好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

独自体感論 神経回路を開いて限界突破の先にある間外の扉

筋肉痛と神経痛の痛みとその後の体と意識の感覚の違いから気づく、釈迦の苦行の正体と弟子の如来達(弥勒)に与えられた課題と一歩間違うと間外者になると気づくお話

筋肉痛とは

筋肉痛とは、運動によって傷ついた筋肉の線維を修復しようとするときに起こる痛み

神経痛とは

末梢神経のうち、感覚神経がなんらかの原因で刺激を受け、末梢神経の経路に沿って生じる痛みを総じて「神経痛」と呼びます。 刺激を受けた感覚神経が痛みを感じ取り、中枢神経に伝え、「痛い」「しびれる」といった症状が発作性、反復性に現れるというものです。 神経痛には、大きく2つの種類があります。

以前、肩甲骨剥がしをした時、背筋の真ん中にピキピキ!!と神経が痛くなる事があり、無理にやりすぎたかな…と思ったんだけど、その後に治ると、今までよりも『可動域が広くなり動きもスムーズ』になった

胸骨開きの時は、神経ではなく明らかに筋肉痛で、でも肋骨と胸肉が外れて、骨の輪郭がはっきりと触ってわかるようになった

そして、現在下半身の柔軟性の為に、股関節を開くストレッチをしている時に気づいたのが

筋肉痛→筋の痛み→神経→???
この神経痛という潜在的なブレーキの痛み

これが限界!これ以上行ったら不味い!!として無意識に戻してしまい、その痛みを味わいたくないと逃げてしまう

ここだ(´・ω・`)Σ(゚д゚;)

この神経痛を当てこすり、少しづつ『痛みに慣れてくる』『その先』がまだあるぞ?と、確かにフルスロットルの力で行き過ぎるとデッドゾーンだが、徐行運転のように、熱湯風呂に足先から少しづつ入っては出て慣らすように

痛っ!うぅ…痛っ!…ぐっ…痛っ!…うが…

これ武術では『痛みに慣れる為に自らを痛めつける心法という鍛錬』らしいけど、普通に『ヨガのストレッチ』でも起きる事を考えると…ヨガは『神経回路を広げる修行』なんだろう

神経回路が広がる=限界突破

筋肉や筋の可動域がセーフティゾーン(約70%)で安全マージンを確保して動かしているのを『全力』と思っているけど、おそらくそのギリギリが『神経痛を伴う所まで使うのがレッドゾーン(約90%〜)』

一気に110%とか行くと『故障』してしまうが、90、91…92と『チキンレース』のように神経痛に慣れていくと、いつの間にか92が90のデッドゾーンの入口になる為、『安全マージン』が増えていく

という事は日常的に70%が全力だと思っていたのが『80、85%くらいが全力』になるし『柔軟性』が上がって筋を痛めるなどの『怪我』もしなくなる

これが『神経回路を開く』という事だと考えると

しんけいの言霊がしっくりくる(๑•̀ㅂ•́)و✧

強い示し全放出の伝わり

全力の力=フルパワーを出すには『神経回路を開かなければいけない』という事

神経痛=限界の痛みと向き合わないと
神=自分自身の限界と向き合わないと

限界突破はできない(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)

ヨガのポーズを『真似る事』に意味はなく、どんなポーズであれ『神経痛を感じる=自分の限界』を感じて、その限界を超えた先に『神経回路が開かれていく』

ここで面白い言葉を思い出した

神経が図太い

繊細でなく、何があっても平然としているさま。 神経が太い。 単に「図太い」だけで「神経が太い」と同じ意味を表す。

無神経

物事の感じ方が鈍いこと。恥や外聞、人の気持などを気にもしないこと

デリカシーがない

デリカシーがない人には、「相手の気持ちを考えられない」「空気が読めない」という特徴

そりゃそうだよ

神事である神経回路が広い=『レッドゾーンに余裕』があるから大抵の事は「その人の問題だろ?相手の悩みのレベル低いな(´・ω・`)」と思ってる時だいたいこんな感じw

例えるなら、開脚できる人は体が硬い人を

(なっさけねぇ、努力が足りない、逃げてるだけ、やればできるのに、あなたがやらなきだけでしょ?なんで出来ないの?)…と思いながら(口に出さない)で開脚出来ない言い訳をしてる人を(生)暖かく見守り

「…そのうちできるってʅ(´⊙ω⊙`)ʃシランケド」というが

「できねえのはお前が痛みにビビってるだけ!とっとと神経の痛みを感じる所まで痛めつけて、限界を知ってから調整しろよ」

↑↑↑ 寄り添う『デリカシー』もなく出来ない人の立場や気持ちという空気も読まないから『無神経』で、なんて『神経が図太いんだ』と思われても

神経回路を開きたいならそれ以外方法はないよ。何のために柔軟してんの?その凝り固まった頭や体を柔らかく解したいからやってんでしょ?『神経の痛み』を嫌がるなら、どんなにやっても『日常のセーフティゾーンの状態に体は戻る』から意味ないよ、辞める事をおすすめする

