好奇心

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感覚的量子論 ホログラムと夢の記憶の仕組みの一致

夢の記憶とは二次元に映し出された三次元のホログラムと理解した事で、大事なのは参照光と投射角度の調整という、やっぱり物事は照らし合わせてみないとわからない多次元・多世界解釈の高示現のお話

ホログラムの仕組みの動画に導かれ・・

夢の記憶をさかのぼる時、覚えている体験シーンを映画を見るようにリプレイするが・・その時に初めて、夢の主観性と客観性の両方を『俯瞰』で捉えている

この客観性=相手がどのような意図を持っていたか?を洞察する意味で、発言や行動、目的を主観の自分からも対象の相手からも『離れた観測点で分析』している『今の私』は・・

まさに『ホログラムの参照光』という観点で、『二次元に記憶された存在しない三次元』を思い出していたのだ

この動画の中で、私が伝えたいと感じたシーンのスクショをいくつか踏まえて、『夢日記』をつける過程での『私の体感論と相似』する点を説明しよう

夢記憶とホログラムの相似点

まず、これが私が寝起きに『目を開く前の亜空間』のような状態で、『夢の記憶を参照』している視点であるとする。『立体的かつ動きがある像=体験』が見える

この白い波(光)が『見たままの記憶』だとするなら、それを角度をつけて『立体』に映し出そうとしている参照光が『今の私の意識(光)』であるとして

その参照光の『投影角度によって物事の見え方』というのは大きくかわり、『まったく違う解釈』から『同じ物を映し出して認識する』というのも

夢の中でも『同じ物事の表現』が『階層の深さの違い』によって『認知(見え方)が変わる』ように、焦点が合う角度が一致している

『この現実』から見ると、『夢の世界』というのは、『二次元の絵』のように、『実体は無いホログラム』であるが、その光の当て方、光源の位置によって

『見え方が違う』という意味でも、光を当てる角度を変えてみれば、『まったく違う想定外な発見』に繋がったりするという意味では

『物事を照らし合わせて見る』という『多次元的な解釈』があれば、『夢』という『ホログラムの記憶』は、『夢日記という記録された一枚のフィルム(光)』の中に、『参照光という自分の観測意識』があれば、『自分に与えられた叡智の図書館』ともいえる

ジオメトリックス

『照らし合わせる』という幾何学的かつ量子的な言葉

そして、この物理的観点で『数値が光の交差を幾何学的に見せるこの画面』を見た時に確信した

『焦点』が合わない段階で見える模様、その『色の絡み合い』・・私はこれを『目に見える光の粒子の集まり』を追っていくと『ステンドグラス』のように見える・・と過去にはっきり言っていた

光の粒子

目を瞑ると見えていた光の粒子

これ!これだよ!これなんだよぉぉぉぉキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

全ては『独自の体感論』に過ぎなかったが、物理の法則が『光の仕組みが裏付け』としてできた事で、私が今でも見ようと思えば見れる『光の粒とその先のステンドグラス』というのは・・焦点が有っていない

『投影光』や『映し出すスクリーン』に対して『参照光の角度』が定まっていないだけの『量子的不確定な状態』を見ていたから・・こういう体感実験的な発見にも至った

独自チャクラ理論 光の粒子と呼吸の連動に気づく

ソマチッド 光の粒と量子と付喪神

感覚的量子論 言霊で揺れる木霊とLIVEで楽しむ声明

そう、最近は『音で世を見る=観世音』において、音もまた周波数という『光の波』であり、そこには『カタチを持たない意識=波動』がある

波動は『共鳴する周波数の振動の伝わり』によって影響がでるからこそ『類友』にしか『共振』は起きない

『喧嘩は同じレベルでしか起きない』の法則のように、私の粒子は『現実的な事に興味を示さない』ように『焦点が合わない=量子が確定しない』から『自由』

これが『波動の違い』であり、『波動を高める=精神性が上がる』と当然、『観応する周りの存在』が変わる

最近、『鬼やら仏や釈迦やら弥勒』から・・『古代巨石文明』と『艮の金神や優しき巨人伝説』など

空海の霊場物語7 そして鬼=巨人伝説へ

現実では『見えないけど有る』ように『量子の観測が夢で体験』をさせてくる物事は、後で『光源位置』を変えて振り返れば、実は『まったく見え方が違う発見』をする為の『形象の継承』

