様々な格言についてまわる漢数字の『七』今回は親の七光りを調べていくと仏教の美辞麗句、そして幼少期のいやいや期と思春期の反抗期の必然性の意味にたどり着くお話
親の七光りとは?
親の七光りとは、権力を持つ親を持った子供がその恩恵を受けること。 親の威光や、社会的地位と権力があまりにも大きいため、それが子供にまで影響を与える程であるという意味である「親の光は七光り」という諺が略された形の言葉である。また、7というのは大きな数をあらわすときに用いる数字である
親の光は七とこ照らす
これは「親の七光り」と同義で、親の名声や地位のおかげで子供が恩恵を受けること。 「七とこ」は「七つのところ」という意味で、先述した仏教に由来するものです。 2:親のおかげでこれは言葉の通り、親のおかげで今の地位がある、などというときに使います
仏教世界は、次の輪廻六道界とこの輪廻の世界から脱した仏界の七世界から成りますが。
・地獄道-死後、一番罪の重い者が行く世界
・餓鬼道-欲に溺れた者の、飢え満たされぬ世界。
・畜生道-人間以外の生物の、弱肉強食の世界。
・修羅道-人を許せぬ者の、永遠の戦いの世界。
・人道 -私達の住む唯一六道を断ち切れる世界。
・天道 -善き者が行く、不安救う極楽の世界。親の光りは、わが子がこの輪廻六道界のいずれにいても、さらにはこれら輪廻界から解脱し仏界に入界しても、わが子を照らし続ける、という意味です。つまり、本来は「親の威徳威光」は「その子」がこの仏教上の七世界のどこにいても及ぶ、ということです。
「地獄の沙汰も金次第」ならず、「地獄の沙汰も親次第」というところでしょうか。
なるほど(´・ω・`)仏教ね
六道輪廻を7から見渡すからラッキーセブンの七福神ってか?
都合のいい美辞麗句だな
まるで『7つの法螺貝の喇叭』を吹いて『金と本=鉢』を持ってくる『天使がずっと滞在』している『介入の大罪』でもあるから…
それはつまり仏教が『死生観を利用』して『金儲けのビジネス』を行って『味を占めている』ように
親の七光りはいい意味では無い(確信)
六道輪廻を学びとするなら、授業についてまわって影響を与えるのは、わが子可愛さに周りに迷惑をかける過保護なモンスターペアレント
言うなれば、自発的成長の妨害
どこの流派かは知らないが仏教がいかに『カースト制度』で、上に行けば行くほど『何やってもOK』みたいな『都合のいい構造化』が透けて見えた
ただ、どちらが元だったのか分からないのが
『七』に関しては『両方』の意味がある事
善い意味
親の光は七とこ照らす
七福神
悪い意味
七つの大罪
七人の天使の喇叭
こうやって並べると、まるで『打ち消し合う教義』と分かり、ひとつ言える事は、これら教義を広めた『大元の本流』があるという事
善悪が『二元論』になるという事は、意図的に善悪に囚われるように『それを用意した邪の役割』があり、その『邪が何を狙っているかを預言した存在がいる』とこまでは『俯瞰』で見れる
仏教vsユダヤ・キリスト教
片方は善行を説き、片方は悪行を説く
そのバランスの崩れる隙を狙う邪
この結末をどう預言する?
