寝起き閃きワード『篩』、竹の師、竹の龍、振るい、振動、龍=流の伝わり、残るダルマに堕ちる粉、滅ぶは肉体、残るは魂、気が狂れると、氣が触れるの捉え方の違い、寝る前にヨモギ一本吸ったらこれかよ!(適量)という白龍の導き
篩とは
篩とは、紛粒状の固体混合物から、その粒径やその他の物理的性質によって、特定の紛粒状固体を選別する機器の総称。一般には網状になっている。本来は粗い目のものを「通し」、細かい目のものを「ふるい」というが、混用されており厳密に区別することも困難とされる
ほほう!なるほど、私はふるいという『道具』はわかっていたけど、その動作=『振る』から振るいにかけるだと思ってた
そうじゃなくて、ダマになっている紛粒状の固体混合物が網状の上に乗ることで、『網よりも大きい物質』だけ残り、『網目より小さい物』は下に落ちる
ふーむ・・これは『エネルギーの相似象』でいえば精神性と肉体か、光子と物質か
例えば『精神性が大きい』と『小さな事を気』にしなくなる。肉体はもともとは『小さな細胞の集合体』なので、組織という『分子の繋がりが崩壊』すると、一つ一つは網目から零れ落ちてそのステージから『脱落』するが
『肉体』が滅びても、その肉体で培われてきた『精神』だけは落ちないで残る
光子でいえば、『空間』とは波のような『網の中』に浮かぶ『一粒』であり、『特定の周波数』に共鳴してその『幾何学的形』に収まっているが
周波数が波ではなく『凪』になれば、光子は『そのままの形』でそこに残る。この場合は物理的な道具の篩ではなく、『振るい=振動周波数』で考える
この篩と振るいの『物質・非物質』の観点から試行・思考の『レイヤーを揃える』と篩にかけるとは『人の間』で『大きくなった・霊的・魂・精神性』の『選別』を意味する事になる
竹の龍と竹の師
竹の下の龍と師
角の龍と角の師
鬼の流と鬼の師
心を鬼にした師匠の流儀
これが、篩にかける『選別』というもの
『小さきもの』を求める場合、『網の下に堕ちた者』を求める
『大きなもの』を求める場合、『網の上に残っている者』を求める
そう考えれば、『天国と地獄=天と地』の『地点の違い 」がわかる
網の上で『上にあがこう』としてなくても
網が『堕とそうと振るいにかけている』のだから
ころころ転がされて、削られようがないくらい削られて
それでも網の上を転がっているようならそれは必然的に天国へと至る
ネットがワークしている=網が働いている=振るう振動
周りが振るいにかけられて勝手に脱落して堕ちていく
粉が固まる事を『ダマ・球』になるというが、これをダルマと捉えると面白い事に『相似する意味』が二つ生まれる
ダルマとは→『〇だ』=カタチ
ダルマとは「倫理的規範」「きまり」「法」=保つ者という意味
『人の間』の中に『肉』を持ち、その肉に宿りし『魂・精神』を
『利他』から学び『自己へと習合』して〇の形の『ダルマ=保つ者』になっていく
自分の中で納得した『倫理的規範』は壊されない
自分の中で納得した「きまり」は揺るがない
自分の中で納得した「法」は侵さない
心に素直に積んだ『悳』は変わらない
だから、どんなに激しく『篩』の振るいの振動周波数の『流』にかけられても、欠けない〇、崩れない〇、形を保つ〇としてころころ転がると
それは『流に乗る』(リズムが一致する)
それは『龍になる』(流れの一部になる)
そしてその流れと共に『自分にくっつく粉の粒子』を身に着けて『核融合』してより『大きなダルマ』になっていく
それは篩にかけられて『堕ちていくはずの粒子を吸着』して『救う=きゅう』
『流れと一体化』する事で、龍の『誘う波』を伝える『スサノオ』となって
常に安定の『凪の状態』へと導いていく
例え周りがどれだけ『天変地異で上下左右に振り回されて』いようとも、そのダルマの『〇と一体化』すると、常に台風の目、『無風の凪』のように影響を受けない
