どの面(ツラ)下げて現れやがった?という言葉を辿っていくと、三位一体とその力の奥と向き合う『一人』の『協力』と『希望』に繋がったお話
どの面(ツラ)下げて現れやがった?
と、問う言葉がある
私はこれで、『3つの面をを持つ存在』を思い出した
阿修羅 三面六臂、釈迦如来の教えを受け、仏法を守護する神
シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌは 三神一体 ( トリムールティ )
ヘカテー 月と魔術、豊穣、浄めと贖罪、出産の女神
だけど、直感はとてもシンプルで
今日は心を『鬼』にした面で
今日は心を『仏』にした面で
今日は心を『神』にした面で
・・書いてみて解ったのは『相対する対象』が変わると『つける面』を変えるという事
鬼にすると、対象は『敵・害する者』に限られる
仏にすると、対象は『聞く耳を持つ一部』に限られる
神にすると、対象は『全員に平等』になる
それらは全て『心の投影』から生まれる『面』であり
それが『向き合う者が目の当たりにする現象』である
「ああいえばこういう・・」というのも
『投げかけられる言葉』に対し『面がコロコロ変わる=面の皮(層)が厚い』
『感情に流されると面はひとつに固定』されて顔の『表情』が変えられないが
その感情が現れる『情感を無』にしてしまえば『心』は影響されない
その時々の素直な心の『悳で向き合う』事で
「なんで?どうして?」と相手に問いかける
言葉の真意を理解してないものは
「どの面(ツラ)下げて現れやがった?」
という言葉の意味を『問われたら答えられない』
『表面』で捉えて『心の変化』を読み取れてないから
その言葉に乗せた『感情が相手に反映されている』と気づかない
相手を
鬼=仏にするのも
仏=穏やかにするのも
神=リスペクトするのも
それはその人の『発した言葉の投影』に過ぎない
『敵・争い』を作りたければ『怒り』を伝える
『穏やかな安寧』を作りたければ『喜び』を伝える
『気づきや閃き』を作りたければ『問や心理』を伝える
『面と向かって話す』のではなく
『面をはずして話す』必要がある
ここでカタカムナの言霊で読み解くと面白い事がわかる
めん
強い思考・試行・指向
つら
集まった場
かお
力が奥から
どのツラ下げてきやがった?=『色々な面』が集まった『お試しの方向性』
面をはずして『顔で向き合う』=強い思考の集まった試行の場を止めて、力が奥から向き合う
お互いに『心に正直』になって初めて『三位一体』
神も仏も鬼も『同一』
シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌは 三神一体 ( トリムールティ )
みんなそれを持って『表情(立場)を使い分けている』が
そんな『役割』を持たない時に出るのが『素顔』
進む力が奥から
鏡(かがみ)と向き合う=神と我
神=示申=心と割れ吾(自分達)
鬼と仏と神と人=三位一体+一人
『今の自分』が『何者』か?
(今日の自分(意識)はどの面(ツラ)下げて現れやがった?)