例えばこれを当事者=『親』に置いて見よう
我が子を『優遇したい気持ち』はある・・しかし『過保護』になりすぎると子供の自発的成長のチャンスを奪い『親無くして生きられない依存』を産む
だから見守ろう(モニタリング)
これが善悪のバランスが拮抗している状態
ここに『邪は後押し』する
親の七光りでもいいじゃないですか?(仏教)
それはダメなら破壊して再生『七つの喇叭と鉢』ですよね?(キリスト教)
結果『モンスターペアレント』が生まれる
六道輪廻が『概念』だとしても、それは『自業自得の因果応報』の『学びの業の回収』のサイクルであって全ては『自己成長の学びの環境』に
もう一個上の『七界』からまるで『蜘蛛の糸』を垂らして『釣り遊び』をする羅生門のような「上には上がいるんだよ?」と知らしめるように
天使の『介入を正当化』する
その七界からの介入の七光りって…私はやっぱり『七つの大罪の滞在』
なくてもいいものが『降りてきて居座る』
神のハシゴを降りて鬼を従える
=天邪鬼
天邪鬼はどっちつかずの『裏切りの二面生』を持っている
六道輪廻の上にある七界からの七光
七光=執行・失効
失効
効力を失うこと。 効果を現わさなくなること
執行
とり行うこと。実行すること
で、面白いのがこの『七』という字はひっくり返すと『力』になる
執行=力を持った行動
失効=力を失った効果
多分だけど
六道輪廻の自業自得の因果応報と関わらない『七界の世界』においては『七光は執行の力(親の威厳)』を持っている
だけど、下の世界に干渉した時点で『その力は失効』して堕ちて来る
『法螺と喇叭(嘘と建前)』を吹いて天界の知恵である『金と本=鉢』を持って、『七界=力の光の威厳』を失った波動が下がって六道輪廻の現実に堕ちて来る
親の威厳が失われ『モンスターペアレント』と化す
その『天界と現世』を結びつけるのが天と鬼の間にいる『天邪鬼』
神に『悪知恵』を入れて、地に堕とす
こういう構図が見えてくる
親は親の威厳を保つ世界
子供は子供の世界で成長する
『見守る事』はあっても『手出し』はしない
これは『地球』に対する『他惑星の戒律』でもあり、それもまた『他惑星』にとっての『誘惑への試練』
だから介入者=『波動が低い』
波動が低い=『類は友を呼ぶ』
『地球の波動が低い』と『波動が低い者』を呼び寄せる
だから逆に面白いのが『波動が上がる』と、その『六道輪廻』に興味がなくなり、自然と二元論を『第三の目線で捉える』ようになり、『邪が意図的に二限の選択に追い込んでる』と気づき、『邪な罠』に引っかからなくなると
気がつくとそこは『七界』
七界に行くと感じるのが無闇矢鱈に『下界に干渉』しない
それは『授業中=成長の業を授かっている者達の学び場』であるから邪魔しちゃいけない。故に『霊界』というのはその六道輪廻に『邪魔しようとする邪な魔を排除』する『免疫や抗体』のいる所(`Д´)ノ)罒`)
私はこの七光りが『頭頂の第七チャクラ』かな?と思った理由はその上の『第八チャクラ』があるから
『七』までは『体』だけど、『八』は体から離れた所
七光りが及ぶ六道輪廻とは『第六チャクラまでのエネルギーの循環』でもある。その七界から降りようとする、あるいは『邪な介入』をしようとするのを『阻止する監視が第八チャクラ=真我』
『七界=力界』の力を肉体(六道輪廻)に使う際に『邪な魔の使い道』にしようとするのが『自我=エゴ』。エゴが体を乗っ取ると人は『間違った行為』を『正当化する行動』を起こすようになる
つまりは『第七チャクラをエゴ』に乗っ取られている状態が『魔が刺している状態』
耶魔居=病の下にマが月を刺して用いる=痛
耶=キリスト
魔=教え
居=留まる
痛=磔
『神が絶対の一神教』を妄信してきた『親社会の概念』
羊飼いを妄信して犠牲に捧げられる羊たちのなれの果て=スケープゴート(山羊)
エゴが操っている内は『痛み』を感じないが、我に戻ってその『間違いの痛み』を実感する『自業自得の因果応報』による『良心の呵責』とは『自らの心を裏切った事への後悔の自己反省と改心』、そして、その魔が刺して起こした『業の回収までがワンセットの作業』と考えれば?
