釈迦牟尼…どうして尼(出家女性)がつく?釈尊、問題解決は尊い?→和を持って尊しとなす=和とは問題解決であるという言葉の不思議
夢のあらすじ
昔一目惚れした初恋の人含む仲間で一緒に行動していた。やっぱり不思議で、その人以外はいつもの気心が知れたメンツでいつものナチュラルな感じだったのに
その人を『意識した瞬間』から夢の世界が『夢のような現実』なのに、『明晰さ』から遠ざかり何をしてても『ふわふわと地に足がつかない感覚』だった
…という夢から覚めた時
釈迦牟尼?釈尊?釈迦無二?…存在しないだと?!(´-`).。oO
なぜそう感じたのか、深く洞察してみたら、前にまとめた感覚で
『約束された皇帝の座』を否定し『全ての傲慢』を手放した存在。これ以上、この世における『自由意志の証明、執着を手放す』を『例えられる説法』はないシッダールタの足るを知ったー仏陀物語
お釈迦=壊れる
お陀仏=崩れて無くなる
釈=問題を解決
迦=巡り会う
釈尊=問題を解決する尊さ
釈迦牟尼=むさぼる・覆う尼(仏門の女性)
…おや?(´-`).。oO
釈迦には『色んな呼び方』があるとは思ってたけど、釈迦牟尼になると『尼(女性)』になる。しかも『牟』が着くと、『むさぼる・奪う・覆う』等の意味が入ってくる(´・ω・`)
これを『どう解釈するか』なんだよね
『釈迦』 自体が問題を解決する事に巡り会う
これで『因果法則として自己完結』している
そこに『牟尼』がそのままの意味で着くと『覆って貪る出家した女』…
まるで『虎の威を借る狐』
狐の嫁入り→『仏門に女性』
『出処が分からない女』が『釈迦の知恵(問題解決)を覆って奪う』ような…
そんな『レッテル』と言うか『嫉妬』と言うか
逆にそれをレッテルの反対の『いい意味』に変えたとしたら…
問題解決に巡り会う
『質素』で『与え支える尼』…
おや?まるで『慎ましやかに寄り添う修道女』?のような…聖母マリア?
うーん『神仏習合』のような『男女一対の構造』が見えたような…
しかし、それは『存在』として見た場合であり『概念の説法』で捉えた時
それは『問題解決に巡り会う』←釈迦
『足りないを和足す』←牟尼
…それは
『唯一』と『無二』ではないのか?
『DNAの核』と『ミトコンドリア』ではないのか?
『問題を解決』する『唯一の方法』は
『足りない』を『和足し』て『差を取る』事
『和心』を『悟る』事
和足す→質素・与える
差取る→貪る・奪う
…そう言う意味では今朝の夢は…
『一目惚れで心奪われた君』がいれば『世界』なんて『ただの辻褄合わせ』
『等身大の二人』が『一緒のベクトル』に居る為だけの『仮想空間』を何度繰り返してもいいビューティフル・ドリーマー(ラム(鬼女)の夢の中)
『真我』以外『一切無常』
…悩み?苦しみ?何それ?どうでもいい、ほっとけ!(笑)
一緒にいれば『気』を引きたい!
離れそうになったら『引き寄せる』
『恋』とか『愛』とかそんなんじゃねーんだよ!『一目惚れ』ってのは『この世の理屈』じゃねーだよ
初めて見た瞬間に「やっと逢えた…」と言う『達成感』から始まるから、『喪失感』は『この世の終わり』に等しい
…とわかった所で、その想い人はかつて『夢で別れ』を告げてきた
でも『あの夢がきっかけ』でまた次元を超えて探しだす!と『精神修行』が始まり、その始まりが『無意識の釈迦の呼吸』だった
問題を解決する事に巡り会う、それって『引き寄せ』だろ?
そしてその引き寄せてきたのが、色んな事を夢を通して導いてくれた『先祖達(別の選択をした自分達)』であって、気がつけば『問題解決した経験』から、『自己表現』するようになって、『例えの説法』をまとめて『誰かに和足す心』が育まれていた
『想像して創造』する『産みの喜び』を知り、いつの間にか『自己を労り慈しむ心』を持って、『体の細胞や共存細菌』と向き合い『内観して観世音』して『自己治癒を促進』するようになり
「和を持って尊しとなす…」と当たり前のように『穏やかさ』を感じた時
『一目惚れした君(物質)』を求めなくなっていた。それは『男女の愛』である前は『親子の愛』だったと納悳したから
問題解決を『尊し』とする為に『和心(大和撫子の優しさ)』を持つ=釈尊・釈迦牟尼
夢の中の私は『君がいれば世界は明るい』
君が離れてしまえば『闇に覆われる』
そういや、出逢った直後の小学生の時はこんな気持ちだった
月〜金まで逢えるから心は太陽を感じ
土日は姿を見れないから心は月を感じ
尊=和心があって
釈=問題解決に至る
その尊し和心とは『産みの喜び育ての苦しみ』を知る『女性の優しさ』
と書き終えた時間が
なう(2025/10/09 11:11:51)
遠く良い良い恋(≧∇≦)bエンジェルナンバー
…なるほど(´・ω・`)やはり感じる漢字に真に『納悳できる歴史』あり…と言うか、これも『歴史?』なのか?というくらい、『名は体を現す』ように『よくできた説法』すぎるんだよ(笑)
『体感』があるとより『実感』して理解してしまう
現に『釈尊・釈迦牟尼の漢字の意味』を読みといていたはずなのに…頭の中の映像は『昨日の夢の記憶』
ま、今日の気づきは
釈尊=『問題を解決する事は尊い』
『和を持って尊し』となすと『同義』なら
『和』とは『問題解決』を指す事になる
釈迦牟尼=『貪る尼』が『貶めるレッテル』なら
反対は『めぐり逢い和を与える妻』、つまりは『預言者の巫女』
仮に『釈迦とキリストが同義』なら
『釈迦牟尼と聖母マリア』もまた同義
いずれにせよ『魔女狩り』に『廃仏毀釈』と『都合が悪いと消された存在』であるが
どちらも『和をもたらす存在』である事から、この『お陀仏』して形無き『お釈迦様』になった先祖を人と共に養い『先祖供養』する
その心はやはり『和心』が無いと出来ない事
男性性が『意欲と好奇心』なら
女性性はそれを『和足して遊ばせる心の広さ』
『DNAの核』が思いついて色々設計したら
その通りになってあげる『ミトコンドリア細胞』
ま、そんな感じで『釈尊』と『釈迦牟尼』という漢字を身近に感じた、『この世の外』から始まった『一目惚れの相手を思い出した夢』のお話でした(*^^*)
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