これが『神経回路』が開きすぎて『デッドゾーンに余裕』が生まれすぎた人の『身体と思考』

『至高の身体』はもはや『神経が空の無』に等しい。人としてどうなんだ?レベルの『柔軟さ』は見ててもはや『不気味』だよね(笑)

私はそこまでは行ってないけど、今まで『開けない所まで開脚ができる』ようになってきたのは『神経の痛み』と向き合い始めてから

今まで『細胞(肉)の痛み』を内観して呼吸瞑想してきたが、ここに来て『神経の痛みを内観して呼吸瞑想』するようになってきたら

身体操作の根源はこの『神経回路に流れてるエネルギー』であり、この肉体にも精神にも両方影響を与える効果を『意識がどう受け止めるか?』によって変わる事に気づいた

神経の痛みは触れない方がいい?

医学には様々な神経痛があるが、それはレッドゾーンを超えてしまって故障してしまった人が医療や治療の面から説明されるものであり、神経回路は人それぞれに備わっていて、どのくらいの負荷でどこにどう影響するのかは個人差がある

例えば足の長さ、胴の流さひとつで『同じ屈伸運動』でも骨の形状や突起によっては『圧迫されて痛みを感じる人』もいる

そうなると、その人は日常的にその痛みを嫌がり姿勢が他の人と変わっていき、その『変わった姿勢のライフスタイル』が生まれる。『進化の分岐点』のひとつと言っても良いだろうし、それが『遺伝の要素』になったりもする

つまり『神経』とはその人を『カタチづける輪郭』のようなものと考えれば、この神経回路と向き合って痛みを味わいながら『痛みに慣れて行く=限界突破』

『自分という今のカタチ』を変えていく事になる

痛みを知り、痛みと向き合い、痛みを克服し、『克服した神経』『さらなる痛み』を味わい、痛みと向き合い、痛みを克服し…

ってこれ苦行ʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)

そうか釈迦の苦行って肉体虐めじゃない
『神経の痛み』と向き合ったんだ

だから最後は『全てに寛容』になれて苦行をやめて色即是空、真我以外一切皆苦か

一切皆苦(下)と一切皆空(上)

『神経の痛み』を克服して『人に無神経』になったから釈迦の教えを理解できるやつはいない

と、釈迦も分かったから(´-`)oO言葉じゃ伝わらんな〜

次なる釈迦となる『弥勒達の意識(如来)』
お前らも身体を虐めて 神経の痛みを感じてみなさい と導いた

ほとんどがその痛み=苦行から逃げた(笑)

別に滝行とか鞭で打たれたりとか、表面的な肉を痛めつけても意味はない。神経の痛みを感じるのは、自分で自分を『精神も肉体も負荷かけて緊縛』する事

追い込み方が肉か?神経か?
『神経』に触らなければ本懐ではない

薬師如来=神農・炎帝は自ら『毒』を飲んでは『苦しみ』、そしてその苦しみから『対策となる漢方薬』を生み出した

みんな釈迦の教えの実践の『宿業過程』が、結果的に世の中の人の『痛みや苦しみ』自ら味わい、『ブレンド』して『心と体のレッドゾーンを拡張して寛容』になっていく

そしてそれを救う『自然の恵みを応用した徳を積む行為』になっていた

よくできてるな〜(´・ω・`)弟子に学びの過程を回収させる業システム(授貴品)

まさに業に入っては業に学べ

多分、郷に入っては郷に従え=『都合に合わせろ』っていうのは、時の為政者が都合よく『解釈を捻じ曲げた』のだろう

釈迦の教えって体現・体言・体験

体が経験して(行動)
体に現れて(痛み・苦しみ)
体が言う(克服しました)
↓↓↓繰り返しの積み重ね

1111

って書き終えた時間が1111

足の開脚で『神経の痛み』を感じつつ、『神経回路拡張』しながらこれ書いてたから、まさに『釈迦の教え』だったのかもしれない(笑)

釈迦は達観してデリカシーなくて、神経回路が図太く拡張されて、もはや『常人から見れば理解不能な無神経な存在』だけど

『自分がそこに至る過程(苦行とは)』を弟子に伝える為に、弟子はその『軌跡(神経限界突破)を体験』する事になる(授記品)

とはいえ、『神経は人それぞれ』だから、『それぞれの限界突破』のやり方があり、それは自分で探す必要がある(運命の悪戯=邪魔を乗り越えるのも修行の隠し味)