それは『篩にかける振動』が次に『どう来るかに合わせる』ことができるから、『霊的・精神性が大きくなる』という事は『力の伝達をキャッチするアンテナ』も広がる
『押し引きの力』というのは、『触れている所』から伝わる
人の間の肉体では、物理的に『体の一部が触れて』いないとわからないが、『心』が大きくなって『人の肉体の外まで意識が広がる』と『氣に触れている』からわかる
ここでレッテルワードの一つに「気が狂れる」という言葉がある
古語に「狂れる」(ふれる)と言う言葉があり、これはそのままの意味で「気が狂う」と言う意味でした。 これが語源となって気が触れるになったと言われているそうです
獣の王と書いて『狂』、そういう意味でも、獣という捉え方は『人間を常識』として見た場合の『それ以外の動物へのレッテル』であり
そんな人間は今は『獣を狩ることは狩猟』として、『モンスターをハント』する事は正しい事だと『一方的な認知』を持っている
これこそ『獣』という『レッテルを張られた側』からすれば獣にも色々いるのに『一方的に敵視』され冷遇される
『同じ種族』でありながら人間の『手下』、人間に『飼育』され、人間に『都合よく洗脳』された『野生を持たないペット』に対して
同じ獣でも、どちらの立場から見ても『気が「狂れる」(ふれる)』=キチガイ=気違いとして相いれないようになる
発狂した人間、端的に状態が著しく常軌を逸した人間を指す。 漢字では気違い、気狂いと表記
つまり、どの世界においても『教義に合わない敵対』が起きると、『気が「狂れる」(ふれる)=キチガイ』と言い罵り合う訳だ(陰謀・デマとか)が・・
でもそれは同時に、力=『氣の伝わる境界線に触れている』という事でもある
『空気』が変わる
『温度差』が発生する
竜巻というのは、『冷たい空気』に『暖かい空気』がぶつかる、あるいはその逆回転で『接触面が渦の力』を生み出す
96=% ここからお互いに『氣の境界線』となる『可能性』が生まれる
『0』を『1』早くつかむ=氣に触れる意識=流れ=龍の動きを察知する
『龍が動いた』時、その動きに『連動』するのが『〇』
龍が『動いた分だけ動き』、龍が『止まった時は止まる』、これが『龍の一部』になるという事=ダルマである
『丸い心』には『とげ』がない。運命、『転生』ってのは文字通り、転がって転がって『凸も凹』も全部、輪廻で経験して削れて手放した
そんな『命運を分ける玉』が生まれる流れ=『龍と共に転がって』きた時・・
つかもうぜ!ドラゴンボール!(龍玉)
この世はでっかい宝島
そうさ今こそ、アドベンチャー
・・そういう事だったのか、ドラゴンボールに導かれるな・・
そこでふと、『七つの玉』は何を意味する?と思った時、なぜか相反するように『八つの徳』という言葉が浮かんだんです
儒教における八種の徳「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を指すが、孔子や弟子の孟子が説いた「五常の徳」が基となっている。 儒教の考えの基となるもののことで、生まれながらに人に具わっているといわれる『仁』『義』『礼』『智』の四つの徳に『信』を加えたもののこと
八徳は儒教だったのか・・なんか『しっくりこない』と思ったらこれかww
『信』を加えた
これが『邪魔』なんだな
信とは『人が言う=押し付け』を人の言う事を聞けと『鵜呑み・依存・莫迦の一つ覚え』にさせる盲信の始まり
『信じる力』とは逆に言えば『信じた分』だけ『間違いや裏切り』に弱い『思い込みが弱点』となり、いうなれば『人心掌握の核』となる『洗脳文字』と言える
わかりやすい例は
『忠義』に厚い大臣はそれだけでいいのにどうして『信仰心』を試されるのか?