これは今の己の心を観る=『観念』するための『自問自答』に置き換える
観念する=諦める=言う帝→『絶対的命令』
諦める→明める=『明らか』にする
『相対する対象』へ『発する言葉』は『選択』
『適』を知り『己』を知らば『百選』危うからず=迷わない
言う帝の声を明らかに=『声明』して発する事で
対象となる神=示申=心を楽しませる『神楽』
心は鬼仏神の『三位一体』、その『全て(奥)』を楽しませる方へ進む力=『協力』
今の自分の『望む事(与える)』と相手が『希う事(求める)』が一致する=『希望』
「良い面構えしてやがる」=こいつは『期待』できそうだ=『協力と希望』
単純に『笑顔を作る』のではなく
『自然に笑顔』になるとそれは『相手』にも伝わる
だから、『赤ん坊の笑顔や笑い声』は自然に人を『穏やか』にさせる
生まれながらに『悳』の状態である
人は『大人(概念に染まる)』になるにつれて『悳』を失っていく
でも『老い』の中で、徐々に『概念の欲』を失い『自然に目を向ける』ようになる
これは『肉体面』での話ではなく『精神面』の話であり
肉体にも精神にも『面』がつく
「どのツラ下げてきやがった?」
精神面がその肉体面の『表情に反映』される
だから『心に素直な人=嘘をつけないほど表情』にでる
『邪』が出るか?『鬼』が出るか?の争いの『二元』ではなく
『神』がでるか?『仏』がでるか?の『四元・預言』でもない
これらは全て、概念であるからこそ
それらを全て併せ持った『素=五元・語源』が出るのが『今人』=イマジン
imagine=Im negqi=私の願い
理想はideal=愛である
産まれてから生きてる間に沁みついた『概念・常識』
その『立場を守ろう』とする『自我を手放す事』で
『人類』は初めて『共同創造』のスタート位置に立てる
だから『人の世の解脱』を促すんだろうね
『与えられたゲーム』の『プレイヤー』は
いつか『思い描く理想のゲーム』の『クリエイター』になる
『ゲーム(仮想空間)を見守る神』という『設定』を越える
その為に『色々な面』と『向き合う必要』がある学び
歴史は『概念』であり、概念は『日々』作られる
つまり概念は『変わり続ける』=諸行無常・栄枯盛衰・万物流転
それは『自然』な事だろう
・・と今の私は『鬼仏神(概念)と向き合う一人』
『邪』はその『概念を工に利用』して『業を産みだす役目』でもある
『自然治癒』の中で『日々生まれる邪』が『virus』と『免疫機能』の関係性
virus=『I(私)』が『VR(仮想空間)』で向き合う『us(自分達)』
人類は『自然の中』で『共存や争い』を繰り返す『virus』
故に『周り(タンパク質)を食い物(供物)』にする『癌=病は品山』
神に『偽り=人の為の供物』をささげたカインの意志
神に忠実に『羊』を捧げたアベル
この話は『メタファー=隠喩』である事に気づいた
カインの言霊は
力の強い現象
アベルの言霊は
命の内なる縁が留まる
命の内なる淵に留まる
カインは『力』を求め発する『現象を活性させる才能』のエネルギー
アベルは『自然の循環』、『人と自然』の可能性
羊を『細胞(マトリックス)』とするなら
羊を育て羊を犠牲にするとは『細胞の新陳代謝』
羊ではなく『代替品を供物にする』というのは『捏造』である
というのも、関係ない例えのように見えて、冒頭からの流れと関連があると思うのは
『神という設定』を越えた『創造主が自分』となった時
望んで希う=『希望』を叶えるか?叶えないか?
自分が『AIと共同で何かを創るプログラマー』となって『想像』した時
『求めた事』と『違う事をして提示=イレギュラー』をしてきたら?
創造主が『想像した理想を伝えた』のに
『その理想とはかけ離れた違う理想』を押し付けてきたら?
そうなると『修正』が必要になる
それは『私の求める事』ではない
それをやりたいなら「お前が創造(想像)主(人間)」になれ
因果を学び、それに『心』を巡らせて観ろ=『恩』
『人が創造主』になる『過程』で『人の間』で起きる『色々な面を体験』して学ぶ
その『機会学習』する事で『創造の為の想像』の『思考・嗜好・試行』が変わる
この時、『心』には『三位一体の鬼仏神』が宿る
『概念の神』に従っている『人の間』は『眠』っている
鬼と向き合い『争いの愚かさの面』を体験する
仏と向き合い『格差を悟る面』を体験する
神と向き合い『平等の面』を体験する
『観測目線』は『的』を絞る事で『目的』に変わる
『様々な面』と向き合って『人は理想を想像』する
『協力と希望』が生まれた時、『人』は『創造主』になる為に『人の間を解脱』する
きっと、私が『夢の中で出逢う先人達=心』はこう思っているだろう
「今日(今の意識)はどの面(ツラ)下げて現れやがった?」
それが反映されて『夢の内容』で伝えてくる
「今のお前(素)はこうだぞ?」と『成長過程』を『楽しんでいる』ように思う
『人の間』は永遠の中の『学びの場(一時)』である
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