好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

ルーツを辿る導き(一旦休憩の雑感)

今回はちょっと思考を一休みして流れを再確認するべく自分の転機を調べると、上座部仏教、大乗仏教、ヒンドゥー教、神道、あらゆる集合的無意識の影響があったと気づくお話

宗教観の集合的無意識

始まりは無意識に釈迦の呼吸瞑想

独自チャクラ理論 無意識に釈迦の呼吸瞑想していた

これが『釈迦のやり方』だと気づいたのが、自分の精神性を高める『上座部仏教』の考え方に出会ってから、『自分自身の精神性』を高める事によって、みんなも精神性を高めれば、『みんながそれぞれ救われる』のではないか?と

達観していく物事の捉え方や実践過程を発信し始めた時は、『みんな平等の大乗仏教』の考え方の方向性に至り、魂の成長過程、『みんな違う宿題と役割』を選択して生きてそして死んで行く

『死すら役割』なんだと自然の摂理、自然の循環の考え方はいつの間にやらヒンドゥー教

だけど、日本人は元々和を持って尊し!

そのためには『日本人だからこその役割を選択』するべきだという考え方の『君が代精神』

国歌の君が代は『宗教ではない』が、日本人だからこそ、教えられた意味以上の『物事の捉え方』で何重にも精神ブーストがかかる不思議な『覚悟の祝詞』

君が代再び 千代と八千代は治世と弥治世

だから今の私の精神は、なんか『色んな宗教観』を取り入れながらも、その中で『禍』を生み出す人の地位や権力、名誉への執着という『エゴの入った教えを破戒』して、『自然に調和できる部分』だけを拾い集めている感じだと思う

そしてかつて『それをやりたかった者達』からすれば、『同じ想いを持つ魂意識』が『仲間となって先導者(マスター)』として同行しても、何ら不思議ではない

例えばかつて『ひとつの宗教観』で生きてきた人は、『その時代にあった別の宗教観』は知らない。元々、勤勉か盲信か分からないが『熱心にそれを追求した信徒』だったのなら、もし生まれ変わったら『別の宗教観の信徒を味わってみたい』と思うだろう

宗教観を追うと『宗教戦争』というものを経験する

これは宗教が戦争をするのではなく『宗教を理由』にして『都合のいい戦争を起こす』という『権力者の脇には必ず宗教がいる』という構図

これはバラモンにしてもイスラムにしても仏教にしてもキリスト教にしても例外はない

どの宗教観を突き詰めても、そのトップには必ず『道を踏み外させる立場と権力』という『エゴ』が存在する。だから私は宗教組織に入らず様々な宗教の『共感する部分だけ』を取り入れるのだろう

『宗教』もまた『小さな人社会』であり、そこには『平等』はなく『カーストという縦社会』がある。私にとって姿は見えないが、『不思議な夢』へ先導し『新しい閃や気づき』に導くと『認知している存在』は

おそらく『そう言う社会を経験』して『その中には学びは無い』と教えてくれているのかもしれない

感覚で言うと…いや、これマジで面白い話で

『師匠』がこっそり『弟子の宗教に弟子入り』して『抜き打ち検査』のモニタリングしている見たいな?(笑)

自分がシンボルアイコンとして『後世に遺した教義』があったとして、「それが今どうなってるかな〜?」って思うのは、「撒いた種がどう育ったかな?」と家庭菜園の野菜の成長をチェックするのと同じレベル

それで思ったような成長をしてなかったら…┐(´-д-`)┌腐ってやがると途端に『興味を失う』のもわかる

これは個人レベルでも同じ事

私の不思議体験や『体感をレポートする記事』をパクったコピーコンテンツの記事を追いかけて読んだ時、『そのまま引用元』としないで、まるで『自分が体験したかのように』尾ひれはヒレをつけて事実が湾曲している

そんな経験もしてないし、そんな受け止め方でもないんだよな〜と、扱われ方に『残念な気持ち』になる┐(´-д-`)┌

コピー、模倣、パクリをオマージュ、再利用、リバーステクノロジーと『美辞麗句』で都合よく理屈をこねて利用する人類は『個性の生産性がゼロ』

『生まれた理由』というルーツを辿る道を見失い
『存在する理屈』という曲がりくねった道の方向に進む愚かさ

シンプル哲学 理由と理屈

理由を追えば『どこまでも進める』のに
理屈にこだわるから『小さな社会常識に留まる』

その最たるものが 『科学技術』

その行く末は混ぜ混ぜ化合して『自然に存在しない化け物』を生み出す

錬金術と元素周期表 錬成と練成

多分、科学は『物理条件が整った世界』でしか通用しない『机上の空論』

言うなれば『地球社会』で生まれた『地球でしか通じない科学』は、別の社会では全く持って使い道がない

そんな『道具に頼る事』で人の『心は脆く弱く』なる
ならば『身体』を鍛える?(ヾノ・ω・`)ナイナイ

究極を言えばその『体』すらも地球で『今』という『空間』を生きるための『道具』に過ぎない。健康メンテナンスは大事だが、道具である以上、『経年劣化』するのは自然の摂理

こんな想像をしてみよう

人生は酸素が切れるまでの宇宙服生活

ここは『無酸素の宇宙空間』

生まれる時に『身体という宇宙服』を着る
寿命とは酸素ボンベの『酸素の残量』

『心が傷つく』とは『宇宙服に穴が空くという致命傷』だから息苦しい、『酸素欠乏症』になってもう『どうでもいいや』となった時、その『心の隙間を埋めてくれる人』と言うのは『傷を塞いで酸素を分けてくれる存在』

滅多にない有難い奇跡のような『命の恩人』、文字通り『心の友』

そうやって『限られた時間』『限られた空間』を生きている私達は宇宙服という体ではなく、中身の『意識』であり、意識にはその『限られた酸素ボンベ量』の中でこなさなければいけない『ミッション』がある

無駄な酸素は消費できない事に気づく『精神と意識』になると、やっと『外部との通信』が繋がり『管制塔から指示』が届くようになる

ザザザ…ザザ…
あそこへ行け、必要な物資を置いておく

ザザザ…ザザ…
(´-`)oOあそこってどこ?

だからその『身体で触るもの』もみんな宇宙服越しに接触する『そこに在る物質』で、唯一無二の『真の部分』と言うのは『意識』しかない

その意識が捉えた、意識が感じた『体という宇宙服』を通して『体感した経験のフィードバック』は『精神という信号』によって『魂に保存』される

究極を言えば『意識と魂』以外は『地球という空間』の中で生きるための『借り物』

自らを分ける=自分とそれ以外
割れた我=我々は宇宙人(酸素スーツで活動)と小型の母船

地球では『限られた時間』しか活動できない
24〜48時間が活動限界(無理すると酸素スーツが故障)

…という『この時代』だからこそできる『表現』は、『様々な時代の宗教観』や『個性豊かな先人達』が『新たに創造した思想作品』等が『意識の元に集合』していなければ生まれていない

私は上座部仏教にも大乗仏教にもヒンドゥー教にも神道にも、もしかしたらカタカムナや縄文にも縁があるのかもしれない。あるいは『縁あるガイド』が、「私はこういう意図を持ってあなたに託してます」と『意欲と探求への道』を示しているのかも

神秘十字線と仏眼 守護の実感

そしてこれらのルーツとも言える流れが次は『ペルシア』『ゾロアスター』『アーリア』へと繋がって行く

…前にちょっと一休みの箸休めでした( ¯꒳​¯ )ᐝ昨日の夢が、まだ整理ついてない

ロボットの中で不自由な自由を体験する夢

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