神経の痛みから逃げる者は
神と向き合う覚悟がない

『神とは自分』であり、『自分の限界は自分で決めている』からこそ、『限界突破』もまた自分で決められる

その神経回路拡張の過程で図太くなれば、大抵の事は笑って柔軟に受け止められる

『不安』って『緊張で固まる事』から生まれる。『冷えて硬い』『衝撃(ショックドクトリン)』が通りやすい。経済が冷えて、社会が緊張すると、無理やりな改革が起きる

それを踏まえて、『2025年の不安扇動』している人達は『神経過敏』『思い込みの固定概念で頭が固い』んだろうね(笑)

2025年に不幸が起きるという流れ(契約更改)を考える

暖かく柔らかいと衝撃は軽い。物質でも精神でも社会の仕組みでも同じ事

なんにせよ、神経の痛みと向き合いながら『昨日の自分という限界突破』をした結果、明日の自分は緊張がほぐれて笑えるって事

これが釈迦の伝えたい苦行=神経と向き合えば『自分というカタチは変わっていく自己形成』

人として生まれた『弥勒が釈迦になる為のひとつの工程』なんだろうね

そしてこの過程で間違う者もあらわれると思ったのは、仏陀マゾ説=苦行は快楽

神経間外者 痛みを快楽にする間違いのマゾヒズム

これは私も『一線越えたらなりそう』・・と思ったのが神経の痛みを感じる=失神ギリギリの『極限』へと繋がってる。その状態に『慣れる』、その状態を『赦し受け入れる事』

すると『その感覚に依存』していく
その感覚がなければ『神(限界)を感じられない』

=自分をあらゆる方法で痛めつけて、神経の痛みを感じる方法を探す。限界の痛み=神の実態と繋がる儀式、その痛みに浸る事が喜び

周りからみれば、一線超えて間違いに至ったマゾヒスト

マゾヒズム(ドイツ語: Masochismus 英語: Masochism)または被虐性欲(ひぎゃくせいよく)とは、肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプ

マゾヒストの言霊は
需要が内に外れて根源へ進んで統合する

=間違い・間外もの

私は筋肉=細胞の痛みに寄り添って回復を早める為に内観する呼吸法を身に着けていたが

独自チャクラ理論 痛みを回復させる呼吸

神経の痛みって最初は『頭が真っ白』になってそんな余裕がなかったんですね。だけど、その痛みの入口ギリギリで慣らしていくと

『神経の痛みの感覚』をちょっとずつ『内観』できる事に気が付いたんです。神経の痛み=自分の『今の限界領域』に意志氣した呼吸でアクセスするって・・真理の扉を開いて代償を払うような感じ

真理

だんだんと神経をすり減らして、神経の痛みに慣れて、とうとう無神経のヒトデナシが当たり前になる

それは一線を越えた間外との契約

…うーん(´-`)oO{人を超えた神の悟りってそこなん?って『疑問』を感じた釈迦は『一線超える』前に苦行を止めた

そして、『人としての余生を過ごす』のはやっぱり賢い
真理の探究、錬金術としてもそこは同じになるように・・

結局は欲=エゴを手放す事にたどり着くという事は・・
何の為に限界突破=神経をすり減らしているのか?

それは限界突破=神経をすり減らす事が意味がない事を学ぶ為

なぜ意味がないか?それを納得できないから体験を求める
体験・体現・大言しなければ、自分自神を納得できない

『最後は力を失う事』『納得して受け入れる為』

釈迦の教えはシンプルだけど実践しないと納得できない
滅多にない貴重な体験だから有難い(。-人-。)

何でも有りな世の中なのに滅多にない
有るのに得ないではなく、得難いから困難

手に入れても理解は困難で、こんなん無理(ヾノ・∀・`)と捨てる神ありゃ拾う神あり

そうやって誰もが捨てたものを最後に拾う、疲労を披露するのが弥勒
後に釈迦になる者、真似できない、真似したくもない事をやるマゾヒズム

間外の領域=加護の外=籠の外
真理の探究とはシンプルだけど難しい
とても軽いのに重く、浅くて深い、狭くて広い
遠いようで近く、ゴールがスタート

真逆を語れば語るほど間逆で面白いが面白くもない
始まりは終わりで、終わりが始まりの堂々巡り

そこまでわかってもう一度

マゾヒストの言霊は
需要が内に外れて根源へ進んで統合する

=間違い・間外もの

間外から巡って間中=真中
真中=心の中心の中間=仲間

間外も仲間=全ては自分中心
やっぱり限界=境界=限りを決める神・心・真は自分

『今の自分』を受け入れる事で満足する=足るを知る
やはり、釈迦はシッタールタの『名は体を表す』カタカムナ

シンプル哲学 足るを知る=シッタールタ

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