例えば、大日如来と言われたら、『大仏』を想像する
しかし、大日とは、太陽よりも輝くまばゆい光=『閃光』と認知が変わり
その大日如来と釈迦如来が『同一視』されて大日・釈迦金輪として伝えられると
釈迦とは、『問題に巡り合い解決する』という『自力』の意味であり
問題を解決する為の『突破口は閃き』だとなれば?

『大日(閃きの光)』がきて『釈迦(問題に巡り合い解決する)』

お分かりだろうか?もはやただの『自然法則』となり、そこは『人も仏も状況』も何一つない、ただの『流れを継承している形象』だったのだと理解する

あなたは『どの段階』の『大仏や釈迦という偶像』に囚われてますか?
『波動や示現(次元)が違う』というのは『そういう事』です

宗教という概念に染まれば、その『本質(教典の質)』から自由にはなれません

不本意ながら本心も本音も分からない真理

自由に真の言う今の心を仏にする事はできません=真言念仏を拒絶

真言とは『声を明らか』にする『声明』
念仏とは『今の心』が『果ては仏』になる『因果』
『老いては子に従う』ためには、素直な『悳を積む子を育てよ』=『老子』

夢の中で子供に説法していた神の覚え方

22を食え 師の師に奉公して学んだ事

私には『釈迦も弥勒』も、もはや『言葉』による『自然の法則の有難い意志の継承(カタチなき愛)』に感じます

つまり、言葉として『名(役目)と体(他意・忌)』が伝わる=同じ次元・示現で振動周波数の共鳴・共振が起きれば

『実在』という『存在に意味は無い』という事です
それは『夢でも現実』でも『観自在』という事

これは昔は『見ても意味不明だった作品』が、大人になって観てみると、世界観、キャラクターの背景、創造主の伝えたいメッセージなど
前は『焦点が一つしかなかった二次元的な記憶』が、『参照光』を当てるだけで、『違う作品』に見えるように・・

『役目や役割』という『物語全体像の奥行』を感じる『波の伝わりの領域(角度)』が変わる

映画クラウド・アトラスから思う時を超えた役割の繰り返し

夢の記憶とは『二次元ホログラム』であり
夢日記とはそれを『忘れないための記録(保管)』であり
夢の記憶と向き合い思い出すとは、光源を変えて参照して『浮彫(立体・奥行)』にする事だった

そして、現実でも『目を閉じると光の粒の流れ→ステンドグラスが見えていた』という能力は、参照光が『投影対象をスキャン』しているが・・『焦点が合わない=対象が見つからない』

以前、『倍音呼吸瞑想』で、松果体の観音開き=『息・域を引き取るの感覚』を説明をした時に、目の前に『見えている景色(あと一歩)』があると言ったが・・

それはおそらく、『焦点』が合ったから意識が観測可能な『立体空間(別の現実座標)』を捉える事もできるという事かもしれない

独自体感論 観音開きでわかった第三の目は縦か?横か?

いや~思いがけずに『想定外な閃き』がきたな~と思ったら・・このホログラムを発見した発明者もこんな事を言っていたようで

「これは穏やかさの訓練であり、何かを探して別のものを見つける技術でした。何かを探している時に見つけた利点を見ること。」

まさに、『何か』を探して『別のもの』をみつける技術という言葉通り

私は『何=人の可能性=目を閉じた時に見える光の粒子』を探して『別=ホログラム投影の光の仕組み』を見つけた

あるいはその逆で、『ホログラムの仕組みを知った』から、『夢の記憶を参照できる能力=光の粒子を見る』という『既にできていた事の理由に納悳』した

あのステンドグラスは、何=人の可能性に焦点が合わない状態=『量子的不確定性原理』を捉えていたという意味では・・

はっきり見えたら『VISION』になる・・というまだ見ぬ『可能性(拡張現実)』にちょっとワクワクする話でした

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