでこんな丸見えの透明なジップロックに入れてんだよ!これじゃそのままその辺に捨てれないだろ!」と言ったら

「自殺の為にだよ!…使った事はねーよ」と

…え?『幻覚を楽しむ為』じゃなく、『自殺の苦しみ』を『幻覚で誤魔化す』ため?透明なのは『日常でいつでも死を意識』できるように?『明確な死』への『覚悟と準備』?

その『観点』は無かった(´-`)oO{考えさせられるわ〜こいつ仲間にしよう

その後、

「科学で生み出された近代科学物質は~、もはや伝統を超えた『魔よけ』になるのですよw、あ、そのままで大丈夫です~」

と『いけしゃあしゃあ抜かす袈裟きてインタビューに答える坊さん』が、『盛り塩』を『袋のまま』四門に置いて回る姿に呆れ…( ̄▽ ̄;)腐ってる

そして『意識』がまた『現実』に戻って気づく

「飯を食ったか食ってないかわからん(´・ω・`)」=『空腹の痛み』が無い=『時間経過』が分からない

体感の中には『腹時計』という反応?があるが、『腹』もまた『空(有無)の意識』に至ると、『断続的に神経と繋がる意識』が途切れ、その度に『体に宿る意識』が変わる

なう(2024/09/05 11:11:10)

ふと見た時間がエンジェルナンバーの『1111』かと思ったら最後の秒は『10』

「後1秒ズレて11だったら…」と普通は思うかもしれないが

『10=デジタル』だからこそ
『十分』だからこそ
『意識あり(1)→意識なし(0)』だからこそ

さっきまでの『意識の旅』は『空想では無い』と実感する

意識転生 1→0→1 住人十色 =人の主は人

『時がある空間』に『戻ってきた』のだと経過観察=〜『経て過ぎた事を観て察した』

その『確認』して『自認』する『指標』が無ければ、ここも『夢か?現実か?』わからない=無限ループ

さっきまでの『自殺願望者の意識』を変えて『仲間にする夢』だって、現実的に動いて部屋に押し入って現物探して、外に連れ出して運転して・・(どれどけ時間過ぎたのか・・)

でも『目的を達成』したのか、その先の『役目が無くなった時点』で目が覚めたら、時間経過は意識が飛んでからわずか『1時間』だ

その1時間で『幻覚作用を利用して死を探求』しようとする『用意周到』だけど『一線超える勇気』のない『間違った蛮勇の意識』を救い出して仲間にして来た

そう言う『ミッション』のた為に『チャネリングで意識が動かされた』のかもしれんけどね( ̄▽ ̄;)

チャネリング体験してわかった苦示現のお仕事

そういえば、ずっと前にも『デジャブ』について『体感論』をまとめていたのを読み返してみたら・・やっぱり『多次元体験の記憶』を語ってた(笑)

デジャブの正体 不完全なパラレル・ワールドの記憶

そう言う意味では、『現実世界』にしか、『時間という法則はない』のだと『改めて発見』に至る

開発ではなく『改発』=認知・意識が変わって『出直し』

( ´-ω-)σ実に面白いし、その後に眠気が無いという事は、ここまで『経た体験』を『経典』して記事にまとめなさいという、『意識の旅の備忘録』でした

『痛み』には『キリストへのパウロの想い』が込められていたんですね~と『私は納悳』して『痛みが消えた』という事は?

キリストはパウロを赦したのかもしれませんね(シランケド)

疾風人来→人中見舞→解脱解放→即身成仏(。-人-。)有難い

独自体感論 疾風人来 →人中見舞→解脱解放→即身成仏

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