イザナミ(波)とイザナギ(凪)は、波風を起こす波乱万丈と平穏無事な凪の状態は現象として同時に存在できないが、量子的には同時に存在している量子的な一対の教えのお話
魂=鬼は云う 波と凪の性質
イザナミ、イザナギ
創世神話伝承における一対神
与えられた物語の意味ではなく、『音の響きと意図』をそのまま現代に当てはめれば『役割の相似』を簡単に理解できる
『いざ!』というは「さぁこれからやるぞ!(๑•̀ㅂ•́)و✧」という『始まりの言葉・号令』であり、「いざという時は…」という『もしもの有事な事』があった時には、という『対策』でもあるわけで
これをナギとナミの二人で『かき混ぜて様子見』というなら、それは隠喩のメタファー
『国生み=創世』とは『行動による責任』なんですね
じゃ、ナミとナギの関係は何を意味するのか?
これは『波風が立つ』という!穏やかでは無い、不穏な争いの空気を生み出すという、良からぬ事が起きる
一方で凪とは『波風が何一つない穏やかな状態』であり、このナミが起きるのと凪というのは『状態変化・状況変化の森羅万象』を意味している
つまり、こうなる
『凪の時』は『波』は存在せず
『波の時』は『凪』が存在せず
行動と責任に当てはめるなら
『変化の時』は『波乱万丈の波』が立つ
『変化なしの時』は『平穏無事な凪』になる
『現象』においてはどちらか『一方』しか見れないが、『潜像では2つの可能性が同時』にある
これを私の魂=鬼が云う
鬼は争いの波が広がり、波紋が波紋を呼ぶのを嫌いそれを察知して凪にする『抑止力の防人の門番』。そんな凪に波風を起こしたい邪はこういう
「邪魔は薙ぎ払え!」
σ( ̄^ ̄)?おや?面白いワードが
『薙刀』という道具は薙で払う『横一線』だから、攻撃方法が薙ぎ払えはわかるが・・「目障りな敵を一掃しろ!」という意味でも『雑魚は薙ぎ払え』という表現があるように
『薙が討伐対象』という表現が出てくると…薙とは『草の雉』って書くので、つまりは『自然の雉』
『雉も鳴かずば撃たれまい』という表現もやっぱりターゲットは『雉』
『雉』がなんでそんな『目の敵』にされたのかと言えば、薙=自然の雉=森の弓勢力・草の者
これは『森人』であり、桃太郎伝説における『鬼に鞍替えした雉=阿弖流為』と言える
理由は簡単で、『鬼=月の教え』を護り自然の『平穏無事を求め好戦的では無い』と知り、思い込みの先入観の『思想洗脳で討伐に動かされていたことを恥じて改心』した
そりゃ鬼と雉は『薙=凪を護る守り人』になり、『波風を立たせる邪に抵抗』するようになる
そしたら彼らは何をやったか?