「お前が『信じている事(弱みめ心をへし折る方法)』を教えなさい」(秘密結社入会条件)
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌
この中に一人・・偽物=『人の為』のものがおる・・
おまえやー!!→ Σ信
「仁だって『人の為』がじゃないかって?」
人+二は天じゃ!→ Σ信
孔子と老子が比べられるポイントもこの『信』の部分が大きいと感じるのが
『孔子』は『自分の知識を人の為に生かせる』と『売り込んだ』=信じて!
『老子』は知恵を『人の為だけに使ってはいけない』と『離れた』=信じるな
もともとあった『七』にいらない『偽=信仰心』が入って『八』になった
だから『783=名病み・名闇』の種なんだ
孔子が講師として『信じてもらう為』に『人に信仰心を植え付け』、後世まで続く『悪・割る知恵=分断』だ
と思って老子の道教は?と思って調べると
道家の徳は「先天の徳」を意味します。 先天の徳とは、元々持っている「その物らしさ」のことです。 それに対して儒家では、徳を「後天の徳」と解釈しています。 こちらは修養努力の結果、身に付いた『人間力』のことであり、それを『徳』と名付けた
先天の徳=元々持っている「その物らしさ」=あるがまま・自然
うん、やっぱこっちこそ『悳』だと思うと直感が導いた。七つの玉の正体は『信仰』を捨てた自然そのものの『力=七』
七つ集まって『一つの力』になる玉
悟空達はドラゴンボールの仕組みを理解してから、『私利私欲で悪用されないように』ドラゴンボールを集めていたる。『大いなる力』を『大いなる責任』を持って護っていた
うーん、この閃きのスポンサーはご覧の提供でお送りしています状態ww
先人の専任の仙人(老荘思想)
ヨモギ(神楽耶)
白龍の導き(白龍龍神)
ドラゴンボール 龍の形象
そういや今朝の一発目に頭に浮かんだ一句も『植え付けられた信仰心が問題』だと指摘してたなw
金儲けと書いて金信者
ボロ儲けと書いて襤褸信者金に汚いも綺麗もないといい
襤褸は着てても心は錦といいその信仰を与えている
漁夫の利の撒き餌で一網打尽の信者達マネーと襤褸
真似するロボ
それが信仰今日も新しい朝が来たな
( ¯꒳¯ )ᐝなんだ俺、なんだこれ?— 進化した!たぬちきん (@TGAMEtanuchikin) March 15, 2024
結局、篩にかける振るいの『振動』が起きた時に、何か『固定された概念や常識・思い込み』、『信仰心=宗教盲信』を持っていた人は
その『立場が崩壊』した時、霧散して『飛散する悲惨な粉』になって飛び散って『網の下』に落ちる
落ちたとて、それが悪い訳ではなく、『カタチなき粉・粒子』を別の用途で必要とする『リソース=資源を確保する工程』なのだから
『自核・法』を持って『必要な事を習合(業の回収)』して『自立したダルマ(法・規律)』となるか、ぶつかりあって『核分裂』してばらばらに『崩壊を繰り返すエネルギーの一部』となるか
だから、『人間』というのは、核融合炉の中の卯卵=ウラン=『魂が入る器の中での成長する事』(例え)
日本人というものは、『今の日本人』と『先人の日本人』は違う。だから『精神』で繋がらないと『篩』にかけられて『粉々』になって何も残らなくなる
精神で繋がる=氣が触れる=心の容量が大きくなり振動=流れに合わせるリズムがわかる
『自』という『核』に『習合』して『自覚』して『流れ』に合わせて『転がる〇』となる
それが神と楽しむと書いて=『神楽』
流れと玉が一緒に動く=『龍』になる
『竹の師=篩』という道具の『動作』で生まれる『竹の龍=籠』のエネルギーの結果=選別の話でした
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