業の回収とは、『業が少ないほど簡単』になっていく
逆に言えばいつまでも『エゴを野放し』にしていれば、いつまでたっても『カルマは回収できない』
さて、ここで親の七光り、七界に影響を与える親の威光とは、それすなわち『親の意向というエゴの押し付け』である
つまり、第七チャクラ=頭頂のてっぺんに渦巻いている『思考・思想が親のエゴを満たす事』になっていると『親の操り人形』のままで、この世に生まれた『自分の目的(宿命)』が果たせない
カルマの言霊は力の需要が留まる
力=七の需要=『親の意向・威光』というエゴの押し付け
まず、親の七光りの威光という『意向の言いなり』の時点で『魔に刺された状態』であり、基本的にその『親のコントロール下』から離れるための儀式が
『幼少のいやいや期や思春期の反抗期』という『親の意図を断ち切る反発エネルギー』だと思う
訳もなく親のいう事に反発したくなるというのは、『自分がやりたい事』をするために『親のエゴ』から『自分のエゴが自立』する
結局は『七界はエゴ』なんだけど、その『自立したエゴ(やりたかった事)』が『本来の学びの業』を生むと考える事ができるので
私は『納得』して以下のようにまとめる
まとめ 宗教はスピリチュアル感覚を共有するためのシステム化
『急がば回れ』とはよく言ったもんで・・先に『感覚的な明確な気付き』があるのだけど、それを『知識として共有』するために、『たとえ話で体系化』するのに『物語や抒情詩にしたものが宗教』なんだ
『天使の7つの喇叭』とか『悪魔の七つの大罪』とか『七福神』とか、結局は『7つのエネルギーの役割』を説明するための『擬人化』に過ぎず、それらは『体に備わっている仕組みと一致』する
今回はその『第七チャクラ』と『七光』を点と点、『天(精神)と地(肉体)』を繋いでみたら、七という力はどこからどこへと『繋がっているか』が見えてくる
『精神が肉体をコントロール』しようとする力であり、『親の善かれ』という意志が『子供を呪縛』しているのが『親の七光り』
幼少期のいやいやとは『やりたい事と違う』という自我(エゴ)の反発
赤ん坊は泣き喚く(拒絶)、無表情(妥協)、笑顔(満足)という、いやいや期で『自分のエゴを満たす方法』を確立する
思春期は『趣味・趣向』への興味や意欲が強く、それを『邪魔されると強く反発』するため親への反抗が起きる
その反抗に『親が屈する』と親のエゴよりも自分のエゴが強くなり『親の七光りを悪用』する
その反抗に『子供が屈する』と親のエゴに従順になり、親の七光りで『親のエゴを満たす傀儡』になる
お互いに『拮抗して反発』すると、親は子にエゴを向けず、子も親のエゴから離れ『自らのエゴの学び』が始まる
だから、実質『親離れ、子離れ』というのは、いやいや期と反抗期に起きる『精神の成長のメカニズム』とわかり、そこに『頭頂の第七チャクラの主導権争いがある』という事
そうやって考えると、私は若い頃は母の『善かれと思っての心配性』に中途半端に反抗し、『父の威厳』には完全に屈していた時期があったが、両親供に『厳格な地位の職業』についてたからか
あまりにも途中からの『人生の体感する世界の見え方の違い』から、そもそも(俺の生きている社会経験とは親の時代には未経験の常況だぞ?)と『親の知らない世界を経験』しているという感覚になり『同じベクトル』で喧嘩しなくなった
「社会的に!一般的に!・・」という『親の時代や環境の社会』と違う『冷遇された社会を観測して体験』している私では『得る知恵や思考が違う』のだから『気にする必要もない』と
『親の意向』が届かなくなって初めて(自分の人生とはなんだったか?)と『エゴ』と向き合った結果、やっと『人生の意味を問う旅』が始まった感じで
その『エゴ』がひとつひとつ回収されてと消えて行った結果、『第八感という俯瞰の観測点』から、自分の精神に憑りつき『新たな業を生もうとするウイルスのような魔』を寄せ付けない
そういう『意識(強い意志)』と『精神性(先人の知恵・魂の経験値)』と『環境(森羅万象)』がワンセットに自律=『気持ちが軽いライトワーカー』になったのかも
今では、親のほうが『子供じみた発言や行動=幼児退行』のように好き勝手やって『周り(家族)に迷惑をかけている(甘えている)』とすら見えてくる
親だからといっても『魂の経験値は子供のほうが高い』事がある。逆に言えば、そんな親を選んで『成長させる為に来ている役割』でもある(笑)
だから言えるのは、親の七光り=『親の価値観・宗教(エゴ)を妄信』している時点で『自分(エゴ)の人生』は始まらない
『親離れ、子離れ』とは現実的な一人暮らしとか故郷を離れるという意味ではなく『精神的な束縛をお互いに止める』という事
それぞれ違うのだと否定せず『尊重』する
それが親の七光りという『邪魔を自ら制する』という精神性
『親の七光りの灯台元暗し』では 自分という本質の光は輝かない
ろうそくに例えるとわかりやすい
親の七光りってろうそくの火のようなもので『限り』がある
子のろうそくに火をつけた後は『子よりも早く燃え尽きる運命』
子のろうそくに『火がついてる』のに、ずっとそばにいたら『両方とも溶ける』のは早い
『自力で燃える火』がついたら、親のろうそくは干渉しない
親が『自力で火を灯した』から見えた親の時代の闇
それと同じように子のろうそくの明かりが照らして見える世界は、その『火のバトン』を受け取った子が闇を光に変えて見えてくる世界
ずっとついて回ってみるより、火をつけたら『その後に見える景色』がどうなっていくのか?果てはどれほど『ろうそくのバトンで明るくなる』のか?その『業の行方を見守る』のも『カルマの回収』のひとつ
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