歴史が語るのは『山に火をつけ山狩り』をした
風に『邪な知恵(火)を悪用』した
これもまた雉も鳴かずば撃たれまい
大いなる力の行動と大いなる責任でもある
そして土に還るその意志は、その地の風土で生まれ育つあらゆる生物に『生き残る為の勘』を継承する
甘い四つ力に対する抵抗力を鈍らせるな
勘を鋭く冴えさせろ!免疫を弱めるな
自然の物を食え、大地の種を根付かせろ
根性を持て!精神を磨けばより勘が冴える
野生の動物は『人』に近づかない(勘がいい)
鈍るとは金に屯する=集まる
『金の匂い』がすれば人は『動物を狩る』
生きる為の『食』ではなく『金の為』に象牙を取ったり、毛皮を剥いだり
大地は『人の醜い習性』を教え、それを素直に聞く動物は『勘』が冴えている。しかしその教えに反して、『人の世の食べ物』を口にした動物は、『勘が鈍って』もっと欲して人里へと降り『撃たれる事』になる
人間社会でもそれは『縮図』
勘が鈍った者は『打たれる(注射)』
勘が鈍った者は『打つ(金に屯する)』
そして、平穏無事な『凪』に『波』が立ち、『風』が吹き、そこに『邪』が混ざり込み、鬼は云う、「いざ!邪気を止めに参る(๑•̀ㅂ•́)و✧」
そう考えるとますます『凪は鬼』だと感じたのは
凪だと『鬼は現れない』=役目がないから抗体は消える
波が立って『風邪が吹く』と鬼が現れる=抗体が出動する
それは鬼が邪なのではなく鬼は『邪を滅する為』に『間違いに間違いを示す抑止力』であり、役目を終えたらまた『凪に戻る存在』
『自然の免疫』であり自然体(ありのまま)を護る『防人』
『イザ』という時の『ナミとナギの同一体』
つまり
イザ=状況に対する
ナミ・ナギ=鬼は云う=魂
合わせると、『行動と責任』には『森羅万象のエネルギーの変化』が現れる
これが『始まり』だとしたら?
彼らは最初、『失敗した』
そして『失敗を無かった事』にした
それで生まれたのが蛭子=胡=夷=蝦夷
これが実は『因果応報』における最も大事な伏線で、彼らは『行動に対する責任放棄』をした。その後にどんな『美辞麗句な綺麗事』を並べても、彼らが最初に生み出して失敗と放棄したという事は
最後は彼らに対して「それは失敗だったな?」と『創世の行動と責任』に対する『森羅万象のエネルギー』が戻ってくる。それを『云う鬼=魂』となって返ってくる
『大いなる力』には『大いなる責任』が宿る
さて、私は凪=平穏無事=自然が好きだ。諸行無常の森羅万象の自然の変化の移り変わり、四季折々の木々や虫、動物の生態の変化など観るのが好きだ
つまりは『ナギ=争いを好まない』
それを『魂の拠り所』とした場合、鬼がそう云うって事は、鬼も争いは嫌いで『平穏無事』ならそれでいい(´∀`)
しかし、ナミが立ち風で木々や小鳥がざわつき、『不穏な空気』を感じ取った時は、イザ!(๑•̀ㅂ•́)و✧と奮い立つのもまた鬼
鬼は『門番』だから『最前線』に立ち、波を広げる風邪を止める抑止力だが、『波や風が問題』なのでなく、その風に混ざって自然を汚染する『邪が入り込む』のが問題
波風は争いを持ち込み、「敵を薙ぎ払え」という・・つまりその理屈でいえば『ナギとは敵』なのであり、『敵とは鬼』なのである
鬼はただ『自然な凪で在りたい』だけなのに、その自然を破壊して波を起こそうとする『邪に抵抗』しなければいけない。願わくば戦いたくはない平穏無事の波風立たない凪を求めている
イザコザの波を起こして、薙ぎ払え=戦争・気象操作
イザ!と『波』を起こすのは『争う思想』
イザ!とその波を『抑えて凪』にするのは『戦』の中に入って『止』める『武』の思想
ナギをナミに
ナミをナギに
波とは『波動』、人もまた『粒子配列の波動』
それが平穏無事に安定してナギ
ナミとナギは一体( ‘ω’)?・・と思ったら、またまた繋がるお話が次々と・・
こんな感じでイザナミとイザナギという物語もまた『表面的にはメタファーの隠喩』であり、その本懐は『法華経』で読まないと『表面の抒情詩の物語』でしかなく、深層はそれらの『名と体』が『後世にどのように影響』しているのか?という『因果』を観なければいけない
君が代は千代に八千代に1000年~8000年の虚仮を蒸すまで、同じ事の繰り返しだから、人の世を虚仮にするものを探せ
私は『邪な金』と『菌の禁』だと目をつけてます
それが人類を何度も失敗に追い込む『借金=人は昔、金で』・・の先人達の言霊
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